日々の音色とことば

usual tones and words

2012年の「シーンの垣根を壊した5曲」(その2:ナノウ”文学少年の憂鬱”)


■2010年末〜2011年春に生まれていた萌芽

前回の記事

2012年の「シーンの垣根を壊した5曲」(その1)http://shiba710.blog34.fc2.com/blog-entry-512.html

では、米津玄師“vivi”と、livetune feat. 初音ミク“Tell Your World”を取り上げた。そこで書ききれなかったことなんだけれど、米津玄師=ハチは「balloom」(バルーム)という「インターネット発アーティストによるインディペンデントレーベル」に所属している。その設立は2011年3月5日。レーベルのサイトに掲げられたヴィジョンを見ると、すでに2011年の春の時点で、前回の記事に書いたような「島宇宙を繋ごうとする意志」があったのだということがわかる。

引用します。

“日本の音楽シーンは終わった”
“**年のシーンが一番熱かった”

本当にそうでしょうか。
私たちは知っています。この広大なネットの中に熱い情熱を持った音楽がたくさん埋もれていることを。
音楽シーンが熱くないと言われている今でさえ、私達は音楽が大好きで仕方が無いんです。

でも、もしかしたら、その熱い情熱を持った音たちはネットの世界が広すぎて
気づくことさえ、知ることさえ難しいのかもしれません。

私たちballoomレーベルは、そんなアーティストを皆さんに気づいてもらえる、知ってもらえる橋渡しができたら、そう思って生まれました。

2011年のシーン“から”が一番熱い。そう思ってもらえるように。

http://balloom.net/about.html

前回の記事でも書いたけれど、2012年に突然シーンの垣根が壊れたわけじゃない。それはここ数年ずっと脈打っていたマグマのような胎動が、ようやく洗練された表現として花開き、広く知られるようになったということだった。

そういえば、僕もちょうど「balloom」レーベルが立ち上がった同時期にそんな記事を書いていた記憶がある。その時に僕が取材して書いていた記事が、これ。

【FLEET】──現役プロミュージシャンが「初音ミク」に見出した音楽の未来とは?http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2011/03/post_2105/(全文を読むには会員登録が必要です)

このリード文にある「初音ミク文化論」というtogetterまとめが以下。
http://togetter.com/li/70435
2010年の秋には、バンドシーンとボーカロイドやインターネットミュージックシーンの壁を壊そうという萌芽が生まれていた、ということが上記のまとめからは見て取れる。つまりは、それが音楽シーンにとっての「10年代」の始まりだった。しかし、当時はむしろバンドシーン側の生理的な違和感や拒否反応の方が強かったという。

上記記事からの引用。

――“Cipher”という曲を作った背景には、バンドシーンとボカロのシーンの間にある壁を壊したいという意志があったわけですよね。そういう問題意識を持ったきっかけは?

「僕がボカロを面白いと思っていても、それを理解してくれない周りのバンドマンが多かったんです。話題を共有している少数を除いて、眼中にない人が多い。『ネタで言ってんの?』とか、バカにする反応もあった。ボカロ楽曲の作り手がバンドシーンのことを知っているのと対照的に、バンド側はなかなかボカロのカルチャーに繋がろうとしないんです。その二つのどっちのあり方が望ましいかと考えたら、他の世界を知った上で、自分が何をやるかを選択するほうが望ましいと思うんです。そうすれば“◯◯なんてくだらない”という不要な対立が生まれない。今の社会、価値観は多様化してるわけじゃないですか」

――価値観が島宇宙化しているということですよね。

「そう。“全員が好きなもの”をもう一回作り上げようと思っても、それは無理。だから“それぞれが好きなもの”が平和な状態で共存するほうが望ましいと思うんです。他を否定しないあり方で、いろいろな文化がゆるくつながってる状態が、僕は世の中全体としても望ましいと思う」

「balloom」レーベルの立ち上げも、この記事が公開されたのも、2011年3月のこと。ほぼ同時期に行われている。つまり、ボーカロイドとバンドシーンの間で島宇宙化した価値観をつなげ、垣根を壊そうとする動きの萌芽が2010年末から2011年初頭にかけて起こっていたというのが、00年代以降の日本のポップカルチャー史に対する僕の見立てだ。

■バンドマンとボカロPの二つのペルソナ

前置きが長くなりました。で、ここから2012年の話題。

すでに状況は変わった。前回の記事に書いたように、米津玄師の登場がシーンを大きく変えた。そういう状況の中、同じballoomレーベルに属するナノウがリリースした『UNSUNG』は、まさに「シーンの垣根を壊す」意志を、もう一つのやり方で形にしたアルバムになっている。

スリーピースのロックバンド「Lyu:Lyu(リュリュ)」のギター&ボーカル「コヤマヒデカズ」として、同時にボカロP「ナノウ」として、二つのペルソナを持ちながら活動してきた彼。ただ、このアルバムではそのどちらの表現方法もとっていない。無人のコンサートホールで、アコースティックギター1本の弾き語りによってレコーディングされたアルバムになっている。そして、自身の曲とカバー曲を交えた選曲なのだが、そのラインナップが、非常に戦略的なものになっている。まず、ロックカルチャー側からは

“遺書”(Cocco)
“creep”(RADIOHEAD)
“月に負け犬”(椎名林檎)
“Rape me(NIRVANA)”
“Just the way I'm feeling”(FEEDER)

そして、ボカロカルチャー側からは、

“From Y to Y”(ジミーサムP)
“いろは唄”(銀サク)
“神様はエレキ守銭奴”(家の裏でマンボウが死んでるP)
“死にたがり”(梨本うい)
“コノハの世界事情” (じん(自然の敵P))

しかも、曲順も、双方が交互に現れるような並べ方になっている。本人も、違うカルチャーの中で育ってきた楽曲を「同じ土俵に乗せる」ということに非常に意識的だ。そのためにとられた手法としての、アコギ弾き語りだったりするわけだ。今回、リリースにあたってプレスリリースに掲載するための取材を行ったのだが、その中で彼はこんな風に語っていた。

「このアルバムで自分が歌ったボカロ曲は、ニコ動内では知名度があってもネットから外ではまだまだ知られているわけではない曲だと思うんです。そこはまだ深い溝があると思う。でも、今回はアコギ一本と自分の歌という形でやることによって、ボカロの有名曲と、ロックの名曲やJ-POP、自分の曲、それの全部を対等な土俵に乗せかったんです。自分が歌うことによって、この曲はボカロだとか、この曲はバンドだとか、そういうバックボーンに関係なく、全部を対等に聴けるんじゃないかと思って。それで、いろんな畑からごちゃまぜにとってこようと思って選びました」

(オフィシャルインタヴューより)

ただし、投稿し始めた当初は彼にとってもボカロとバンドというのは全く別のものという意識があったようだ。2008年頃は、まだナノウではなく「ほえほえP」という投稿名を使っている。二つのペルソナは、あくまで切り離されたものだったという。その二つが繋がるきっかけになった一曲が、“文学少年の憂鬱”。2010年に、ユーザーからのフィードバックをきっかけに彼の内部で壊れた壁が、この『UNSUNG』というアウトプットの形に結実している。

「最初は、ボカロの曲をニコ動にUPするというのは、自分がそれまでやってきたバンド活動とは本質的に別のことだという意識が最初はありました。ボカロ曲が好きな人達には、自分がバンドでやってる音楽は理解されないだろうなって。だから、完全に切り離してました。やっぱり自分にとってはバンドの方が本気だったし、それが受け入れられるのかずっと不安だったから。でも、あるとき、勇気を持って言ってみたんです。それが“文学少年の憂鬱”という曲を投稿したあたりでした。あの曲自体、普段自分が作るような曲をそのまま作ったような意識で作ったもので。だから、最初は受け入れられないんだろうと思ってました。歌詞がシリアスすぎるし、暗いし」

「半信半疑だったんですけど、予想以上に受け入れてもらえた。そこから徐々に意識が変わっていきました。自分の曲を好きだと言ってくれていた人は、キャラ萌えな人たちではなかった。自分が音楽で何をやりたいか、根本的にどういうことを表現してくれるのか、それをわかってくれる人だと気付いていたんです。特にバンドをやっているのをニコ動で明かして、そこからライヴに足を運んでくれるようになってからは、変化が大きいですね。僕にとってはやっぱり、ライヴのステージで歌っている自分が本来の自分という意識がある。そこにリスナーが来てくれるようになって、自分のバンドの活動と、ボカロPのナノウとしての活動が絡まりはじめた。それが、去年の一年間でした」

(同)

■「14歳」がそこにいるということの意味

彼は自分が影響を受けたルーツとなる音楽について、こんな風にも言っている。

「ニルヴァーナとかシロップ16gは、当時の自分にとって、自分がなかなか言えないことを、代わりに言ってくれるような存在だという気になっていたんです。これは自分の歌なんじゃないかって思ってた。人付き合いが苦手で、友達が少なくて、鬱屈した高校時代を送っていて。周りの人達が聴いてるようなJ-POPの曲には全然共感できなかった。でも、この人だけはわかってくれている。音楽を聴いて、そう思ってたんです。そういう音楽によって救われた気がした。そういう経験が多々あったんです」

僕が思うのは、ナノウ=コヤマヒデカズ少年が10代半ばの頃にニルヴァーナやシロップ16gに対して感じていた「これは自分の歌なんじゃないか」という、魂を揺さぶられるような共感の磁場を、今、ボーカロイドやインターネットミュージックシーン発の楽曲たちの一部が生み出しているんじゃないか、ということ。もちろん、前回の記事で取り上げた米津玄師も、そのうちの一人だ。

いくつかの統計的調査から、ボーカロイドのユーザーのメイン層が中高生であることはすでに明らかになっている。

「女子中学生の54%はボーカロイドの曲が好き アスキー総研調べ」http://ascii.jp/elem/000/000/703/703282/

ニコニコ動画のコメントの年齢分析したら中学生がほとんどだった件 - いろいろ作りたいhttp://d.hatena.ne.jp/gen256/20111105/1320503106

そして、現場には、そのことを揶揄するような声もある。「中高生向けの曲」ばかりでつまらない、とか。(ボカロにおける「中高生向けの曲」は善か悪か - 覚え書きオブジイヤー/http://d.hatena.ne.jp/colorred/20120807/chuuni)。

でも、僕は、それを揶揄するような気持ちには全くなれない。そこに14歳がいるなら、そして音楽を軸にした真摯なコミュニケーションが発生しているのなら、そのことはとても素晴らしいことだと思っている。もちろん、ボカロを聴いてる中高生の全てが鬱屈を抱えているみたいなことを言うつもりは毛頭ない。でも、もしその中のたった一人でも、かつてのナノウ=コヤマヒデカズ少年のように「音楽によって救われた気がした」人がいるなら、なんというか、それはすごくいいことなんじゃないか、と思うんだよね。

(まだまだ続くよ)


UNSUNGUNSUNG
(2012/09/05)
ナノウ

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