日々の音色とことば

usual tones and words

サカナクション“夜の踊り子”と、暗がりを歩く子供たちの「リトルネロ」

■人はリズムとメロディがないと、繰り返しに耐えることができない

たぶん、最初にそのことを思いついたのは、友人と飲みながらの他愛もない会話がきっかけだったと思う。

「アパレルショップの店員って、なんで“歌う”んだろうね?」
「歌う?」
「昔に柳原可奈子がよくモノマネしてたじゃん。『いらっしゃいませ〜、いらっしゃいませ〜』って、独特の節回しで言ってるやつ。あれって、俺、歌だと思うんだよね」
「ああ、なるほど。そういうことね。でもそういったらコンビニだってマックだって、『いらっしゃいませ』は、かなりの人が節をつけて言ってると思うよ」
「たしかに。じゃあ、逆に絶対に歌わない人、『いらっしゃいませ』に節をつけない職場ってあるのかな」
「ホテルマンとか?」
「たしかに。あいつらは厳しい規律があるからな、きっと。よう知らんけど」
「他にも“歌う”人達っているかな?」
「そうだなあ、石焼きイモのおっちゃんなんか、まさにそうでしょ。あと、さおだけ屋とか」
「そうそう! あの『♪いしやきいも〜』ってメロディ、誰が考えたんだろうね」
「わからん。あと、電車の車掌さんとかもそうだよね。『♪つぎは〜』って、あれ、メロディになってる。あと、たまにめちゃいい声の車掌さんがいる(笑)」

話題はそのまま他のところに流れていって飲み会は終わったんだけど、その後も僕の中には、川の流れの中にあるちょっとしたよどみのように、最初の疑問がぐるぐるしていた。

「なんで、あの人たちは、歌うんだろう?」

アパレルショップの店員も、石焼きイモのおっちゃんも、別にあのメロディを誰かから習ったわけじゃない。周りがそうしてるから、って理由の人もいるとは思うけど、それにしたって最初に歌い始めた人はいるだろう。

そこで一つ思い当たったのは、ショップ店員の「♪いらっしゃいませ〜」も、おっちゃんの「♪いしやきいも〜」も、繰り返しである、ということ。ずっと、ずーっと、一つの言葉を繰り返す。そうしているうちに、自然と節回しが生まれる。たぶん、こういうことだ。

人は、メロディがないと、繰り返しに耐えられない。
そういうことなら、僕にも思い当たるふしがある。まだ学生の頃。パン工場で徹夜のアルバイトをしたことがあった。友達から「クリスマス前の時期はパン工場のバイトがヌルい」と聞いて、応募したんだった。いわく、「流れてくるショートケーキにイチゴを乗せるだけの簡単なお仕事です」。でも、実際に行ってみたら、かなり辛かった。肉体的な疲労というよりも、ベルトコンベアの前で何時間も繰り返し作業する仕事自体に慣れていなかったんだと思う。で、そのときに、僕はテクノ・ミュージックを思い浮かべた。たしか、好きだったマーク・ベルのLFO。ベルトコンベアの機械の「ギー、ガチャン」「ギー、ガチャン」にあわせて、右足のかかとで四つ打ちのキックを踏む。頭の中に音楽が鳴る。そうすると、自分の行動が、作業から演奏に変わる。あの時の自分はきっと、リズムがないと、繰り返しに耐えられなかったんだと思う。

単調な反復は人の行為や言葉から「意味」を奪う。
だから、人はリズムとメロディがないと、繰り返しに耐えることができない。特に、目の前にいる「あなた」ではなく、どこかの目に見えない「誰か」にむけて呼びかける言葉をコピペのように繰り返し発し続けることは、その人から人間らしさを奪う。それを取り戻すために、歌が生まれる。音楽が生まれる。

夏を過ごしながら、僕は、そんなことを、つらつらと考えていた。これ、ひょっとしたら大発見なんじゃない?とか思っていた。でも、そんなことはとっくに昔のエライ人が気付いていたことだった。

■デモの群衆はなぜ歌うのか

それを知ったきっかけが、五野井郁夫さんの書いた『「デモ」とは何か』という本。引用します。

わたしたちは、一九六〇〜一九七〇年代のイメージから、デモというと、どうしてもカオス的で暴力的なイメージを持ってしまうが、それもマスメディアがつくりあげてきた「スペクタクル」としてのデモのイメージにすぎない。では、そのデモに歌がくわわると、どのような効果が生まれるのだろうか。ドゥルーズ=ガタリは、歌の持つ力について次のように説く。「歌はカオスからとびだしてカオスのなかに秩序をつくりはじめる。ひとりの子どもが、学校の宿題をこなすために、力を集中しようとして小声で歌う。ひとりの主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力を持たせているのだ。(ドゥルーズ=ガタリ「ミルプラトー」)。歌がカオスから秩序を導き出すことを確認した上で、ドゥルーズ=ガタリが同書で案出した「リトルネロ」という概念に注目したい。リトルネロとは、音楽用語である「リフレイン」を哲学用語化した概念である。たとえば幼児が暗がりを歩くときに、おびえをなくすために口ずさむ歌。このささやかながらも自身の立ち位置と存立しうるテリトリーを必死に保ちつつ、「どうにか先に進んでゆく」ために、くりかえしおこなう反復行為と表現を、リトルネロと呼んだ。

(『「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義』五野井郁夫より)


「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義 (NHKブックス No.1190)「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義 (NHKブックス No.1190)
(2012/04/26)
五野井 郁夫

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この一節を読んだとき、「マジかよ、ドゥルーズ=ガタリが言ってたのか!」って思ってしまった。「ドゥルーズ=ガタリ」とは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神科医フェリックス・ガタリのふたりのこと。正直、知ってたのは名前だけだった。むしろ遠ざけてた。「エラそうな哲学の人」くらいのイメージしかなかった。ずっと昔に入門書を読んだ覚えもあるけど、あまりに難解で断念してた。でも、このリトルネロという概念を考えると、いろんなことが、すとんと腑に落ちる。

デモの群衆はなぜ歌うのか。それは、金曜日の夕方に首相官邸周辺に足を運んだときにも思ったことだった。「どん、ど、どん、どどん。♪さいかどう〜 はんた〜い」。あそこで僕が聴いた沢山の人たちの声は、怒号ではなかった。太鼓が叩き出すリズムと、いつのまにか生まれたメロディに乗せた、歌だった。

なるほどなあ、歌の力に頼らないと、あんな風に数万人が繰り返し一つのことを訴え続けるのは無理だよな。僕はそんな風に思った。こんなこと言ったら真面目にデモやってる人には怒られるかもしれないけど、僕はそこに、ショップ店員の「♪いらっしゃいませ〜」や、おっちゃんの「♪いしやきいも〜」に通じるものを、感じていた。

■幼児が暗がりを歩くときに、おびえをなくすために口ずさむ歌

で、ここから本題。

このドゥルーズ=ガタリが書いたリトルネロ(=リフレイン)という概念を知ったときに、直感で、サカナクションのことが思い浮かんだ。

何故かはわからない。でも、リトルネロについての「幼児が暗がりを歩くときに、おびえをなくすために口ずさむ歌」という表現が、すごく気になった。で、原典をあたってみようと思って、図書館に行って『千のプラトー』を借りてきた。


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ジル ドゥルーズ、フェリックス ガタリ 他

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相変わらず文章は難解で、やっぱり読み進めるのは断念してしまったけど、リトルネロについて書かれたところだけは、すぅっと入ってきた。そして、直感は確信に変わった。

サカナクションの新曲“夜の踊り子”は、リトルネロについての歌だ。

たぶんこの曲は、暗がりを歩く子どもたちが「どうにか先に進んでゆく」ために口ずさむメロディについて、書いた曲だ。そうやって考えていくと、いろんなことが符合する。

ドゥルーズ=ガタリが書いたリトルネロについての話は、童話のようなストーリーを持つ小さな掌編だ。それは三つのパートからなる。それぞれが、リトルネロの三段階の効用を示している。

わかりやすい解説を見つけたので、これも引用します。

【リトルネロ、差異と反復】

ドゥルーズは、「リトルネロ」の冒頭でこんな話をしています。幼子がひとり、暗くて怖い森を歩いている。そこで子供は歌を口ずさむ。小声で何度も同じフレーズを反復する。小さな自分のうちに森の夜が浸透してきて、自分が圧倒されそうなときに、自分の領域を無力ながらもなんとか保とうとする最初の行為、これがリトルネロだと言うわけです。つまり、一定の秩序を持った歌をまわりに鳴り響かせ、しかもそれを反復して持続させる、これが秩序の原初的な形態なのです。真っ暗でどこにも差異が見いだせないような夜のうちに、こうしてささやかな中心が定まる。「小声で歌を歌えば安心だ」というわけです。

次の段階です。その子が、自分のおうちに帰り着き、自分のテリトリー(領土)を確立して、その中で、さらに自分の領域を強化し、集中する。そんなときにもリトルネロを口ずさむ。学校の宿題をこなすとき、力を集中するために小声で歌うといったイメージです。リズムをとって、ドリルをガンガン片付けていく、そういう感じです。ところがその次の局面で、その子はドリルに飽きてしまう。その子はささやかな歌に身を任せて、家の外にもう一度出て行くわけです。

ドゥルーズはリトルネロについてこのような三つの局面を描くことで、リフレイン自体のうちに、領域を形成するだけではなく、そこから外に出て行こうとする要素が含まれていることを示そうとしているのだと思います。リフレインはフレーズを反復するのだけど、それは反復であると同時に、違ったものをそこの中に折り込んでいくことであり、反復を通じて自ら違ったものに変化していくことだ、とドゥルーズは考えているわけです。

BOOKSTEADY Lesson.1 7/13「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」
http://donnerlemot.com/2011/01/28000859.html

■音楽讃歌としての“夜の踊り子”

この、リトルネロの3つの局面が、“夜の踊り子”の歌詞のそれぞれのパートに対応している。

跳ねた跳ねた 僕は跳ねた 小学生みたいに
雨上がりの夜に跳ねた 水切りみたいに

どこへ行こう どこへ行こう ここに居ようとしてる?
逃げるよ 逃げるよ あと少しだけ

冒頭のAメロからCメロ(サビ)までの部分は、小さな子供がひとり、暗くて怖い森を歩いている場面。森の夜が浸透してきて、圧倒されそうなときに、自分の領域を無力ながらもなんとか保とうとする、そういう時に口ずさむ歌としての、リトルネロ。

ちなみに「暗くて怖い森の夜」は、けっしてファンタジーのイメージではない。単なる怖い暗がりのことではない。それはいろんなものを指し示すメタファになっている。たとえば、将来の見通しが不透明なモラトリアムの漠然とした不安かもしれない。カップリングの“multiple exposure”で歌われている《そう生きづらい そう生きづらい そう言い切れない僕らは迷った鳥》という言葉でストレートに表現されている「息苦しさ」なのかもしれない。

僕の解釈では、「暗くて怖い森の夜」は、さっき書いた「人の行為や言葉から意味(=人間らしさ)を奪う単調な反復」のメタファだと思っている。村上春樹のエルサレム賞スピーチの言葉を借りるなら、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵」の、高くて固い壁のほう。システムに順応していくことが「生きる」ことだという無意識下の納得が駆動する「生きづらさ」の圧力。それは2012年の今も、きっと沢山の人がリアルに感じているものだと思う。

そして、2番のAメロからCメロ(サビ)、そして最初の大サビの部分が、「リトルネロ」の二つ目の場面にあたる。

消えた消えた 君が消えた 蜃気楼みたいに
にわか雨の音も消えた さよなら言うように

どこへ行こう どこへ行こう ここに居ようとしてる?
逃げても 逃げても 音はもうしなくて

ささやかな歌を口ずさんでいた幼い子は、自分の家に帰り着く。「にわか雨」=「怖い暗がり」の音は消えた。もう逃げることはしない。自分のテリトリーを確立する。そこで自分のやるべきことに集中するようなときにも、その子はリトルネロを口ずさむ。たとえば学校の宿題をこなすようなときも、力を集中するために、小声で歌う。

そして、三つ目の場面。リトルネロの力を得たその子は、ささやかな歌に身を任せて、家の外にもう一度出て行く。もう一度、こんどは身体の中からみなぎる勇気と共に、外の世界に向かっていくわけだ。それが3番のCメロからラストの歌詞に相当する。

行けるよ 行けるよ 遠くへ行こうとしてる
イメージしよう イメージしよう 自分が思うほうへ

笑っていたいだろう

さらに。この曲にはドゥルーズが言う“リトルネロ”そのものも、含まれている。それがつまり、『モード学園』CMで先行公開されていた大サビ(=リフレイン)の部分。

リトルネロは、単なる同じフレーズの繰り返しじゃない。反復の中に、少しずつ違った要素が織り込まれている。だからこそ、その繰り返しを通じて、自ら違ったものに少しずつ変化していくことができる。そのことが何より重要だというのが、ドゥルーズの言ってることだ。つまりそれが、「反復と差異」。それを踏まえて、この曲のリフレイン部分の歌詞が、これ。

雨になって何分か後に行く
今泣いて何分か後に行く
今泣いて何分か後の自分

今泣いて何分か後に言う
今泣いて何年か後の自分

見事なまでに「反復と差異」になっている。同じようなフレーズの反復であると同時に、違った要素をその中に織り込んでいく歌詞になっている。

リズムに乗せて反復される歌の言葉は、グラデーションのように少しずつ色を変え、それは、暗がりを歩く子供たちの力になる。だからこそ、この曲においても、ここが最も大事な部分としてフィーチャーされている。CMでもこの部分が使われたし、ジャケットも、この部分の歌詞に通じる表現になっている。

歌詞だけの話じゃない。実は、テクノとかダンス・ミュージックが根っ子のほうで持ってる魅力も、この「反復と差異」で語ることができる。たとえばミニマル・テクノなんてものがあるように、テクノやダンス・ミュージックの音楽的なベースは、一つのビートやフレーズを同じBPMで繰り返していくことにある。だから、ひょっとしたら、耳馴染みのない人にとってはただの単調な繰り返しに思えてしまうかもしれない。けれど、よく聴くとそれは違うことがわかる。同じビートの上で、少しずつ音の位相が変わっていく。そうして少しずつ絶頂まで上り詰めていき、最終的にはそれが人を高揚感や多幸感で一杯にする。“夜の踊り子”は、テクノやダンス・ミュージックの「反復と差異」がもたらす、そういうポジティヴな効果について書かれた曲でも、ある。

なんてね。

もちろん、ここに書いてきたことは、ぜんぶ単なる僕の深読みだ。でも、こうして考えていくと、いろんなパズルのピースがピタリとハマったような感じがする。

“夜の踊り子”は、いわゆる「音楽讃歌」なんだと、僕は思っている。フジロックのホワイト・ステージで、まだほとんど誰も聴いたことのない状態なのに、この曲がうねりのような歓声を呼び起こしたのも、きっとそのことが感覚で伝わったんだと思う。

だからこそ、この曲が持つ「リトルネロの力」が、いろんな人に届けばいいな、と。


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サカナクション

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