日々の音色とことば

usual tones and words

ロックフェスと「戦争反対」について

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 ■フェスの「レジャー化」が前提になった2014年 

ROCK IN JAPAN FESTIVALに行ってきました。

今日の話はそこで感じたことについて。基本的にこのフェス、参加者にとっては楽しくて過ごしやすい素敵な場所だと思っているのです。そして同時に、そうやって進化してきたことで、非常に特殊なフェス文化圏を持つ場所になっている。そのことについては、下記の記事で書きました。

 

RIJフェス、セカオワが大トリを務めた意味とは? カギは「世代交代」と「テーマパーク化」 - Real Sound|リアルサウンド

http://realsound.jp/2014/08/post-1079.html

 

そこでも書きましたが、今回は運営側による「サイリウム・ペンライトなどの発光物使用、過度なパフォーマンスや応援行為の禁止」という掲示がネット上でかなり波紋を呼んでました。でも実は、現場ではそんなに騒ぎにはなってはいなかった。僕としては、「誰もが安心して快適に楽しめる」最大公約数的な場を目指した主催者の方針なんだろう、と捉えています。

 

Tシャツと集合写真 〜2010年代の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」論 その1 - 日々の音色とことば

http://shiba710.hateblo.jp/entry/20130806/1375791903

 

去年も書いたけど、RIJって、ホスピタリティの視点から捉えると、すごくいいフェスなんですよ。トイレや通路の隅々にいたるまで空間全体がきちんとコントロールされている。ただし、その一方で、参加したお客さんに対してのコントロールも徹底している。

そのことに対して、いろんな意見があっていいとは思います。フェスにおける自由について、いろんな人がその人なりの感じ方をしたと思う。

僕としては、これも上に書いたように、「テーマパーク化」というのが一つのキーワードだと思っています。フェスがレジャーの場になったというのはここ数年いろんなところで言われてきたけれど、それが「前提」になった。それが2014年のRIJの光景だったのかなと思ったりしてます。

 

個人的には2014年はこれまで数年をかけて徐々に進んできた「フェス」のオーヴァーグラウンドが結実した元年で、今後様々な「ムラ」からの流入が始まって混沌とするんだろうなぁと思っています。その中でそれらがうまく混ざり合って更に面白いことになるモノもあれば淘汰されるモノもあるでしょう。

 

OTOZINE | Ai「フェス文化の見方」コラム 

http://otozine.jp/column/1408/10/c_140810_a.html

 

この見方にも同意。

 特に今年はフジロック、TOKYO IDLE FESTIVAL、ROCK IN JAPAN FESTIVAL、サマーソニック(予定)と、それぞれ毛色の違うフェスに参加して思うことが沢山あったので、そういうことは、また次の機会に書こうと思ってます。

 

■戦争とロックフェスティバル

  

で、ちょっとここからは真面目な話。終戦記念日だしね。

というのも、ROCK IN JAPAN FESTIVALで印象に残ったことのもう一つが、「戦争」について言及するMCをしていたアーティストが複数いた、ということだったんです。

まずは9日のヘッドライナーだったASIAN KUNG-FU GENERATIONのゴッチ。ミュージシャンじゃないけど、DJダイノジとして出演した大谷ノブ彦さんも。ソウル・フラワー・ユニオンの中川さんもそうだった。あと、僕が観れなかった中にもいたかもしれない。

 これ、はっきり言ってリスクある行為だと思う、というのがまず僕の最初の正直な印象なんです。あの場でわちゃわちゃ盛り上がって楽しい思いをしてる人に、どれだけ届くかわからない。違和感を覚える人もいるかもしれないし、そういう政治的な発言を嫌う人もいるかもしれない。

 でも、それを言うことを選んだ。そのことは僕は支持したいと思ってます。ゴッチはブログにこんな風に書いてました。

  

この日は69回目の長崎原爆の日だった。会場入りする前には、長崎で行われた平和祈念式典の生中継を観ていた。Facebookでは、普段政治的な発言をあまりするほうではないホリエアツシが「微力だけど無力ではない」という長崎の高校生たちの言葉を写真とともにアップしていた。長崎出身の彼のそういった投稿に、俺は胸が熱くなった。

 

 そういう想いも込めて、『No.9』という、センシティブな曲を演奏した。「もう何も落とさないで」。沖縄の平和祈念公園から観た真っ青な海、原子爆弾が投下された真夏の青い空、誰かの涙や、自分のいたらなさ(ナイーブさも理解している)、反戦への願い、そういうことを表した歌だ。それ以外にも、『スタンダード』や『センスレス』、『転がる岩、君に朝が降る』という歌をうたったことにも意味があるし、意志がある。上手にMCで伝えられたかは分からないけれど、「微力だけど無力ではない」という言葉を実践したような歌だと俺は思っている。オーディエンスの盛り上がりのために音楽が存在するのが昨今のフェスなのかもしれない。祭りの真ん中で「戦争反対!」と叫んでいるヤツがいたら阿呆みたいに見えるかもしれない。でも俺は、阿呆でもなんでも構わない。望まない限りは、戦争がなくなることはないのだから。

 

ROCK IN JAPAN FESTIVAL - Vo.ゴッチの日記

http://6109.jp/akg_gotch/?blog=373307

 

大谷ノブ彦さんのブログにはこうある。

憎悪を拡大すんでなく、嫉妬や欺瞞や傲慢を押さえ込みたい。
なるだけなら閉じ込めたい。

 

戦争反対 - ダイノジ大谷ノブ彦の「不良芸人日記」 - Yahoo!ブログ

http://blogs.yahoo.co.jp/ohtani_blog/13232349.html

 

10-FEETのTAKUMAも、直接的に言わなかったけれど、平和があるからこそフェスで数万人が集まることができたということを、MCで語ってました。

 

 

でも、こういうことを言うと、必ず「政治的発言なんてするもんじゃない」ということを言われたりするんですよね。「イスラエルとガザに行って同じこと言えるの?」みたいな揶揄をする人もいる。戦争というものは国家が行うもので、政治や経済や地政学、軍事や外交や、そういう専門的な知見をもって発言すべきという空気もある。

 確かに「戦争反対」という言葉に、正直、あんまりリアリティを感じない人は沢山いると思う。大上段からの言葉だし、教条的だし、「遠い」感じがする。すでに起こってる争いを個人の力で止めることは難しい。こんがらがった憎しみの連鎖をほどく魔法の言葉は存在しない。残念ながら。

ただ、僕が思うのは、こういうこと。ミュージシャンがフェスの場でそういう発信をするのは、とても意味があることだと思う。

 なぜか。戦争というのは、誰か偉い人が始めるものじゃなくて「戦争を求める心」という、いわば空気のようなものに突き動かされて始まるものだと思っているから。

それは、いろんな人の心の中にある。僕にだって多少はある。喩えるなら小さな雪片のようなものだと思う。最初は粉雪のような、小さな、ささいな感情。それが沢山の人の心の中に降り積もる。それを誰かがこねる。

最初は小さな塊だったその心は、雪玉が斜面をゆっくりと転がっていくように、少しずつ大きくなっていく。最終的には沢山のものをなぎ直す巨大な雪崩になる。「軍靴の音が〜」みたいな決まりきった言い回しがあるけど、あの言い方がどこか空々しく聞こえてしまうのは、自分と別のところからその塊がやってくるという認識を感じてしまうから。そうじゃなくて、内奥からそれはやってくる。

 

「戦争を求める心」というものの正体は何か。それは、端的に言うと「あいつらのせいで」という感情の動きだと思うのです。

 自分の誇りや、豊かさや、生活の充実が、誰かのせいで毀損されているという感覚。それが最初の萌芽になる。排除の論理につながる。たとえ衣食住が足りていたとしても、誇りやアイデンティティの感覚が「奪われている」と感じるならば、それを取り戻すために「闘わざるをえない」と考えることは正義になる。それがいちど認識のフィルターにセットされると、すべての物事がそれを通して見えるようになっていく。そのことが徐々に沢山の人たちを動かす。

 (こういうことを書いたりすると、得てして「それより◯◯国が◯◯してるのが問題で〜」っていうコメントがついたりするんだけど、それこそがまさに「あいつらのせいで」という感情の動きの発露だと思います。ついでに言うと上に書いたのはその「◯◯国」の人たちの心のなかにも当てはまる事象だと思います)

 

で、僕がロックフェスという場をすごく好きなのは、大袈裟に言うならば、誇りや、豊かさや、生活の充実を、他の誰かを打ち負かすことではなく感じることのできる場所だから、なんです。

 音楽やエンタテインメントは、そういう役割を持っている。特にフェスティバル=「祭り」というのは、その土地に暮らしているということを感謝して肯定するものなわけで。以下で引用したように、大友良英さんが今やっている「盆踊り」も、本質的には、そういうことなんだと思います。

 

大友良英スペシャルビッグバンド「地元に帰ろう音頭」/フェスと祭りと「地元に誇りを持つ」ということについて|柴 那典|note

https://note.mu/shiba710/n/ncb4a87591eb2

 

僕はサッカー観戦にあまりいかないので実感はあまりわからないけれど、たぶん地元のサッカーチームを応援するということも、きっと、そうなんだと思う。スポーツもそうで、オリンピックが平和の祭典と言われるのは、それが戦争を代替する行為だからなんだと僕は考えてます。

 

戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。

 

 これは、英文学者・吉田健一氏の言葉。ピチカート・ファイヴの小西康陽さんが、単行本『ぼくは散歩と雑学が好きだった。 小西康陽のコラム1993-2008』などでたびたび引用し、有名になった。

僕は最初その言葉の意味がいまいちピンとこなかったんだけど、今は「各自の生活を美しくして、それに執着すること」というのは、きっと「あいつらのせいで」という感情を溶かす行為であるという風に考えてる。

 もちろん異論はたくさんあると思うけれど。

 

たくさんの人が、丁寧に暮らすことに注力することを願います。

 

 

 

ぼくは散歩と雑学が好きだった。 小西康陽のコラム1993-2008

ぼくは散歩と雑学が好きだった。 小西康陽のコラム1993-2008