日々の音色とことば

usual tones and words

『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』序章公開

4月3日発売の単行本『初音ミクは何故世界を変えたのか?』の発売に先立ち、序章を先行公開します。


9784778313968.jpg

初音ミクはなぜ世界を変えたのか?
(2014/04/03)
柴那典

商品詳細を見る

発売元の太田出版のページでは、EPUB版のダウンロードも行っています。

【電子書籍版 序章 無料配布中!】
『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』EPUB→ibooksをインストール済のiPhoneやiPad、PCのEPUBリーダーアプリ等でお読みいただけます。
『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』MOBI
→.mobi 形式のファイルをダウンロードし、Kindle指定のメールアドレスに .mobi ファイルを添付して送信して頂くか、UEB経由でKindleにデータを入れることでお読みいただけます。


また、コンテンツ配信プラットフォーム「cakes(ケイクス)」でも序章の内容を先行公開しました。
https://cakes.mu/posts/5358https://cakes.mu/posts/5359
実は、この「序章」で書いたことは、僕が以前にブログで書いた二つの記事が元になっています。

僕らは「サード・サマー・オブ・ラブ」の時代を生きていた - 日々の音色とことば:http://shiba710.blog34.fc2.com/blog-entry-533.html
砂を噛むような無力感と、それでも2012年が「始まり」の年になる直感について - 日々の音色とことば:http://shiba710.blog34.fc2.com/blog-entry-504.html
インターネットは音楽を殺さなかった。確かにCDというパッケージメディアの売り上げはこの10年ずっと低下しつづけたけれど、でもそれは決して音楽文化の衰退とはイコールにはならなかった。むしろそれは、新たなクリエイターが次々と登場し続ける「幕開け」の時代だった。そういうことを、この本では書いています。

「終章 未来へのリファレンス」では、時代の変化を先頭で体感していたクリプトン・フューチャー・メディア伊藤博之社長に、音楽とクリエイティビティの未来について、次の時代の価値観のあり方についてを語っていただきました。

単に「初音ミクのブームと現象を解説した」本ではなく、音楽カルチャーの新しいあり方が生まれた数年間をドキュメントする一冊になったのではないかと思っています。


序章「僕らはサード・サマー・オブ・ラブの時代を生きていた」

新しい「幕開け」がそこにあった

 二〇〇七年は、時代の転機となる年だった。
 少なくとも、日本の音楽カルチャーについては、間違いなくそうだった。そしてそれは、単なるブームや流行ではなく、ポップカルチャー全般や、暮らしや、社会のあり方や、人々の価値観の変化と結びつくものだった。
 この本では、そういうことについて、書こうと思う。時代の転換点にあった熱気について、そして、それがどういうところから生まれて、どういうところに向かっていくのかを、書き記しておこうと思う。

 初音ミク。
 この本で時代の象徴として取り上げているキャラクターが登場したのが、二〇〇七年の夏のこと。そのパッケージに描かれていた緑色の髪のツインテールの少女は、インターネットを舞台に生まれた新しいカルチャーのアイコンになった。

 発売から瞬く間にブームは広まった。
 歌声合成ソフトウェア、つまりはコンピュータに歌わせることのできる「VOCALOID」技術を用いたソフトとして発売された初音ミク。最初は誰もが単なるオモチャのように思っていた。ネギを振らせてみたり、カバー曲を歌わせてみたり。一発ネタのようなキャラクターソングも多かった。しかし、数ヶ月もしないうちに、完成度の高い楽曲が次々とネット上に登場する。様々なバリエーションやジャンルの楽曲が投稿され、曲の作り手は、いつしか「ボカロP」と呼ばれるようになっていく。

 音楽だけじゃない。ニコニコ動画を舞台に、イラストや動画など様々なフィールドの表現が生まれていった。ソフトウェアが発売された時に、最初に提示されたのは、三枚のイラストと、「年齢16歳、身長158cm、体重42kg、得意なジャンルはアイドルポップスとダンス系ポップス」というシンプルな設定のみ。だからこそ、ユーザーの想像力が自由にキャラクターを育てていった。

 クリエイターによる創作は相乗効果を呼びながら大きくなっていった。誰かが初音ミクで作った楽曲を公開すると、それにインスパイアされた別のユーザーが曲をアレンジしたり、イラストを描いたりする。歌ってみたり、踊ってみたり、動画をつけてみたり、歌詞を深読みした物語を書いてみたり。互いに引用しながら派生していく創作の連鎖が起こっていた。

 二一世紀のインターネットに、誰もがクリエイターとして名乗りを上げることができる場が登場した。プロフェッショナルな作り手ではなく、アマチュアのクリエイターによって作成された様々なコンテンツが、当たり前のように消費されるようになった。ネットを介して作り手同士の繋がりも生まれた。新しい文化が花開き、フィールドを超えたコラボレーションも次々と生み出された。
 言ってしまえば、それは「一億総クリエイター」時代への大きな入り口だった。そんな現象を説明すべく、「CGM(消費者生成メディア)」や「UGC(ユーザー生成コンテンツ)」という言葉も生まれた。
 アニメやオタクカルチャーとの関わりや「萌え」というキーワードで語られることも多かったボーカロイドのシーンだが、初音ミクは、あくまでDTM(デスクトップミュージック)、つまりコンピュータを使って音楽を制作するためのソフトウェアである。その核にあったのはメロディと歌声だった。

 〇〇年代には、ワクワクするような、新しい幕開けの時代があった。新しい文化が生まれる場所の真ん中に、インターネットと音楽があった。今となっては、沢山の人がそのことを知っている。多くの人たちがそのことについて語っている。
 この本は、それをもう一度、ロックやテクノやヒップホップ、つまりは二〇世紀のポピュラー音楽の歴史にちゃんと繋げることを意図したものである。初音ミクは、六〇年代から脈々と続いてきたポップミュージックとコンピュータの進化の末に、必然的に生まれたものだった。そういうことを語っていこうと思う。

「誰が音楽を殺したのか?」の犯人探しが行われていた二〇〇七年

 しかし、実は〇〇年代後半の日本の音楽シーンには、そんなワクワクするようなムードは存在しなかった。そこに漂っていた雰囲気は、新しい幕開けとは、ほど遠いものだった。僕自身は九〇年代末からロックやポップミュージックを中心に扱うメジャーな音楽雑誌やウェブメディアで仕事を続けてきた人間だ。なので、その時の音楽業界のムードはよく覚えている。
 音楽が売れない。
 〇〇年代の一〇年間は、そんな悲観論ばかりが繰り返された時代だった。

 九〇年代末にピークを記録したCDセールスは、その後右肩下がりの落ち込みが続き、二〇〇七年には全盛期の約半分の規模にまで縮小している。日本だけでなく、世界中で同じ現象が起こっていた。CD売り上げの退潮は単なる一時的な不況によるものではなく、構造的な問題であることが明らかだった。この先、音楽ソフト市場はゆっくりと縮小していくだろう。そんな見通しが、様々な人によって語られた。

 「これは、“終わりの始まり”だ」

 二〇〇七年当時、レコード会社を中心にした音楽ビジネスに関わる人間の共通認識は、そういうものだった。バラ色の未来図を思い描いている人は、ほとんどいなかった。諦めにも近いムードが、業界には漂っていた。

『だれが「音楽」を殺すのか?』

 これは、津田大介氏が二〇〇四年に刊行した書籍の題名だ。
 混迷する音楽業界では、CDセールス減少の犯人探しが、様々な場所で行われていた。そして、多くの場合、コンピュータとインターネットがその槍玉に挙げられた。
 コンピュータの普及で、CDに収録された音楽を、誰もが劣化なく容易にデジタルコピーできるようになった。インターネット上でそのデータを簡単に共有できるようになった。今となっては当たり前となった技術革新によって、音楽を巡る状況が大きく変わったのが、九〇年代末から〇〇年代前半にかけての数年間だった。

「無料で視聴できるものには、誰もお金を払わない」

 そう信じられた。だから、まずはCDのコピーを制限することが目論まれた。
 国内大手レコード会社数社から、悪名高い「コピーコントロールCD」(CCCD)が発売されたのが二〇〇二年のこと。音質の劣化や再生機器を故障させる可能性など、様々な問題を抱え、ファンやミュージシャンからの反発も大きかったCCCD規格は、約二年後の二〇〇四年にはほぼ消滅し、さらに二年後の二〇〇六年には、規格は完全に撤退する。

 「コピーを制限する」という方法論は、役に立たなかった。
 CCCDは、CDの購入意欲を回復させるどころか、ユーザーの音楽業界に対する信頼を失わせる結果にも繋がった。それでも、音楽産業は、デジタルコピーやネット上でのデータのやり取りを規制する動きを強めていた。ファイル交換ソフトなどで違法なコンテンツを入手することに法的責任を問う、いわゆる「ダウンロード違法化」が国会で審議され始めたのも、二〇〇七年の頃だ。その後、二〇一〇年には著作権法が改正され、違法コンテンツと知りながらダウンロードする行為は違法とされるようになる。

 一方で、二〇〇七年時点では、様々な大物ミュージシャンもインターネットがもたらした音楽を巡る環境の変化に対応した実験的な試みを行っていた。
 八〇年代から君臨してきたポップスターであるプリンスが「新聞のおまけ」として新作アルバム『プラネット・アース』を無料配布したのが、二〇〇七年のこと。また、九〇年代以降のロックシーンの先頭を走り続けてきたバンド、レディオヘッドが、「価格はあなたが決めていい」という形で新作『イン・レインボウズ』のダウンロード配信を行ったのも、やはり二〇〇七年。クリス・アンダーソンが『フリー――〈無料〉からお金を生みだす新戦略』を上梓し、基本無料で一部を有料化する「フリーミアム」のビジネスモデルを提唱する二年前のことだ。
 デジタルデータが「無料」になったら、あらゆるコンテンツ産業がビジネスとして成立しなくなる。その代わりに、コピーできない「体験」を提供するライブやコンサートの価値は高まっていく。二〇〇七年の時点で、すでにそういう見通しも語られていた。

「しかし、そうなった時に果たしてミュージシャンは生き残ることができるのか?」

 そんな問いも各地で繰り返されていた。活動を続けることのできるミュージシャンは、すでに知名度があり、音源を無料で配布できるような資金力を持っている一部の大物だけだろう、と考える人も多かった。既存のメジャーレーベルは力を失うだろう、そして、それによって無名の新人ミュージシャンが発掘されて脚光を浴び、活躍するような機会は失われていくだろう、とも語られていた。

 これは「終わりの始まり」だ。インターネットの普及が音楽産業を疲弊させ、カルチャー全体を衰退させていく。そんな風に信じられていたのが、二〇〇七年の風景だったのだ。

 しかし、現実は違った。インターネットは、音楽を殺さなかった。

 確かに、レコード業界をはじめとして、既存の音楽産業には大きなダメージを受けたところもあったかもしれない。しかし、そこから数年で音楽文化が衰退したかといえば、そうではなかった。結果として訪れたのは全く逆の風景だった。
 特に日本においては、海外には全く存在しない独自の音楽文化が数年間で瞬く間に拡大している。それを牽引したのは、新しい世代のクリエイターと、彼らが用いたボーカロイドというソフトウェアだった。

 もちろん、初音ミクが登場した当初に「新しい音楽文化がここから生まれる」なんて思っていた人は、ほとんどいなかっただろう。初期のブームはキャラクター人気として紹介されることも多かった。新しいタイプの「萌えキャラ」だと思われたり、芸能事務所がプロデュースしたバーチャルアイドルと並べて語られたりすることもあった。しかし、次第に、初音ミクというキャラクターそのものから、ボーカロイドを使って音楽を制作するクリエイター、すなわちボカロPに焦点が当たるようになる。それまで陽の当たることのなかった沢山の才能が頭角を現すことになる。

 最初は誰もが無名のアマチュアミュージシャンだった。

 そこから数年が経過し、ボカロPとして音楽を作り始めたクリエイターは、日本の商業音楽のシーンの中でも確固たる位置を占めるようになっていった。コミケや即売会イベントだけでなく、全国流通盤のCDをリリースし、小説を出版し、メジャーで活躍する歌手に曲を提供することも当たり前になった。
 ボーカロイドの歌う楽曲を集めたアルバムがオリコンチャートで一位を記録することもたびたびあった。カラオケランキングの上位にはボーカロイドを用いた楽曲が当たり前に並び、数々のCMや企業コラボにも起用され、イベントが横浜アリーナを満員にするようにもなった。
 その変化を牽引したものは、果たして、何だったのだろうか。


序章「僕らはサード・サマー・オブ・ラブの時代を生きていた」【後編】

新しい「遊び場」が生まれた年

 振り返ってみれば、二〇〇七年は、インターネットや音楽を巡る数々のサービスが生み出された年でもあった。

 二〇〇六年一二月に試験的なサービスを開始していた「ニコニコ動画」が、「ニコニコ動画β」として本格的に始動したのが、二〇〇七年一月のこと。
 リアルタイムのライブストリーミング(生配信)サービスを提供する「USTREAM」が、一般向けベータ版のサービスを開始したのが、二〇〇七年三月。
 また、世界中で数多くの有名アーティストがアカウントを持つ音楽の共有サービス「SoundCloud」は、二〇〇七年八月にベルリンでスタートしている。
 インターネット上で音楽をともに楽しむことのできる新しい仕組みが、世界中で同時多発的に生まれていたのが、この頃だった。
 振り返れば、YouTubeやTwitterが創業し、サービスを開始したのも、二〇〇五年や二〇〇六年の頃だった。音楽だけでなく、政治や経済の分野を含め、社会全体にとっても欠かせないインフラとなった数々のインターネットサービスが生み出されたのが、この頃のことだ。
 そして、今となっては笑い話のように思えるかもしれないけれど、それが登場した当初は、誰もがそれを新しい「遊び場」として捉えていた。

二〇〇七年とか二〇〇八年の頃って、みんなDIY精神が強かったんですよ。よくわかんない面白いものが転がってるから、それをどうにかして面白くしようぜっていう文化だったんですね。

(ナタリー「kz(livetune)×八王子P 気鋭クリエイター2人が語るネットミュージックの現在と未来」)

 こう語ったのは、本書でも後に登場する音楽プロデューサー、kz。livetune名義でも活躍する彼は、二〇一一年末にGoogle ChromeのキャンペーンCMソングとして発表され、初音ミクとボーカロイドを世界中に広く知らしめるきっかけになった楽曲「Tell Your World」の作り手だ。初音ミク発売直後の二〇〇七年九月にオリジナル曲「Packaged」をニコニコ動画に投稿し、二〇〇八年にいち早くメジャーデビューを果たして注目を浴びた、ボーカロイドシーンのパイオニアの一人でもある。

自分はまさに曲作り始めたばっかりなんで、もうやったるぜ! みたいな感じでした。まともな曲を作れるようになったらニコ動にアップするぞ! みたいな。

 学生時代にボーカロイドとニコニコ動画に出会い、その頃に見よう見まねで音楽制作を始めたという八王子Pも、二〇〇七年当時のことをこう振り返る。
 つまり、クリエイターたちがそこに見ていたのは、ビジネスや採算や、そういったこととは関係ない、創作と表現の「楽しさ」そのものだった。

 これは「終わりの始まり」だ――。あの頃、そんな風に語り、音楽の未来について悲観的な物言いをしていたのは、既存のシステムの中にいた大人たちばかりだった。
 ニコニコ動画に出会い、ボーカロイドに出会い、そこで動画サイトに投稿していたクリエイターたちは、みんな無我夢中で目をキラキラさせていた。そこには真新しい熱気があった。それこそ、livetuneの「Tell Your World」は、まさにその熱を形にしたようなアンセムだった。

僕はどっちかっていうと、あの頃はすごくポジティブなことを思ってました。面白いことがこれからいろいろできるじゃん、って。多分、それって、既存のシステムにいなかった人たちの見方なんですよね。システムの側にいた人からすると、無料で出されちゃどうしようもないだろってなっちゃうと思うんですけど。

 kzは、こんな風にも語っている。

二〇年おきに訪れる「サマー・オブ・ラブ」

 果たして、二〇〇七年に何があったのか。
 ボーカロイドが生み出した新しい音楽カルチャーとは何だったのか? ボカロPたちを駆動した原動力、ニコニコ動画という場が持っていたエネルギーとは何か? kzや八王子Pが語っていたような「無我夢中の楽しさ」は、まっさらな新しい場所で何か面白いことが始まっているというワクワク感は、何故生まれたのか。

 それを考えている間に、ふと、一つの巡り合わせに気づいた。それは、ひょっとしたら「サード・サマー・オブ・ラブ」のようなものだったんじゃないだろうか――。

 ロックやクラブミュージックの歴史には、二つの「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれる時代がある。どちらも、カウンターカルチャーとしての新しい文化を生み出し、社会現象となった、熱気に満ちた時期を指す言葉だ。

 最初の「サマー・オブ・ラブ」は、一九六七年からの数年間。
 発祥の地はアメリカ西海岸、サンフランシスコ。ヘイト・アシュベリーという小さな街の一角だ。主役は当時のヒッピーと呼ばれた若者たち。
 背景にあったのは、当時泥沼化していたベトナム戦争への反戦運動や公民権運動だった。当時の社会への反抗精神が、そしてドラッグ文化がムーブメントの底流になった。一九六九年のウッドストック・フェスティバルには数十万人が集い、後世に語り継がれる数々の伝説が生まれた。そこには音楽があり、ロックが鳴っていて、熱気に浮かされた若者たちは、本気で世界を変えられると思っていた。ムーブメントの勢いはその後数年で途絶えるも、そこで生まれたヒッピーカルチャーの価値観自体は今もしっかりと受け継がれている。

 そして、その二〇年後。「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれるムーブメントが、八〇年代後半のイギリスで勃発する。テクノやアシッドハウスなどのクラブミュージックの勃興だ。もちろん、その名前には、一九六七年に始まったヒッピーカルチャーの再来という意味が込められている。ムーブメントの熱気はロックバンドにも飛び火し、ザ・ストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズなどのバンドが世界的な人気を獲得する。
 六〇年代のヒッピーたちがLSDやマリファナに夢中になっていたのと同じように、八〇年代の若者たちはエクスタシーという新しいドラッグに夢中になっていた。そして、その背景にはサッチャー政権下で鬱屈する若者たちのエネルギーがあった。

 二つのサマー・オブ・ラブに通じ合うものは、何か。
 ひょっとしたら、それは単に音楽とドラッグの快楽が生み出した刹那的な盛り上がりだったのかもしれない。その時代、その時代の若者たちによる、移り気な熱狂だったのかもしれない。
 しかし、表層的なブームの内側には、常に社会の構造を変える「何か」があった。そう僕は考えている。そこにはDIY精神から生まれた新しいコミュニティとユースカルチャーがあった。そうして六〇年代にはロックが、八〇年代にはテクノやクラブミュージックが広まり、新しい音楽ジャンルとして定着した。
 大人たちには理解不能、それでも若者たちにとっては世界を変えられるかもしれないと本気で思う、そんなエネルギー。それが熱となって噴出する場所が、そこにはあった。

 一九六七年、一九八七年、二〇〇七年。

 偶然かもしれないが、そう捉えると、ちょうど二〇年おきの話になる。
 一九六七年のアメリカ、一九八七年のイギリスと同じように、二〇〇七年の日本のインターネットには「新しい遊び場」があった。そこには誰でも参加できる、小さな、しかし自由なコミュニティがあった。その中心に音楽があった。
 そう考えれば、初音ミクの登場が巻き起こした現象を「サード・サマー・オブ・ラブ」と見立てることができるのではないだろうか?

 僕らはサード・サマー・オブ・ラブの時代を生きていた。

 そう考えることで、二〇年おきに訪れる点と点を繋ぐことで、二〇世紀のポピュラー音楽の歴史と二一世紀のボーカロイドを繋ぐ一本の線を引くことができるのではないだろうか。

 六〇年代、八〇年代、〇〇年代。

 その三つの時代をまたいで、音楽とテクノロジーがどんな「新しい時代の幕開け」を切り拓いてきたか。そんな視点からボーカロイドとポピュラー音楽の歴史を語っていくのが、本書のアウトラインだ。
 初音ミクの発売元であるクリプトン・フューチャー・メディア株式会社の伊藤博之社長、開発を担当した佐々木渉氏、ボーカロイド技術の生みの親であるヤマハ株式会社の剣持秀紀氏をはじめ、ボーカロイドのカルチャーに関わる沢山の人たち、そして数々のクリエイターに、そういうスタンスから話を聞き、取材を重ねてきた。

 「まだ見ぬ未来から、初めての音がやって来る」。初音ミクの名前の由来には、そんな思いが込められていた。
 それから数年、かつての「まだ見ぬ未来」は、現実にどんな実を結んだのか。そして、この先にどんな未来が開けているのか。それを探っていこうと思う。