日々の音色とことば

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30年間、日本のお昼に君臨する巨大な「空洞」について――書評『タモリ論』

■タモリの虚無と孤独

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『タモリ論』、樋口毅宏さんから献本いただきました。面白かった!


書名こそ『タモリ論』だけれど、この本はタモリについてだけ語った一冊ではない。「笑っていいとも!」について、ビートたけしと北野武について、明石家さんまについて、つまりは80年代からテレビに君臨し続ける「お笑い」の神たちについて、抜群の批評性と妄想力で迫る本。

面白くないわけがない。先週発売されたばっかりだけど、かなり売れているみたい。

ただし、何かに役立つとか、何かの知見が得られるとか、そういうものを期待して読むと拍子抜けすると思う。タモリについて書かれたテキストにはそういうものも結構ある。「タモリに学ぶ仕事術」とか「タモリ流料理レシピ」みたいな。そういう「役に立つインプット」を得られるべく志向して書かれたものも多い。でも、樋口毅宏さんの書いてるものは、それとはまったく真逆。

何故かと言うと、これは「空洞」について語られた本だから。

本書の冒頭には、この本を書くきっかけにもなったという『文藝春秋』2012年3月号の特集「テレビの伝説」に起稿された樋口毅宏さんのタモリに関しての寄稿が引用される。そのタイトルは、こう。

三十周年「笑っていいとも」タモリの虚無

そして、著者にとってタモリの凄さやスケールの大きさを知る(=タモリブレイク)のきっかけとなった「伝説のナンパカメラマン」佐々木教の、タモリに対するコメントが、これ。

「ああ、あの人はな、可哀想な人だぞ。恐ろしく孤独な人だ、あのタモリという人は」

そして、吉田修一『パレード』からは、こんなくだりが引用される。

「笑っていいとも!」ってやっぱりすごいと私は思う。一時間も見ていたのに、テレビを消した途端、誰が何を喋り、何をやっていたのか、まったく思い出せなくなってしまう。「身にならない」っていうのは、きっとこういうことなんだ。

虚無と孤独。テレビを消した途端、泡のように消えてしまうもの。この本ではタモリと「いいとも!」の、そういうところに迫っている。

■「いいとも!」という深淵

タモリという人は、いろんな領域の達人であり粋人である。数々の逸話もあるし、「ほぼ日」では糸井重里がその哲学を解きほぐしていたりもする。だから、タモリの凄さについて語るときは、やはりその「達人」としての側面とか「趣味人」としての側面に焦点があたりがちだ。それが前述の「役に立つインプット」につながったりする。でも、この本ではそういう切り取り方をしていない。

「タモリが狂わないのは、自分にも他人にも何ひとつ期待をしていないから」。

これは樋口毅宏さんの処女作『さらば雑司が谷』に書かれた一節。この『タモリ論』の冒頭にも、もちろん出てくる。『笑っていいとも!』という番組、30年以上日本のお昼に君臨してきた司会者の中に、平然と横たわっている「虚無」。それが本書の見立てのキーになっている。


さらば雑司ヶ谷 (新潮文庫)さらば雑司ヶ谷 (新潮文庫)
(2012/01/28)
樋口 毅宏

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本書の後半では、「いいとも!」を通じて、ビートたけしと北野武について、明石家さんまについて語られていく。それぞれ、すごく興味深い見立てが語られている。特に、「明石家さんまこそ真の「絶望大王」である」という章では、明石家さんまという人が時折見せる攻撃性と、その人生につきまとう死の影について語られる。

そして、本の中では「いいとも!」がいずれ迎えるであろうXデーについても語られる。タモリ、たけし、さんまという「BIG3」以降の新しい神様を作れなかったフジテレビの落日についても。

本の中で、僕が一番印象的だったのが、以下のライン。

私たちだけが「いいとも!を見つめ続けてきたのではありません。「いいとも!」も私たちを見つめ続けてきたのです。

パッと見ただけじゃおよそ何を言ってるかわからない一節。でも、そこの脇にニーチェの有名な言葉を置けば、「いいとも!」が巨大な深淵であることが伝わると思う。

この本は、そういう「空洞」について書いた本だった。

たけしが“盗んだ”もの

「空洞」について語るということは、同時に自分自身について語る、ということを意味する。

底なし沼を覗き込むとき、その底にあるものについて語ることはできない。想像するしかない。それは必然的に、覗き込む自分自身について語ることにつながっていく。

そのことを象徴するのが、「偉大なる“盗人”ビートたけし」という章。本書の中でも語られているように、樋口毅宏さん自身が敬愛して止まない存在についての一節だ。

ちなみに昨年には『アウトレイジビヨンド』の公開にあわせたタイミングで、僕自身も、監督にインタヴューすることができた。僕の人生の中でも最もスペシャルな、感電しそうなほどの数十分だったのだけど、そこで僕にとっての指針になったのは、実は樋口毅宏さんの試写を見てのツイート評だった。

北野武が語る「暴力の時代」 -インタビュー:CINRA.NEThttp://www.cinra.net/interview/2012/10/03/000000.php
あれは今でも感謝してます。

というわけで、たけしについて。

タモリやさんまに比べると、生き様がそのまま物語になっていて、方法論がそのまま哲学になっているたけしは、様々な角度で語られ尽くした人でもある。しかしこの本では、他ではあまり書かれたことのないアングルでたけしに迫る。芸人として、また役者としてのビートたけし、さらには監督としての北野武が「パクった」ものについて、語られる。影響を受けたもの、引用しているもの、盗んだものについて列挙される。

百通り以上、どんな風にも魅力を切り取ることができたたけしという人について、どうしてそういうアングルからの語りになったのか。それは、樋口毅宏さんが「いいとも!」という「深淵」を覗きこんでいたからではないだろうか。


樋口毅宏さんの小説では、デビュー作『さらば雑司が谷』から最新作『ルック・バック・イン・アンガー』に至るまで、これまで刊行された全ての小説の最後に、数えきれないほどの、オマージュ、影響、インスパイア、引用元を列挙するスタイルをとっている。本書ではそれを「パクリリスト」と呼んでいる。


ルック・バック・イン・アンガールック・バック・イン・アンガー
(2012/11/30)
樋口 毅宏

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つまり、たけしを通して、作家としての自分自身を語っているわけだ。タモリやたけしや明石家さんまを通して、誰しも自分自身について語ることができる。そういうことを知れるのが、この本なのではないか、と思う。




タモリ論 (新潮新書)タモリ論 (新潮新書)
(2013/07/13)
樋口 毅宏

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