日々の音色とことば

usual tones and words

SMAP解散の「真相」と「本当」について

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

 

■「関係者」が語るもの

 

今日はSMAPの解散を巡る「真相」と「本当」の話。

 

と言っても、僕が何かを知ってるわけじゃない。事情通みたいな話をしたいわけじゃない。むしろその逆だ。

 

そういう話は、スポーツ新聞とか週刊誌とかネットメディアに山ほど載っている。そして、それを見ると、どのスタンスで書かれた文章でも同じ「書かれ方」をしている。というのも、ほとんどが「芸能記者」とか「事務所関係者」とか「テレビ局関係者」とか「知人」みたいな匿名の内部者がコメントし、それを元にストーリーを組み立てる構成になっている。それをもとに、何があったのか、誰と誰との関係がどうなのか、事務所は、元マネージャーはと、いろんな内幕といろんな思惑が語られている。

 

で。ざっと記事は見たけど、それ以上読む気がしなくなってしまった。なんだか、「関係者」って、そもそも一体なんなんだろう?って改めて思ってしまったのだ。

 

メンバーの言葉は届けられない。最初に発表されたコメントはあったが、それが話したものなのか、書いたものなのかさえ判然としない。その一方で情報が奔流のように届く。たとえば中森明夫さんは「天皇陛下が生前退位のお気持ちを、国民に向けて映像と肉声で語られたというのに、SMAPにはそれすらない」と指摘している。

 

dot.asahi.com

 

これは1月に書かれた記事だけれど、津田大介さんも「一部を除く芸能マスコミは軒並み情報源をぼかし、結果的に事務所の情報コントロールに加担した」と指摘している。特にスポーツ新聞のような媒体において、事務所関係者という匿名の情報源」の伝えたいメッセージを発言者の「コメント」ではなく「地の文」で書かせる手法が横行していたと言う。

 

digital.asahi.com

 

そういうメディア環境のなか、スポーツ新聞も週刊誌も「SMAP解散の真相」という見出しの記事を連発している。繰り返しになるが、どれも匿名の「関係者」が語ることをもとに、これが真実だ、これが真相だとストーリーが組み立てられている。メディアリテラシーが試されている。

 

僕が思うのは、そもそも「真相」って何だろう?ってことだ。そこに「本当」はあるのだろうか?

 

■「ロックンロールは鳴り止まない」としての「SMAPは終わらない」

 

 

そんな中で、献本いただいた『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」 』を読んだ。『ジャニ研! ジャニーズ文化論』の著者の一人でもある矢野利裕さんの新著。

 

 

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

 

 

 

批評の鋭さと、思いの強さが文章の根底に流れている一冊だった。ただ、この本の発売一週間後にSMAPの解散が報じられ、よくも悪くも話題を集めるタイミングでの刊行になった。

 

アマゾンのレビューには現時点でこんな評が並ぶ。一目見ればわかるが、本の中身を一行たりとも読んでないだろうことがまるわかりの感想だ。たぶんタイトルを見て一言何か言いたくなっただけなのだろう。

 

 

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しかし、この本の題名の「SMAPは終わらない」という言葉が意味するものは、「きっとSMAPは解散しないはず」という見込みのようなものとは全く異なる。それは少しでも内容を読めばわかる。

 

「SMAPは終わらない」という言葉には、「パンク・イズ・ノット・デッド」とか「ロックンロールは鳴り止まない」とか、そういった言葉と近いニュアンスが込められている。

 

SMAPを「アイドルに自由と解放の気分をもたらしたグループ」と位置づけ、実質的には1月の謝罪会見の時点でその「SMAPらしさ」は失われてしまった、とするのが本書の論点だ。そして、タイトルには、たとえグループが解散したとしてもその存在が持つロマンは決して失われないだろうという願いが謳われている。

 

■SMAPというグループの「本当」はステージの上にある

 

著者の矢野利裕さんの立場は一貫している。この本の「はじめに」で語られているのは1月の報道と『SMAP×SMAP』での謝罪会見を受けてReal Soundに掲載されたコラムだ。

 

realsound.jp

 

以下引用する。 

 

芸能の本義は、常人とは異なる身体性を用いて、日常とは異なる空間を演出することだ。僕たちは、だからこそ、歌や踊りや笑いに触れることで、ほんのつかのま、社会のしがらみから解放される。かつて、ブロードウェイ・ミュージカルに魅了され、美空ひばりの舞台に感銘を受けたジャニー喜多川は、そのことをいちばん知っていたのではなかったのか。ジャニーズ事務所は、そういう日常から解放されるようなステージングを、なにより目指していたはずではなかったのか。だったら、ほかならぬ芸能‐人を、ああいうかたちで、社会のしがらみの最前線に立たせてくれるなよ。

(中略)

もし希望があるとすれば、それでも芸能は社会を越えてくる、ということだ。あらゆる社会的な困難にあるときこそ、歌と踊りと笑いが必要とされる。芸能は最後の最後、社会を越えてくると信じている。

(中略)

社会のしがらみに巻き込まれたSMAPが、「正直」に話ができないことくらい分かっている。しかし、芸能‐人にとっての「正直」さとは、あの、歌って踊る身体に他ならない。だから、社会のしがらみとはまったく別の水準で、芸能‐人としての「正直」さこそを早く見せて欲しい。

 

  

上に引用したとおり、矢野利裕さんはSMAPの「歌って踊る身体」「歌と踊りと笑い」に強い価値を置いている。「本義」や「正直」という言葉を使って、それを表現している。

 

すなわち、SMAPというグループの「本当」はステージの上にある、というのが矢野利裕さんのスタンスの根底にある価値観だ。それは匿名の関係者のコメントから「真相」を解き明かせるとする週刊誌やスポーツ新聞やネットメディアの立場とは真っ向から相反する。

 

なので、騒動の「内幕」のようなものは本には一切書かれない。本の目次は以下のようになっている。

 

はじめに

第一章 SMAP的身体論

第二章 Free Soul : the classic of SMAP――SMAPを音楽から考える

ゲスト:橋本徹(SUBURBIA)、柳樂光隆(Jazz The New Chapter)

第三章 SMAPがたどった音楽的変遷~触れておくべき8タイトル~

第四章 世界に一つだけの場所・にっぽんのアイドル論

ゲスト:中森明夫(作家/アイドル評論家)

 

 

大部分を占めているのは、SMAPのヒストリーを音楽から辿る論考だ。橋本徹さん、柳樂光隆さんとの鼎談で、90年代のクラブカルチャーとの親和性が示される。そして中森明夫さんとの対談では、アイドル文化と文学、社会、芸能、つまりは今の日本を巡る様々な状況の象徴としてのSMAPの存在が批評的に語られる。

 

 

僕は矢野利裕さんのスタンスに心底同意する。

 

もちろん、芸能の世界に「思惑」や「事情」や「しがらみ」があるのは誰にだってわかる。様々に絡み合うそれが物事を動かしているのだって承知している。でも、「歌って踊る身体」の持つ根源的な力に比べたら、そんなことは(わりと)どうだっていい。

 

カルチュラル・スタディーズの古典である、ディック・ヘブディッジ『サブカルチャー』は、まさに記号分析的な手法でパンクやモッズなどを批評していきました。というかそもそも、ロラン・バルトが『神話作用』のなかで最初におこなったのはプロレス分析ですよね。冒頭に「レスリングのよさは、度を越えた見世物であることだ」と書かれていますが、ようするに「見世物」なわけですよ。見世物においては、そこで演じている人がなにを思っているかとか、事実としてどうであるかとかとは別に、それを見ている観客にどういう意味作用・神話作用が起こるか、ということが重要です。ヘブディッジもバルトを参照していました。ジャニーズなどのアイドルやいわゆる芸能人というのも、見世物として人前に出ていく存在です。人前に出たとき、その人が何を考えているかとは別に流通していく記号や表象というものがあって、その分析は当然されるべきだと思います。いやむしろ、記号や表象としてこそ残っていくものがあるだろうし、芸能に生きる人というのは、そういう記号的な存在であることを引き受けている人なのだ、という感覚が個人的にはあります。

(『SMAPは終わらない』より引用)

 

たとえそれがどれだけ真相に近いものであったとしても、「匿名の関係者が語る裏事情」なんかより、「ステージの上」にこそエンタテインメントの「本当」がある。僕もそう思う。

 

2016年は、たぶん一つの時代の変わり目になる年なんだろう。SMAPだけでなく、いろんな事象がそれを象徴している。

 

何かの地殻変動が明示的に起こっているときには、僕はいつも、それが後から振り返ったときに「結果的にはよいターニングポイントになったのかもしれないね」と語られるような変化になることを願っている。