日々の音色とことば

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「問十二 夜空の青を微分せよ 街の明りは無視してもよい」を、恋文として読み解く

 

「問十二 夜空の青を微分せよ 街の明りは無視してもよい」(川北天華)

 

数年前にとある高校生によって詠まれ、今もリツイートさ続けている短歌。最初に発表されたのは2011年、京大短歌でのことだという。

 

この歌を見た時のことは少しだけ覚えている。歌稿に手書きで書かれていた。京大短歌のホームページの「歌会の記録」によると2011年4月15日のことだったらしい。
綺麗な歌だとは思ったが、別に歌会での評価がそんなに良かったわけではなかったことは覚えている。作者はその時歌会に新入生として参加していた。「高校生の時に作った作品で一番評価が分かれた問題作を持ってきました!」と作者が悪戯っぽく笑いながら言っていたことは覚えている。その後、彼女は京大短歌に在籍していたが、年が暮れる頃に休会したいという旨の丁重なメールを送って去っていった。

一首評の記録:京大短歌

 

ほんとに素晴らしいし、とてもロマンティックな情景が描かれている一首だと思う。これがツイッターで広まり、いろんな人が解釈している。

 

 

 

 

togetter.com

 

 

ということで、僕も分析してみたい。

連続ツイートした内容を、こちらにもまとめておこうと思います。

 

 

まず「夜空の青を微分せよ」という耳慣れない言い回しと、「問十二」で始まる問題文の形式が目を引くけれど、最初に着目すべきはそこではなく「街の明りは無視してもいい」。この一節に味わいの核心がある。というのは、普通、夜空を見るときに街の明りは無視できないものだから。

 

物理などの問題文にある「無視してもいい」という一文は、通常、解にたどり着くためにはその影響を考えなくていい、という意味で使われる。その定型を借りることで「街の明り」を「空気抵抗」や「摩擦」のようなものになぞらえている。本質には関係ない、ということ。

 

で、「街の明り」は当然「夜空の青」との対比。見晴らしのいい場所で夜空を見上げる。見下ろすと街の明かりが光っている。その光はすなわち、この街にみんなが暮らしていること、生活していることの象徴だ。でもそれを「無視してもいいよ」ということ。

 

ここで「問十二」が活きてくる。問題文の形式というのは、少なくとも「ひとりごと」ではない。誰かに向けての問いかけ。ここから思い浮かぶのは、すなわち「二人の会話」だ。「十二」というのもいい。投げかけられた11個の問いを想起させる。つまりある程度会話が続いたあとだ。

 

ちなみに「夜空が青い」のはいつのことか。真っ暗闇の深夜ではない。月明かりがこうこうと光っているときでもない。青く見えるのは、夜が明ける前、空が白んでくる頃のことではないだろうか。

 

そうした読み解きから、こんな情景を思い浮かべることができる。ピンと澄んだ空気。見晴らしの高台で、二人が夜空を見上げている。夜もふけて、話もつきて、白んできた夜空に「青いね」とつぶやく。見下ろすと街の明りが見える。家族も友達もそこにいる。でもそれは「無視してもいい」。

 

ここでようやく「夜空の青を微分せよ」。微分という言葉をどう捉えるかはその人次第だけれど、僕としては「(夜空が青い)この時間を微分せよ」と解釈したい。時間を微分するというのは、つまり瞬間が永遠になるということ。わかりやすく言うと「このままずっといようよ」。

 

(追記:「時間を微分する」と「速度になる」のでは、という指摘がありました。たしかにその通りなのですが、。僕自身が「微分」という言葉から勝手にふくらませたイメージは「スローモーションのコマ送りのように(夜明け前の)時間の動きを極限までゆっくりにしたい」というものでした。「limΔt→0」という)

 

つまり、「問十二 夜空の青を微分せよ 街の明りは無視してもいい」という一首からは、物理や数学などの用語を使い、きわめて理系的なレトリックを駆使した「このまま二人だけでずっと一緒にいようよ」というメッセージを読み取れるのである。そりゃもうキュンキュンするわ。

 

夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したというのは有名な話。そこから考えればこれが恋の歌であることも類推できる。そして平安時代には恋文を歌にしたためて送っていたことを考えても、短歌として非常にまっとうな成り立ちをしていると言える。

 

というわけで、この短歌が持つ青春の恋心のきらめき、ロマンティックなピュアネスが、今も人々の心を捉えているんじゃないかと思うのです。BUMP OF CHICKENの「天体観測」に近い世界観というか。以上、ロキノン仕込み(笑)の短歌批評でした。