日々の音色とことば

usual tones and words

ルールが変わったときに

金融危機について、考えていることを書きます。

僕がバリで浮かれて過ごして、日本に帰ってきて高熱を出して、結婚式と披露宴という個人的な人生の区切り目をつけているうちに、世界は大変なことになっていた。

リーマン・ブラザーズの破綻から、およそ1ヶ月。「金融危機」というよりも「世界恐慌」という言葉のほうがしっくりするくらいのパニックが、世界中を駆け巡っていた。もちろん僕は専門家ではないし、気分としては「よくわからない」という実感のほうが強い。別に戦争が起っているわけではないし、暴動が起っているわけでもないし、持っている貨幣が明日には紙切れになっちゃいますよ、という事態でもない。でも数字の上での「誰かが持っているお金」は砂のお城がボロボロと崩れていくように毀損していった。世界全体で何百兆円の損失だとか。

何が起っているのかがすとんと身に落ちるような言葉でよくわからないから、ブログやニュースを調べる。どうやら今起っている事態というのは、ものすごくいろいろなことを端折って書くと、ファンドや投資銀行がレバレッジを過大に効かせすぎたのが原因ということらしい。つまりは身の丈以上の借金をして回していたお金が一気に収縮したということのよう。レバレッジというのは梃子の原理。イメージで捉えるなら、折れないと思っていた梃子の支点がポキッと折れてしまったということなのかも。みんながコンクリートだと信じていたものに砂が混じっていて、しかも世界中のビルディングがそのコンクリで建てられていたというような感じなのかな。

たぶん、この先いろいろなことが変わっていくだろう。金融だとか経済の専門家は「ルールが変わった」と言う。果たしてそうなのか。潮目が変わっただけなのか、ルールが変わったというなら、何がどう変わったのか。ひょっとしたら、そのルールを成り立たせていたゲーム自体が終わろうとしているのか。それはわからない。

僕は別に経済評論家でも投資家でもないので“機を見る”必要はないのだけれど、敏感になろうと思うのは、これで人々の物事の捉え方や感じ方がどう変わっていくのか。そしてどんな“便利な言葉”が人々の物事の感じ方を摩耗させていくのか、だ。

(たとえば「格差社会」という言葉は、日本でここ数年かなり便利な言葉として流通してきたけれど、その言葉のおかげでいろいろなものがごっちゃになって、人々の物事の感じ方が摩耗した気が、個人的にはしている)

僕の感じ方では、人々の価値観においても、きっとこの先「建て増し」の部分が取っ払われることで、「本質」の部分がより重みを増していくと思っている。本質なんていうと大仰な言葉だけれど、いうならば、人を羨ましがる気持ちとか、肩肘張った「べき論」とか、見栄とか、「勝ち続けないとサヴァイブできない」という焦燥感とか、もっともっと儲けたいという欲求とか、そういうものを取っ払った部分。面白いなあ、とか、心地いいなあとか、そういう一人一人の実感に基づいたものがファンダメンタルズになっていくんじゃないかと思う。