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日々の音色とことば

新刊『ヒットの崩壊』が出ました。

白石一文『翼』について


翼 (テーマ競作小説「死様」)翼 (テーマ競作小説「死様」)
(2011/06/18)
白石一文

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“死様”をテーマにした、白石一文の最新作『翼』。読み終えてからしばらくの間、動悸が止まらないほどの熱量と衝撃のある一冊だった。

私は小さい頃から、死は「記憶の消滅」だとずっと思ってきた。

最初にどきりとしたのは、その一節を読んだとき。物語の中盤、主人公の田宮里江子と、その上司である城山営業本部長との会話の場面。城山は、「人は死んだらどうなると思う?」と里江子に問いかける。

「さあ、たぶんなんにもないんじゃないでしょうか。完全な無なんだろうと思います」
「完全な無ってどんな無なのかな」
「よく分かりませんが、何も覚えていない状態なんじゃないですか。すべての記憶が消去されてしまうっていうか」

そして、「要するにメモリーがゼロの状態に戻るってわけか」と言う城山に、“それだけではやや言い足りないような気がした”里江子が、付け加える。

「共有されたデータっていう送信済みのデータっていうか、そういう記憶は当然他のメモリーに残るので、その意味では関係者全員の死をもって完全な無になるのかもしれないですね」

まったく同じことを、僕は7年前、父の死に直面した時に強く感じた。そのことは以前に記していた

《集中治療室の入り口で身に付けた使い捨てのマスクは最早ぐしょぐしょに濡れていたけれど、それでも僕はその時、自分を「驚くほど冷静だ」と思った。死はゆっくりと訪れる。心拍を示す緑の数字が40から30へ、30から20へと徐々に下がっていくのを見ながら、そう思った。生と死とは決してデジタルなONとOFFではなく、状態Aから状態Bへと徐々に移行していくようなものだ、ということ。そして、たとえ生物的な死を迎えたとしても、その人の記憶が残された人々の間に生きている限りその人は生きていて、みんな心の中からその記憶が消え去ってしまったときに初めて、その人はこの世から消えてしまうのだ――ということ。根拠はないけれど、ただ強くそう感じた》

あの時、僕は《この先も決して回答の出ない「死」と「記憶」のことに関して考えつづけていくんだろう》と書いた。それは頭の中にずっと引っかかっていた。だから、白石一文の小説が、次のように踏み込んでいくのは、とても衝撃的だった。

「田宮の言う通りだとすると、自分のことを知っている人間が死ぬということは、自分自身が死ぬということだな」
「たとえ自分自身が死んでも、自分のことを記憶している人間がいる限り完全に死んだことにならないんなら、逆に、自分が生きていても、その自分のことを知っている人間が死んでしまえば、自分の一部が死んだことになる。そういうことだろ」

その城山の言葉を聞いて、里江子は〈いままで見落としていた大切な真実〉に気付く。

自分のことを最も深く理解できるのは決して自分自身とは限らない。だとすると自分という人間を最大限に把握している別の人がいて、もしもその人が消滅すれば、「自分というデータ」のまさに中枢部分が失われることになる。
 それは自分自身の死よりもさらに“致命的な死”とは言えないだろうか?

 物語は、この〈大切な真実〉を巡って進んでいく。そこには、常識や社会通念や保身や世間体や、あらゆる〈当たり前〉を覆してまでも、自分にとっての真実を貫こうとする人間の姿が描かれている。そして、210ページほどのこの小説が、読み返す度に何度もグサグサと突き刺さるほどに痛切なのは、その果てにある“致命的な死”が克明に描かれているからなのだろう。

結末は伏せるけれども、読み終えた時には「お前はどうなのか?」「お前は"ほんとうのこと"に向き合ってるのか」と胸先を掴まれるような感覚があった。