日々の音色とことば

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「呪いの時代」と「アニミズム2.0」

内田樹さんの『呪いの時代』を読んだ。


呪いの時代呪いの時代
(2011/11)
内田 樹

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『新潮45』のエッセイやブログを中心にまとめられている書籍なので話題は多岐に渡る。2000年代後半に書かれた文章も多く含まれているので、秋葉原連続殺人事件など、今は少し古くなったトピックに触れた文章もある。しかし、本書を貫く「現在が呪いの時代である」という内田樹さんの見立てには同意せざるを得ない。五寸釘や藁人形などなくとも、オカルティックな手法を使わずとも、人は人を呪うことができる。

僕たちの時代は「呪い」がかつてなく活発に活動しています。「科学的」な人は現代に「呪い」などというものがあるものかとせせら笑うかも知れません。けれども、現に羨望や嫉妬や憎悪は、さまざまなメディアにおいて、生身の個人を離れて、言葉として一人歩きを始めています。誰にも効果的に抑制されぬまま、それらの言葉は人を傷つけ、人々がたいせつにしているものに唾を吐きかけ、人々が美しいと信じているものに泥を塗りつけ、叩き壊すことを通じておのれの全能感と自尊感情を満たそうとしています。〈P35〉

彼らはそれらの言葉が他者のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように思われます。(P11)

上記の話を読んで、思い当たる実例がひとつ。スマイリーキクチさんの事件だ。経緯は以下の記事に詳しい。

「インターネットで中傷され続けた10年 スマイリーキクチさん」
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/kurashi/2011/11/25/1335.html
いつのまにか殺人事件の犯人にされ、繰り返し誹謗中傷を受け続けたという彼。刑事告訴したいと意思表示することでようやく警察が動き、最終的に19人が摘発される。驚くべきは摘発された加害者の供述だ。

17歳から40代後半まで年代は幅広く、大手企業に勤めている人もいました。難関で知られる大学の職員は、職場の仲間同士で競い合って書き込んでいたそうです。会社のパソコンや携帯を使って、勤務時間中に書き込んでいた人が何人もいたのも驚きでした。
 刑事さんを通じてその人たちの供述内容を知ると、驚きは深まるばかりでした。ぼくが殺人事件とは本当に無関係だと知ると、「ネットに洗脳された」と泣き崩れた男性。「離婚してつらかった。キクチさんはただ中傷されただけじゃないですか。私のほうがつらいんです」と主張する女性。

まさに「人を呪わば穴二つ」。他者への攻撃は自らへの毒として身体に回る。

本書を元にしたインタヴュー記事も話題を呼んでいる。

内田樹「呪いの時代に」| 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28694

 暴力は生身の人間ではなく、記号に対してふるわれます。(中略)呪いとはそのことです。一人一人の人間の一人一人違う顔を見ないということです。

ここで言う記号というのは「レッテル」のこと。対象にレッテルを貼って属性を決め付けることから、負の感情は立ち上がる。慧眼だと思う。

ただし。

僕は内田樹さんが提唱している「呪いの解き方」には、ちょっと納得できないところがある。

呪いを制御するには、生身の、具体的な生活者としての「正味の自分」のうちに踏みとどまることが必要です。妄想的に亢進した自己評価に身を預けることを自制して、あくまで「あまりぱっとしない正味の自分」を主体の根拠として維持し続ける。それこそが、呪いの時代の生き延び方なのです。
 正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。

ここで言ってることは確かに間違ってないけれど、その「正しさ」はいわば道徳の教科書における「正しさ」のようなものなんじゃないかと思ってしまう。「パッとしない自分を受け容れろ」。わかっちゃいるけど、なかなかそれができないんだよねえ。それができたら苦労しないよ、っていう。この記事に一部から反発するような反応が集まっているのは、個人的にはこの部分に「上から目線」の道徳の教科書的な物言いを感じ取っているせいだと思う。

では、有効な「呪いの解き方」と成り得るのは何か。僕が思うに、そのヒントも本書の中に書かれている。

伝統的に日本的なソリューションといえば「塚」と「神社」である。「荒ぶるもの」は「塚」に収め、その上に神社仏閣を建立して、これを鎮める。将門の首塚も、鵺塚も、処女塚も、「祟りがありそうなもの」はとりあえず「塚」を作って、そこに収める。塚に草が茂り、あたりに桜の木が生え、ふもとに池ができ、まわりで鳥や虫が囀るようになれば、それは「生態系」に回収されたとみなされる。
自然力に任せておけないときは、神社仏閣を建てて、積極的に呪鎮する。
それでもダメなときは、「歌を詠む」「物語に語り継ぐ」という手立てを用いる。(P222)

人間が暮らす空間には、「霊的な備え」が必須だということである。
その理路はもう述べた。
霊的な備えをしておかないと、鬼神の類が人間を襲うというような話をしているのではない。人間を襲うのは人間だけである。人間が住まないエリアには神社仏閣などなくても、何の障りもない。でも、いやしくも人間が住む場所については、「人間の愚鈍さや邪悪さ」ができるだけ物質化しないような「仕掛け」を凝らすことは必須の仕事である。〈P229〉

この論考は「原発神社」や「うめきた大仏」の提案として書かれているが、何故このロジックを本書のメインテーマに援用しないのか、僕には不思議でならない。

メディアを飛び交う「記号化された悪意」は、「荒ぶるもの」である。いわば霊的存在であり、それは生身の身体を持った人にとり憑いて「祟り」をなす。そして攻撃の対象だけでなく、それを発した人間をも蝕む。最初に挙げたスマイリーキクチさんの事件で加害者が「ネットに洗脳された」「私のほうがつらいんです」と泣き崩れたというのは、この案件がいわば「祟り」であることを示唆している。

ということは、それを呪鎮するためのソリューションは、「"人間の愚鈍さや邪悪さ"ができるだけ物質化しないような"仕掛け"」としての塚や神社のようなものをメディア空間の中に建立することに他ならないなんじゃないだろうか? ここから先は飛躍した話になるけれど、たとえば「ニコニコ神社」というものがある。

≪参拝者の方へ≫
参拝される方は番組放送中にご自由にニコニコ本社2Fへお越しください。
そしてカメラに向かって願い事をしてください!

≪番組を視聴される方へ≫
番組をご覧になるアナタは「生神様」として、実際に参拝に訪れている人の願いを聞いてコメントをしてくださいね!

「ニコニコ神社 1月1日 新年参拝生中継!」http://live.nicovideo.jp/watch/lv35642272

モニターに映し出されている生放送のウィンドウが、「この世」と「あの世」を隔てる界面(インターフェイス)となっています。モニターの「こちら側」で参拝者が願いをつぶやくと、その願いはウィンドウという界面を通して神様=「あちら側」の視聴者に届けられ、それに対するコメントが「ご託宣」として返ってきます。

「ニコニコ神社が「神社」として機能していた話。」http://socialmediaseminar.jp/blog/672

まだそんなに広まってないし、おふざけのように思われているのが「ニコニコ神社」の一般的な捉えられ方だとは思う。でも僕は、「ニコニコ神社」って、ひょっとしたらすごい発明かも?と思っている。そこでは、ネットユーザーならば、誰でも「神様」になれる。記号の存在となって、参拝され、画面を通して誰かの願いを聞き入れることができる。そうして、「宣伝乙」とか「おk」とか「ノシ」とか好き勝手なことを言いながら、生身の身体を持った他者を「祝福」する。承認する。

これって、「あまりぱっとしない“正味の自分”を主体の根拠として維持し続ける」しんどい道より、全然楽で実効性のある「呪いの解き方」なんじゃないだろうか。

ニコニコ神社に立ち上がっている信仰の原型において「神」となっているのは、実は、視聴者一人一人というより、「匿名多数の集合的無意識」だ。そこでは、神の祟りである炎上を避け、その祝福を受けるために参拝がなされる。

「匿名多数」=「八百万」。つまり「アニミズム2.0」のモデルだ。

日本の伝統的なソリューションなのではないか、と思う。