日々の音色とことば

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虚構と現実は逆転する――『シン・ゴジラ』感想

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『シン・ゴジラ』を観た。ゾクゾクした。おもしろかった。というか「すげえ……」という感想だった。終わったときに自然と拍手してしまった。

 

 

shin-godzilla.jp

 

そしてこれは、ただ単におもしろいだけでなく、観た人の胸に「刺してくる」作品だということも痛感した。少なくとも僕はそういう余韻が残った。

 

『シン・ゴジラ』は、エンタテインメントに徹しているのは大前提で、でも、東日本大震災を経た2010年代の日本を、時代というものをちゃんと照射している。1954年に公開された初代『ゴジラ』がそうであったように。きっといろんな人が、いろんなことを言うだろう。言いたくなるだろう。なぜならこれは踏みこんでくる作品だから。

 

僕は特撮映画のマニアではないし、これまでのシリーズもハリウッド版のゴジラもろくに観てない人間なので、そっち方面の深い考察とかオマージュの指摘みたいなものは他の人にまかせようと思う。

 

『シン・ゴジラ』はとても社会性を持った作品でもあるので、そちら側の視点からの考察も沢山出まわると思う。いろんな批評や感想が出揃って、評価が確定していく前に、公開から数日経った今の段階で僕が感じたことを書き留めておこうと思う。

 

というわけで以下からはネタバレです。未見の方は注意。というか、これは余計な情報いれずにまず観ることをおすすめします。

 


『シン・ゴジラ』予告

 

■なぜ『シン・ゴジラ』のゴジラは怖いのか

 

『シン・ゴジラ』を観て最初の印象。それは「ゴジラ、怖い……」だったのよね。制作陣の意図として「最初のゴジラに立ち返る」というものがあったらしいと後で聞いて、とても納得。圧倒的な理不尽さをもって、普段の生活が、日常が破壊される恐怖。それがあった。

 

ゴジラの登場は「災害」として描写される。まず、東京アクアラインで大規模な陥落事故がある。その時にリアルだなーと思ったのが、逃げ惑う群衆に「余裕がある」のをちゃんと描いていること。スマートフォンで惨状を撮影したり、避難路を歩く人が「へー、こんなところあるんだ」と言い合ったり。

 

そして東京湾に姿を表したゴジラは「巨大不明生物」としてニュース報道される。人々が海ほたるからスマートフォンでそれを群がって撮影する様子がカットインで描かれる。

 

「巨大不明生物」は第一形態から第二形態に進化し、我々がよく知るゴジラのビジュアルではなく、爬虫類に近い身体となる。そして上陸する。あの時の「眼」が怖い。意思疎通できない生物の眼。何を考えてるかもわからないし、意志なんてないんだ、ということが眼の描写だけで伝わってくる。その「巨大不明生物」が時速10数kmでただ歩くだけで蒲田から品川が蹂躙される。

 

そして、街をなぎ倒してる瞬間は「うわー!」「すげー!」なんだけど、ハッとするのは、その被害の「跡地」の描き方なんだよね。第二形態の「巨大不明生物」はなぜか海に帰る。なぎ倒された区域では、瓦礫や、木造住宅の破片や、ひっくり返った車両が、道路に積み重なっている。でも、それ以外の人々は、翌日も会社に行ったり学校に通ったり、日常を取り戻す。ニュースはL字型の画面で緊急報道となり、被害の模様や政府の対策を映し出す。何億円、何兆円の損害という話も聞こえる。

 

僕らはこの光景を観たことがある。震災だ。

 

過去数十年を経てキャラクター化されて、街を破壊する様子もすっかりエンタメ化された「ゴジラ」はここにはいない。この時点では、まだ劇中には「ゴジラ」という単語も現れていない。

 

そしてゴジラの「怖さ」のクライマックスは、再び上陸したゴジラが東京の中心で第四形態に進化して熱戦を吐くシーンだ。硬い皮膚にマグマのように滾っていた赤い光が紫色になり、それまでとは比べ物にならない圧倒的な破壊を見せる。基本的には「緩慢に移動する」だけだった巨大不明生物としてのゴジラが、ここで初めて自らの獰猛な意志を見せる。

 

すべてを焼き尽くせ。

 

東京が絶望に包まれる。ここで鷲巣詩郎の音楽がゾクゾクするような美しさと高らかな神聖さを奏でる。

 


『シン・ゴジラ』予告2

 

やはり僕らはこの光景を観たことがある。使徒だ。

 

僕らの知っている街と、暮らしが、壊される。単なるディザスター・ムービーの快楽としてではなく、リアルにそれが実感される。

 

それが『シン・ゴジラ』のゴジラが「本気で怖かった」理由だと思う。途中で「もうやめてくれ。これ以上街を焼かないでくれ」と感じた理由だと思う。

 

■「現実 対 虚構」の構造

 

ここまできて、いろいろなるほどと思うことがあった。

 

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今回の『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「ニッポン 対 ゴジラ」。公式サイトでは「現実 対 虚構」として、「現実」に「ニッポン」、「虚構」に「ゴジラ」というルビが振ってある。

 

本編を観終わったあとで振り返ると、このキャッチコピーがとても秀逸であることがわかる。

 

映画のストーリーは、かなりのウェイトをさいて政府の対応を追っている。政治的、軍事的な駆け引きや情報交換を忠実に描写している。官僚にメモ出しされる大臣とか、会議室に立ち上げられる対策本部とか、コピー機や段ボール箱にかき集められる各種資料とか。「今の日本にゴジラがあらわれたらどうなるか」というシミュレーションが綿密に行われている。

 

そして、最初に「巨大不明生物」が上陸した時の日本政府は、はっきり言って上手く対応をとれていない。「そんなことがあるわけない」と想定外の予測を棄却して事実確認に遅れる。記者会見で発表したこともリアルタイムに進展する新たな事象によってあっという間に覆される。会議ばかりで話がまとまらない。招集された学者の意見は参考にならず時間のムダ(ここ笑いどころだったなー)。

 

結局、政府は何をすることもなく、ただ海に帰るのを眺めるだけになる。そして東京が放射能汚染されていることが民間の計測で明らかになり、メディア発表よりも先にネットでそれが広がり、やはり対策は後手後手になる。

 

つまり、ここで描かれている「ニッポン」、「虚構=ゴジラ」に立ち向かう日本は、東日本大震災と福島第一原発の事故に対峙した現実の日本政府そのものだ。かなりのリアリティをもってそこを突き詰めている。どうやら取材協力には枝野幸男がクレジットされているらしい。脚本を書くにあたって、巨大災害、そして原発事故にあたっての危機管理について綿密に取材したのだと思う。

 

しかし、作中で、虚構と現実は逆転する。

 

第四形態で街を壊滅させたゴジラは、エネルギーを使いきり、再び活動を停止する。国連によって核攻撃が決議される。再び目覚めるまでの猶予は2週間。

 

前述の日本政府は壊滅し、対策チーム「巨大不明生物特設災害対策本部」で主人公としての活躍を見せてきた内閣官房副長官・政務担当の矢口蘭堂が強いリーダーシップをとりはじめる。研究者たちによって、ゴジラを凍結させることのできる希望が示される。「ヤシオリ作戦」と、それが名付けられる。

 

ゴジラの体内に溜まっているエネルギーを使い果たさせ、ゴジラを転倒させ、倒れたゴジラの口からポンプ車で凍結剤を流し込むという作戦だ。地味である。核攻撃に比べてはるかに地味ではあるが、重機と鉄道を駆使した(この夏最高のパワーワード「無人在来線爆弾」!)とても日本的な攻撃手段だ。

 

そして、これを遂行する日本政府は、前半に登場する日本政府とはまるで別物のような敏腕さを見せる。情報収集の巧みさ、意思決定の速さ、国際的な協力をとりつけるしたたかさ。すべてのピースがあっという間にバチバチとハマっていく。解決に向かっていく物語のカタルシス、エンタテインメント要素を重視した演出のせいだと思うけれど、前半に描かれたような「ぐだぐだ」は一切排除される。ほんのわずかな手掛かりから導かれた「希望」に全員があっという間にベットする。前半にあれだけ念入りに用いられたマスメディアの報道や避難する一般市民の視点はぐーっと後景に追いやられる。

 

「ヤシオリ作戦」という言葉は、日本の古代の神話に由来している。古事記や日本書紀に書かれる、スサノオノミコトがヤマタノオロチという大蛇を倒すときに用いた「八塩折之酒」の名前からとられている(と思う)。

 

が、観た人の多く「ヤシオリ作戦」という名前から別のものを想起するだろう。エヴァの「ヤシマ作戦」だ。それぞれの持ち場の人が力を発揮し、誰も足を引っ張ることなく、すべての人が犠牲を厭わず協力して一つの巨大な敵を倒す。そのプロットはヤシマ作戦にそっくりだ。

 

『シン・ゴジラ』の後半においての「ニッポン」は、「現実」ではなく「虚構」をなぞらえている。そう僕は考える。

 

つまり『シン・ゴジラ』の「現実 対 虚構」は二重の構造を持っている。前半では、現実(=日本)が虚構(=ゴジラ)に蹂躙されるさまを。そして後半では、圧倒的な現実(=ゴジラ)に立ち向かう虚構の希望(=日本)を描いている。

 

そして見事ゴジラは凍結する。

 

観終わった時に、絶望ではなく、元気とか勇気のようなものを感じた人が多かったのは、思わせぶりのエンディングで「留保つきの解決」だったとしても、ちゃんとエンタテインメントをまっとうして「希望の勝利」を描いたからだと思う。

 

 ■虚構の力を信じるということ

 

庵野秀明という人、そして樋口真嗣という人は、本気で「虚構の力」を信じているんだと思う。渾身の力を込めた虚構は、決して絵空事ではなく、現実に作用しうるということを、『シン・ゴジラ』で示したんだと思う。

 

そのことが伝わってきたのも、僕が『シン・ゴジラ』に大きく感動した理由だった。

 

『ポケモンGO』が世界中で社会現象を巻き起こしていることが象徴的なように、今の時代のテクノロジーやアーキテクチャの向かう先は、映像メディアに立脚した「虚構の力」の次を探すタームに入っていると僕は思っている。二十世紀的な二次元のイメージが作り出す「虚構の力」よりも、現実世界の座標軸の中に浮かび上がる「架空の力」が強まっている気がする。

 

このあたりのことは、AR三兄弟として活躍する川田十夢さんと話したり、現代の魔法使いとして知られる落合陽一さんの本を読んだり、それをプロデュースしている宇野常寛さんが語っている内容から僕なりにインスパイアされていることではあるのだけど。

 

そんな時代に「虚構の勝利」を真っ向から描いた庵野秀明監督の力量は、やはりとんでもないものだと思った。

 

おもしろかった!

 

まぶしい光の中でゴールテープをきるということ――BOOM BOOM SATELLITESの最後の作品に寄せて

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今日の記事はBOOM BOOM SATELLITESの新作『LAY YOUR HANDS ON ME』について。そして、「何かをやり遂げる」ということについての話です。彼らのことを知らない人にも届けばいいな。

 

■闘い続けてきたバンドの最後の凱歌

 

BOOM BOOM SATELLITESは、6月22日にリリースされる新作『LAY YOUR HANDS ON ME』をもって活動を終了することを発表した。

 

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ニュースでも報じられた通り、その理由は、川島道行(Vo/G)が脳腫瘍による麻痺などの後遺症で音楽活動を続けることが困難になったため。中野雅之(B/Programing)はブログにこう記している。

 

これがBOOM BOOM SATELLITESの最後の作品になります。理由は川島道行の脳腫瘍による麻痺などの後遺症です。現在、川島道行はミュージシャンとしての役割を終えて家族と共に穏やかな毎日を過ごしています。言葉はゆっくりですが話せます。手足は不自由になってきて車椅子を使う機会も増えました。正確な意思の疎通が難しいので、今彼が何を考えて何を思って毎日を過ごしているのか、僕でも少し理解しきれない時があります。しかし、この作品を作りきった充実感や達成感は感じていると思います。僕には本当に燃え尽きてしまった抜け殻のようにも見えます。「お疲れ様!」と声をかけてあげて欲しい。

 

あともう一息でデビュー20周年というところでしたが音楽家、川島道行との旅もあともう少しで終わろうしています。川島くんと一緒に数え切れないほどの景色を見てきました。何を思い返しても簡単な事は無かった。思いのままジタバタして、もがいて、駆け抜けてきました。振り返るとどれも素晴らしく、誇らしく、思い出達はキラキラと輝いています。

 

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というわけで、この『LAY YOUR HANDS ON ME』は、デビューから19年を迎えた彼らの最終作となる。4曲入りで23分弱。枠組みとしてはEPということになるのかもしれないけれど、まぎれもなく「アルバム」としての聴き応えと重みを持った作品だ。

 

LAY YOUR HANDS ON ME

 

最高傑作だと思う。最初に音源が届いてから何度も聴いているけれど、聴くたびに胸がいっぱいになる。心が揺さぶられる。でも、それは僕が彼らのことをよく知っているからだけではないと思う。この4曲の中に込められたもの、音楽に宿る力そのものは、時代や状況を超えてちゃんと伝わっていくと思う。

 

表題曲「LAY YOUR HANDS ON ME」は、強靭な四つ打ちのビートに乗せて力強い歌声が響くダンス・ナンバー。

 

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歌詞にはこんな言葉がある。 

 

Lay your hands on me while I'm bleeding dry

Break on through blue skies, I'll take you higher

ずっとその手で触れていてくれ、生気が抜けてゆく僕のからだに

青空を突き抜けて、君をもっと高いところまで連れて行こう

 

YouTubeに公開されたミュージックビデオには、可愛らしい女の子が満面の笑みを浮かべて砂浜を走ったり、おもちゃで遊んだり、ギターを抱えてジャンプしたりする、無邪気で愛らしい姿が映し出されている。

 

この女の子が川島道行の実の娘だということも明かされている。ファンや彼らを知る人にとっては、この映像には、胸を締め付けられるようなものを感じると思う。でも、この曲がアニメ『キズナイーバー』OPテーマになったことで、YouTubeのコメント欄には、それを全く知らない海外からのいろんな感想が英語やスペイン語やロシア語で書き込まれている。国境を超えて届いている。そのことを、なんだか嬉しく思う。

 

2曲目「STARS AND CLOUDS」は、キラキラとした光に歌声が包まれるような、静かな、とても美しいバラード。

 

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その2曲で感じた賛美歌のような感覚、高揚感と抱擁感をリプライズしていくかのようなアンビエントナンバーの「FLARE」と、先鋭的なビートと声を重ねあわせるインストゥルメンタルの「NARCOSIS」が続く。

 

この「NARCOSIS」の終盤、フィールドレコーディングによる街の雑踏の中に、音楽が溶けていく。過去の作品でも彼らはアルバムの最後の曲をこういう環境音を用いた曲で終えていた。どこか浮世離れした場所じゃなくて、あくまで日常の中、普段の生活の中に音楽がある、ということを表現していた。

 

そして、ヘッドホンで聴いていると気付くのだが、この「NARCOSIS」にも仕掛けが凝らされている。最後の最後、静寂の中で川島が「すぅっ」っと息を吸い込む音が聴こえる。そこに、すごくハッとする。

 

noteにも書いたけれど、僕は「LAY YOUR HANDS ON ME」という曲は「凱歌」だと思っている。BOOM BOOM SATELLITESは、ずっとレベル・ミュージック、つまり何かに抵抗する音楽を鳴らしてきたバンドだった。パンク・ロックとダンス・ミュージックを、スタイルとかじゃなくて「反抗」と「祝祭」という、それぞれの精神性の最も深い部分で融合させてきた2人だった。

 

20年近くのキャリアの中でその「抵抗」の相手はいろんなものだったけれど、たぶん、ここ数年の彼らが対峙してきたのは、運命そのものだったのだと思う。とても大きな相手だ。ちっぽけな人間に勝ち目なんてない。それは過酷で、ときに残酷なものでもあったと思う。

 

けれど、でもこの曲を聴くと、真っ向から闘い続けてきたからこそ、最後に彼らは「凱歌」を作ることができたんだと思う。そしてこのアルバムに収められた4曲で、生命が持っているエネルギーのようなもの、光のようなものを、音楽に結実させることができたんだと思う。

 

BOOM BOOM SATELLITESは、こうして自らの音楽活動に幕を下ろした。到達点まで上り詰めて、そこで高らかに鳴り響くような希望を鳴らしきった。音楽の歴史を紐解いても、こんな風にゴールテープをきることのできたバンドなんて、きっとほとんどいなかったと思う。書いてるうちにどんどん大袈裟な表現になってるのは自分でもわかるんだけど、思い浮かぶのは感傷的な言葉より、「おめでとう」と「おつかれさまでした」という言葉だ。

 

■華々しい海外デビューと「ロックンロール」への道

 

というわけで。ここからは、すこしくらい思い出話をしてもいいよね。

 

BOOM BOOM SATELLITESは97年に『JOYRIDE』でベルギーのレーベルからデビューし、日本よりも先に海外のメディアで華々しく取り上げられる。時代はちょうどケミカル・ブラザーズやファットボーイ・スリムが登場して脚光を浴びていたころ。「ビッグ・ビート」なんて言葉が持て囃されていたころだ。

 

僕が1stアルバム『OUT LOUD』を初めて聴いたのは大学生のころ。こんな風にロックとダンス・ミュージックを融合して世界の舞台で戦ってる人がいるんだと知って、夢中になった。

 

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初めてインタビューしたのは2002年、3rdアルバム『PHOTON』をリリースしたときのこと。二人はロンドンに拠点を置いていた。2ndアルバム『UMBRA』と『PHOTON』は、最初の作品が持っていた突き抜けるような爽快感とは一転した、ディープに内奥を掘り進んでいくような聴き応えを持ったものだった。

 

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当時は9・11の後の殺伐とした世相と絡めてあの作品を受け取っていた。でも、後になって、この時期に、川島道行に一回目の脳腫瘍が発覚したことが明かされている。

 

当時のインタビューで彼はこんな風に語っていた。

 

「ある日命に終わりが突然やってくるものだっていうことが僕の中で実感できた時期があって」

「人がどこから来てどこへ行くのかっていうこと――自分が考えてることを歌詞の題材にしてたんだけど。ただ、今までは自分から離れた手の届きそうもないようなところのことばっかり考えてたんだけど、今回は普段の生活の中でそういうことが起こってるということを、細かくシチュエーションとして10曲挙げたかった」

(『BUZZ』2002年7月号より)

 

当時のイギリスの音楽シーンはビッグ・ビートのブームが一段落し、90年代に接近していたロックとダンス・ミュージックのシーンが再び分化していったころ。ダンスの快楽性を離れた彼らはマーケットにおいては苦戦していたけれど、その見据えるものは当時から変わっていなかった。

 

次にインタビューをしたのは、4thアルバム『FULL OF ELEVATING PLEASURES』の頃。「MOMENT I COUNT」や「DIVE FOR YOU」などを収録した、彼らにとっても代表作となる一枚だ。

 

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当時のインタビューでは、作品が「ロックンロール・アルバム」であることを語っていた。

 

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そしてその音楽性にゴスペルの要素が加わってきたことについて、二人はこんなふうに言っていた。

 

「簡単には見出せない生きる光のような、希望の光は絶対音楽が提示していくっていうものだと思っていた」

(『BUZZ』 2005年10月号)

 

「ゴスペルってね、なんて言うんだろう……すごく日々の思いをメロディにのせて、自分も参加して、その気持ちを昇華させているという、宗教的な部分の音楽だけど、歌の持つ力でできることですよね。歌じゃないとできないことだし。(略)手を差し伸べるときの手段なのかって言われれば、それは手段だし、おいでよって感じだから」(川島)

(『BUZZ』2005年4月号)

 

翌年、そして翌々年、彼らは『ON』と『EXPOSED』という2枚のアルバムをリリースする。よりロックンロールとしての強度と即効性を高めた作品だ。『FULL OF ELEVATING PLEASURES』とあわせて「三部作」と位置づけていたこの3作で、彼らはライブバンドとしての支持を高め、日本のロックシーンに確固たる地位を築き上げていく。

特に『ON』の一曲目「KICK IT OUT」は、いろんな場面で耳にしたことのある人は多いはず。

 

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■苦闘の日々と「再生」の光

 

ただ、2010年代に入ってからのBOOM BOOM SATELLITESは、それまでとは違ったフェーズに入っていた。

 

『TO THE LOVELESS』をリリースした2010年の頃は「悩んでいる時期」だったと言う。当時はこんな風に語っている。

 

「音楽は細分化されすぎている。だから、ただトレンドだけを追いかけても自分たちを見失うだけだと思いますね。そういう時代になったと思う」(中野)

インタヴュー | BOOM BOOM SATELLITES(NEXUS)

 

そして2012年末。アルバム『EMBRACE』を完成させた直後、川島に脳腫瘍の再発が発覚し、2013年1月からの全国ツアーは中止となる。

 

そしてその年の5月に、初の日本武道館で復活ライブが実現。それは、長らく僕が観てきた彼らのライブの中でも最高のものだった。ライブ・アルバム『EXPERIENCEDII』にその模様が収められている。

 

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EXPERIENCEDII-EMBRACE TOUR 2013 武道館-(完全生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

EXPERIENCEDII-EMBRACE TOUR 2013 武道館-(完全生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

 

 

しかし、その裏側は壮絶な状況だったという。

 

「あの時期は非常事態に近かったですね。精神的な追い込まれ方もすごかったし。数ヶ月でもう一度ステージに立つこと自体に無理があった。でも半年後や一年後だったら、逆にモチベーションを失っていたかもしれない。やっぱり脳の手術だし、何かしらの変化は起きるだろうと思っていたから。武道館をやり切れたのはよかったけれど、とにかく、半端無く大変なことだった。で、その時点でもうアルバムの制作に片足を突っ込んでいたんです」(中野)

「意識が混濁している時もあったし、辛いだけの時間を過ごしていたこともあった。それでも、僕はこのバンドで生まれる新曲を聴きたいので、音楽をやろうと思いを改めた時期でもあったと思います」(川島)

 

NEXUS | <インタヴュー> BOOM BOOM SATELLITES 「無駄なことなんて一つもなかった」――不屈の年月と、辿り着いた今を語る

 

武道館公演を行った時には、すでに次作『SHINE LIKE A BILLION SUNS』の制作も始まっていた。『EMBRACE』から『SHINE LIKE A BILLION SUNS』にかけては、彼らの音楽に、抱擁力とか、「光」をイメージするようなものがどんどん増えていった。

 

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「“NINE”だと<I wake up lying on the dance floor>(ふと目覚めたらダンスフロアで横たわってた)という一節が、最後の曲の一行目にきている。それは偶然だけれども再生感を得られてすごく勇気づける一行になっているんじゃないかって自分でも思っています」(川島)

インタヴュー |BOOM BOOM SATELLITES (NEXUS)

 

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「引き受けるとか、肯定的であるとか、そういう表現になってきていると思います。でも、それがレベル・ミュージックじゃないかといえば、そんなことはないと思う。それが聴き手にとっての力になる音楽であれば、やっぱりそれはそう言えるんじゃないかと思う」(中野)

NEXUS | <インタヴュー> BOOM BOOM SATELLITES 「無駄なことなんて一つもなかった」――不屈の年月と、辿り着いた今を語る

 

そして2015年7月。フジ・ロック・フェスティバルで本当に素晴らしいライブを見せた後に、5度目の再発が発覚する。11月に予定されていた最後のワンマンライブは体調の悪化のためキャンセルとなり、結果的にはその年の夏のフェス出演が彼らにとっての最後のライブになった。

 

それでも、彼らはそこで諦めなかった。二人はBOOM BOOM SATELLITESの最後の作品として『LAY YOUR HANDS ON ME』を作ることを決意し、残された時間の中でそれを完成させる。

 

「LAY YOUR HANDS ON ME」を聴いていると、とても不思議に感じることがあって。こうして振り返っても、相当な苦闘の中で作り上げてきた作品であるのは間違いないと思う。でも、鳴らされている音からはそういう匂いは一切感じない。もっと純度が高いというか、浄化されているというような感じがする。

 

「音楽が生き方に作用する、心に働きかけるものであってほしい。そういう思いは表現に託してきたものだと思っています」(川島)

NEXUS | <インタヴュー> BOOM BOOM SATELLITES 「無駄なことなんて一つもなかった」――不屈の年月と、辿り着いた今を語る

 

彼らはこんな風に言っていた。川島道行、中野雅之という二人は、お互いに手を取り合い、影響を与えあいながら、20年近くの歩みを経てきた。そういう年月があったからこそ、まぶしい光の中でゴールテープをきるような曲が完成したのかもしれないな、と思う。

 

LAY YOUR HANDS ON ME(初回生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

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日常を歌うことがプロテスト・ソングになる、ということ

以前noteに書いていたことなんだけど、MVが公開されたタイミングでもあるし、こちらにも残しておこう。

 

アナログフィッシュのアルバム『Almost A Rainbow』がすばらしい。

 

Almost A Rainbow


特にすごいのが下岡晃が書いた「No Rain(No Rainbow)」という曲の歌詞。

 


Analogfish 〝No Rain (No Rainbow)"(Official Music Video)

 

ほんとは聴いてから読んでほしいんだけど、まず歌詞を引用する。

 

「僕はバカだから傷つけなきゃわからないんだ」
「そんなあなたを選んだ私に見る目がないのね」
なんて笑いながら暮れる街を歩いていた
不意に隣をいく君の髪が風に揺れる

 

"No Rain No Rainbow"

 

「この幸せの代償に僕は何を支払うんだろう」
「何も何一つも支払う必要なんてないの」
「何故?」と問いかける僕に君は困ったように
「雨が降った後にかかる虹のようなものよ」

 

and she said
"No Rain No Rainbow"

 

寄った居酒屋は値段の割に酷いもんで
それを愚痴る僕に君は思い出したように
「ただ好きなだけでこれはサービスではないの
ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」

 

「でも…」 she says
"No Rain No Rainbow"

 

君に何かしてあげたいっておもうよ

 

雨のあとには虹がかかる。それは当たり前のこと。それを「悲しみのあとには喜びが待っている」みたいなことのメタファとして表現するような歌も沢山ある。


でも、この曲の「No Rain No Rainbow」はそういうことじゃない。もっと先のほうに踏み込んでる。


恋人か夫婦か、心を許しあえる相手と笑いながら夕暮れの街を歩く、日常のささいな風景から曲は始まる。ふと「この幸せの代償に僕は何を支払うんだろう」と「僕」が怯える。それに対して「君」が言う。「何も何一つ支払う必要なんてないの」。だって「ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」。


この一行は本当にすごいと思う。下岡晃の詩人としての冴え渡る才覚を示してる。

というわけで、ちょっとそれを検証するためにアナログフィッシュのここ数作を振り返ろうと思う。

 

2011年以降、彼の言葉は「覚醒」と言っていいほどの切れ味を増していた。きっかけはアルバム『荒野 / On the Wild Side』。というか、その1曲目に収録された「PHASE」だった。

 


アナログフィッシュ 「PHASE」

夢を買う彼はリアリスト
夢を乞う僕はテロリスト
夢を売る彼はリアリスト
夢を見る君はテロリス
失う用意はある? それとも放っておく勇気はあるのかい


2011年5月にリリースされたEP『失う用意はある?それともほうっておく勇気はあるのかい』にも収録されたこの曲。震災前に書かれたというこの歌詞の一節は、偶然なのか必然なのか、3・11以降の社会にシャープに照準を合わせたものになっていた。

『荒野 / On the Wild Side』には「戦争がおきた」という曲も収録されている。日常の情景を淡々と描写する中に「戦争」という言葉がインサートされる曲。これも、つまりはプロテスト・ソングを引き受けた曲だった。

 

2013年の『NEWCLEAR』に収録された「抱きしめて」も、実は震災の一年前に作った曲だったらしい。

 


アナログフィッシュ(Analogfish) "抱きしめて" (Official Music Video)

危険があるから引っ越そう

遠いところへ引っ越そう
畑と少しの家畜をかって
危険が去るまでそこにいよう

いつまでなんて聞かないで
嫌だわなんて言わないで

ねぇどこにあるのそんな場所がこの世界に
もうここでいいから思いっきり抱きしめて

 

そのことを踏まえて考えると、震災後の、原発事故後の現実に鋭く符合する歌詞は、あきらかに「啓示」に属するものだった。


2014年の『最近のぼくら』は、『荒野』『NEWCLEAR』とあわせた「社会派三部作」と位置付けたアルバムだった。

 


アナログフィッシュ(Analogfish) "最近のぼくら" (Official Music Video)

 

全般にループを元にした曲構成になっていて、表題曲はドラムとベースのみのシンプルなサウンド。ヒップホップにも接近したスタイルになっている。ただ、「社会派三部作」と言うわりには、メッセージを背負おうとはしていない。熱を込めず、目の前にあるものの描写に徹している。

 

このアルバムのインタビューでは「日常の風景を歌いたかった」と言っている。「そのほうがメッセージを歌うよりも自分にとって大事」だという。ただ、その一方で、別のインタビューでは「いつもレベルミュージックを作ろうと思っている」と語っている。
というわけで。


なんで遡っていろいろ書いてきたというと、下岡晃というリリシストの「覚醒」が、この「No Rain(No Rainbow)」にちゃんと結実しているから。

 

つまり、この曲では「日常の風景を歌う」ということに徹していながら、ちゃんとプロテスト・ソングになっていると捉えることができるわけだ。

 

何に対してのプロテストかというと、それはおそらく「市場化」の圧力。何かを手に入れるためには、何かを支払わなければいけない。幸福や、愛や、自由や、そういった大切なものを含めたすべての価値に、値札がつけられる。「世界は等価交換で成り立っている」と勘違いしてしまう。わかりやすく言うと「コスパ」で全てを判断してしまう価値観、ということだ。

 

この曲に出てくる主人公の「僕」は、その価値観を知らず知らずのうちに内面化している。だから、自分がお金(代償)を払って手に入れたわけではない幸せが怖くなる。コストとパフォーマンスの関係にとらわれているから、「値段のわりにひどい」居酒屋をグチる。

 

それに対して気高い「君」が諭すように「ただ好きなだけでこれはサービスではないの」と言う。私があなたのことを好きな気持ちは、市場やお金やコストや報酬には関係ないでしょう?ということだ。「ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」と。

 

それをうけた「僕」は「でも…」と口ごもる。

 

そして最後の一行にたどり着く。この曲の歌詞は二人の会話の描写で綴られているのだけれど、最後の一行だけそこから飛躍する。カメラが俯瞰から主観に切り替わって、歌はこう繰り返して終わる。

 

君に何かしてあげたいっておもうよ

 

前述した後藤正文の対談の中で「ラジオとか聴いてるとさ、サビの中で“愛してる”って言葉を言いまくる歌もあって。サビで“愛してる”を16回も言うのか、みたいな(笑)。でも愛ってそういうことじゃないじゃん?」という風に下岡晃は語っている。

 

そのことを踏まえて考えると、二人のダイアローグを通して「対価」とか「代償」とか、そういう価値観を丁寧に取り除いて辿り着いた「君に何かしてあげたいっておもうよ」というのは、そのまま「愛してる」という言葉と同義になっている。


ものすごく批評性を持った愛の表現だと思う。

 

 

(ちなみに。アナログフィッシュというバンドは下岡晃と佐々木健太郎という全くタイプの異なる二人のソングライターがいて、なので『Almost A Rainbow』というアルバムの素晴らしさを語るには「No Rain(No Rainbow)」だけじゃ片手落ちなのだけど、これ以上は長くなるのでやめときます。でも、山下達郎とチルウェイヴが溶け合ったような「Baby Soda Pop」や「Will」のキラキラしたきらめきも、すごくよいです)

 


Analogfish "Baby Soda Pop" (Official Music Video)

 

追記。

 

ライターの先輩、兵庫慎司さんが「知人のライター柴那典が、この曲に関して、腹が立つくらい(なんでよ)的を射たことを書いていたので〜」とブログに書いてくれてました。ありがとうございます。腹立てないで!

shinjihyogo.hateblo.jp

 

太陽光の感じや、影の落ち方や、アングルの切り取り方や、そのアングルの中を人やクルマや電車が通るタイミングなど、もう何もかもが絶妙。って、何がどう絶妙なのかとても説明しづらいが、いちいち「そうか!」とか言いたくなる、観ていると。

そして、それらの積み重ねによって「街の風景を描くことがそのままプロテスト・ソングになる」という、アナログフィッシュ下岡晃楽曲がやりたいことと完璧にシンクロした映像作品に仕上がっているのだ。

 

そこに書かれているMVについてのこの文章も、「まさに」と思います。