日々の音色とことば

usual tones and words

MARQUEE vol.71/相対性理論とセカイ系とミッシェル・ガン・エレファント

MARQUEE vol.71 マーキー71号MARQUEE vol.71 マーキー71号
(2009/02)
不明

商品詳細を見る

『MARQUEE』 vol.71に原稿を書きました。lego big morl、マスドレ、たむらぱん、winnieのインタヴュー、相対性理論の長文レヴューなどを担当。

面白かったのは、僕の書いた文章とライターの土佐有明さんの書いた文章とが見開きにわたって並べられた相対性理論のページ。お互い唾を飛ばしながら論を書き並べながら、まったく同じように「あざとい」とわかっていながら“地獄先生”に悩殺されている、という。

ただし、相対性理論が「セカイ系」であるとする土佐さんの視点は自分にはまったくなかったもので、ちょっと新鮮だった。なるほど確かに「あたしもうやめた 世界征服やめた/今日のごはん考えるのでせいいっぱい」(“バーモント・キッス”)というような歌詞の世界観において、個人的な日常と“世界征服”のような観念はダイレクトに直結している。でも、これって実は「セカイ系」そのものなのではなく、そういう思考に対する批評的な言葉の使い方、という気もする。

ちなみに、僕が「セカイ系」ど真ん中だな、と思うのはミッシェル・ガン・エレファント。

「世界の終わりが そこで見てるよと/紅茶飲み干して 君は静かに待つ」
「パンを焼きながら 待ち焦がれてる/やってくる時を待ち焦がれてる」 (“世界の終わり”)

純然たる“君と僕”の世界にあるのは、“紅茶”や“パンを焼きながら”などという日常のキーワード。そこに、「崩れてくのがわかってたんだろ」「世界の終わりがそこで見てるよ」という言葉がさしはさまれる。何が“終わり”なのかは明示されない。明示されないからこそ、その観念性が強化される。

念のため言っておくけれど、僕はいまでもこの曲はすごく好きだ。発表されたのは96年。まさに90年代的な世界観なわけだけれど、「ナインティーズ・ノット・デッド」((c)菊地成孔)な自分にとっては、とてもしっくりくる。

そもそも宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』以降広まった「セカイ系は時代遅れだ」という認識に、「そうなの?」と思っていたりする自分がいる。00年代前半の決断主義、サヴァイバル的な世界認識の中でセカイ系的な“弱い主人公”は叩きのめされた、的な。果たしてそうなのかな。

「セカイ系」については、またあとでじっくり考えようと思う。