日々の音色とことば

新刊『ヒットの崩壊』が出ました。

『この世界の片隅に』と、「右手」が持つ魔法の力

今日は、映画『この世界の片隅に』についての話。

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もうすでにいろんなところで評判になっている。たくさんの人が心を揺り動かされている。絶賛されている。「映画館で観るべきだ」って言っている。僕も同意。名作だと思う。だから付け加えることはないかなとも思ったんだけど、やっぱり自分が感じたことを書いておこう。

 

僕は試写のときと、公開翌日と、2回観た。どちらも、途中から気付いたら涙ぐんでいた。なんと言うか、「感動を体感する」ってこういうことなんだと思った。原作は読んでいたから話の筋はわかっていたけれど、そういうこととは関係なしに、伝わってくるものがあった。物語というものの持つ本質的な力に触れたような感覚があった。

 

最初の感想ツイートは以下。

 

 

 

■音楽の持つ力

 

そして、見逃されがちだけど、『この世界の片隅に』の魅力の一翼を担っているのは、コトリンゴが手掛けた音楽だと思う。

 

こうの史代の原作も、片渕須直監督の手腕、主人公・すずを演じたのん(=能年玲奈)の天性の才能も、もちろん大きい。でも、コトリンゴの手掛けた音楽も本当に素晴らしいのだ。

 

今年は『君の名は。』を筆頭に、映画と音楽の新しい関係を感じさせる良作が相次いだ一年だった。従来の主題歌タイアップよりも深く踏み込み、監督とアーティストががっつりとタッグを組んで制作した作品が結果を残している。

 

『君の名は。』については、ブログにも書きました。

shiba710.hateblo.jp

 

『シン・ゴジラ』や『怒り』や『何者』、『聲の形』もそういう論点で語ることのできる作品だということはリアルサウンドやオリコンに寄稿したコラムに書きました。

realsound.jp

www.oricon.co.jp

 

上で書いたように、『この世界の片隅に』もそういう枠組みで語ることのできるアニメーション映画だ。主題歌も劇伴もコトリンゴが手掛けている。繊細で柔らかな歌声、ストリングスや生楽器の優しい響きを活かした音楽が活きている。以下のインタビューでも語られているとおり、この映画の「音」を作り出すために、彼女は通常の劇伴作家を超えた領域の役割も果たしているらしい。

 

www.cinra.net

 

まずグッとくるのが、彼女がカバーしたフォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」。これはもともと『picnic album 1』というコトリンゴのカバーアルバムに収録されている曲で、2010年に出たこのCDを彼女が片渕監督に渡したことから関係が始まっている。

 

 

picnic album 1

picnic album 1

 

 

 

最初の特報ではそのバージョンが使われているので、映画のオープニングテーマとして流れる曲とは、若干アレンジが変わっている。

 


映画「この世界の片隅に」特報1

 

本予告で使われているのは、オーケストラが加わることでよりドラマティックになった、この「悲しくてやりきれない」のカバー。サントラ盤にはこちらのバージョンが収録されている。

 


『この世界の片隅に』(11/12(土)公開)本予告

 

■主題歌「みぎてのうた」の持つ意味

 

そしてここからはネタバレ込みです。

 

ただし。この曲が「主題歌」だと思っている人もいるかもしれないが、実はそうじゃない。この「悲しくてやりきれない」はオープニングテーマという位置づけだ。映画の最後にはコトリンゴが書き下ろした「たんぽぽ」という、とても優しいバラードが流れるんだけど、それも「主題歌」ではない。エンディングテーマという位置づけだ。

 

この映画の主題歌は、物語の終盤で流れる「みぎてのうた」。サントラ盤では30曲目に収録されている。

 

 

クレジットは「作詞:こうの史代・片渕須直 作曲:コトリンゴ」。どういうことかというと、こうの史代が書いた原作の最終回「しあはせの手紙(21年1月)」のモノローグをもとに、片渕須直監督が構成した言葉が歌詞になっているわけだ。前出のインタビューで彼女はこんな風に語っている。

 

―“みぎてのうたの歌詞は、原作漫画の最後に出てくるモノローグを組み合わせたものになっていますね。それは監督の希望だったのですか?

コトリンゴ:そうですね。原作漫画の中に、すずさんの右手について書いた言葉がばーっと長く入っているところがあるんですけど、それを歌にしたいという話を監督から聞いて。ただ、その言葉を書き出して曲にしようとしたら、言葉の量が多いから、ものすごく長くなってしまったんですよね。なので、言葉のセレクトを監督にしていただいて、ぎゅっと濃縮して作りました。

いわゆるポップソングの言葉ではないので、なかなか難しいところもあったのでは?

コトリンゴ:監督が、「最後は救われるものであってほしい」ということを何度もおっしゃっていたので、最初のデモは今よりも軽い感じで提出したんです。でも、それはそれでちょっと違ったみたいで。なので、軽くなりすぎず、重くなりすぎず、なおかつ原作の言葉をちゃんと入れつつ、というところでなかなか難しかったですね。

―“みぎてのうたが、一応「主題歌」ということになるんですよね。

コトリンゴ:「主題歌」という役割分担が難しくて。悲しくてやりきれないもあるし、どちらを主題歌にするのか最近まで決まらなかったんですけど、結局映画用に新しく録り直した悲しくてやりきれないはオープニングテーマで、主題歌はみぎてのうたということで落ち着きました。 

 

つまり、「悲しくてやりきれない」ではなく「みぎてのうた」を主題歌にしたのは、片渕監督の意志だったということが明かされている。

 

その「みぎてのうた」では、こんな言葉が歌われる。

  

変わりゆくこの世界の

あちこちに宿る

切れきれの愛

 

ほらご覧

 

いま其れも

貴方の

一部になる 

 

原作では、この「ほらご覧」のところで、絵筆を持った右手が登場する。「例へばこんな風に」と、描かれた風景に色をつける。

 

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つまり、このモノローグは、主人公のすずではなく、(すでに失われてしまった)「右手」が語り部になっている言葉なのだ。だから「みぎてのうた」なのである。

 

■マジックリアリズム的な世界観

  

最初に観たときは、そのことに気付かなかった。けれど、映画の主人公をすずでなく「右手」と捉えると、作品の伝えてくるものがガラリと変わってくる。

  

『この世界の片隅に』は、戦時中の広島と呉を舞台にした映画だ。ぼんやりとしていて、でも明るくて愛嬌がある一人の女性とその家族の、ささやかで幸せな暮らしが描かれる。かまどでご飯を炊いて、干物を買って、野草を積んで。戦時下の広島と呉の、日常や普通の暮らしを大切に描く。そこが、戦争を描いたこれまでの作品との大きな違いとなっている。

 

そうやって読み取るのが、作品の正しい受け取り方だと思う。僕も一回目に観たときはそう思った。日々の営み、生活の様子、細々した視点を、リアリティを持って、アニメーションの動きにも丁寧にこだわり抜いて描いた作品と思える。

 

だけど、主人公を「右手」と捉えると、その印象が逆転する。『この世界の片隅に』は、とても不思議な、ある種のマジックリアリズム的な作品と捉えることができる。

 

すずの「右手」は、特殊な能力の持ち主だ。単に絵が上手いというだけじゃない。作品の中の現実に介入することができる。たとえば物語の主軸となっている夫・北條周作との出会いも「右手」が導いている。広島の中心街を歩いているときに、ひょいとバケモノの背負うカゴに入れられる。そこで縁が生まれるわけなのだが、このエピソードも、少女時代のすずが妹のすみに「右手」で描いたものだ。

 

水原哲との場面もそう。「波のうさぎ」を描くシーンでは、すずの「右手」が描いた絵は景色にとってかわり、海の上を白いうさぎが跳ねていく。描くことで、風景に命がふきこまれる。

 

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(上巻扉絵より)

 

リンとの出会いの場面も、晴美さんとのやり取りも印象的だ。すずの「右手」はすいかを、アイスクリームを、干物を描く。窮乏する生活の中で、別に絵で腹がふくれるわけじゃない。でも、登場する人々は、みんな「右手」が描いた食べ物の絵を見て心を満たす。そういう魔法のような力を持っている。

 

だからこそ、その後、20年3月に呉を襲った空襲の描写が生きてくる。ここでは、敵機を撃ち落とすための対空砲火が空で炸裂する。色鮮やかな煙が舞う。これは決してアニメーション的な演出でなく、当時の対空砲火がどの軍艦から撃ったかを見分けるために煙が着色されていたことに基づく描写らしい。

 

が、その後、突然画面に絵筆があらわれる。砲火の煙のかわりに、絵筆が絵の具を空にぶちまけていく。

 

「ああ、今ここに絵の具があれば……って、うちは何を考えてしもうとるんじゃ!」

 

のんがそう言う。これはすずのセリフだけれど、僕は数少ない「右手」の叫びが前面にあらわれた瞬間だと思っている。

 

小原篤さんも、細馬宏通さんも、この「右手」のことに触れている。

 

www.asahi.com

 

digital.asahi.com

 

magazine.manba.co.jp

 

 

だからこそ、6月の空襲で晴美が死に、すずが右手を失った時には、アニメーションの枠組み自体がぐらぐらと揺れる。闇の中に荒い描線が浮かんでは消えるような、幻覚のような絵が繰り広げられる。

 

つまり、『この世界の片隅に』の主人公を「右手」と捉えると、途端に、この映画は「戦時下の広島と呉の、日常や普通の暮らしを描いた作品」ではなくなってくるわけだ。

 

絵を描くこと、鉛筆や絵筆で目の前の光景を書き留めること、幻想に思いを馳せること、想像力を働かせること、物語を紡ぐこと――。それらの行為が持つ魔法のような力、その渇望、そしてそれが持つ“業”のようなものにまで踏み込んでいく。

 

こうやって深読みしていくと、『この世界の片隅に』は「芸術」そのものをテーマにした作品とも言えるわけなのである。

 

■二つのエンドロール

 

そして、この映画の主人公を「すず」ではなく「右手」と捉えると、エンドロールの持つ意味合いも、変わってくる。

 

 

これ、のんさんの舞台挨拶で本人から直接聞いてよかった。注意してなかったら見逃してたかもしれなかった。だって物語が終わった後は涙ぐんでたんだから。

 

ここから後はエンドロールにまつわるネタバレです。一度観た人も、ここに気を付けてもう一度観ると「あっ!」と気付くことがあると思う。

 

この映画、実はエンドロールが二つあるんです。一つは、監督やキャストやスタッフの名前が並ぶ、通常のエンドロール。そして、それが終わると、続いてもう一つのエンドロールが始まる。この映画はクラウドファウンディングで資金を集めているから、その支援者のクレジットを入れる必要もあって、こういう構成になっているわけです。だから本編が終わった後のエンドロールがとても長い。映画の感想でも「クラウドファウンディングのクレジットがとにかく長くてうんざりした」みたいなのを見かけた。

 

でも、それを飽きさせずにちゃんと魅せる工夫もしてある。ずらずらと名前が流れる脇に、映画で描いた物語の「その後」を示すような、二つのショートストーリーが描かれるのだ。

 

通常のエンドロールで描かれるのは、すずさんたちが呉で暮らす日常の風景。おそらく昭和25年くらいかな。物語の終盤で出会った孤児が成長し、つつがなく、幸せに暮らす家族。片渕須直監督の前作『マイマイ新子と千年の魔法』は昭和30年代を舞台にした物語で、そこと『この世界の片隅に』が地続きのストーリーであることも暗示しているのだと思う。

 

そして、クラウドファウンディングの支援者の名前が並ぶもう一方のエンドロールでは、手描きの絵が描かれていく。ただイラストのカットが流れるのではなく、白い画面に口紅を使って「右手が描いていく」過程がアニメーションで描写される。そこに登場するのは、原作から映画で大幅にカットされた遊女・リンの人生。少女時代のすずと出会い、呉の遊郭で再会し、友達になる。そんなストーリーだ。それを(リンと同じ遊女のテルの遺品だった)口紅で描くということにも、ちゃんと原作由来の意味がある。

 

そして、最後の最後で、画面隅にひらりと登場した「右手」が手を振るんですよ。

 

これを観たときに、うわっと思った。鳥肌が立った。

 

僕が考えるに、この二つのエンドロールは「此岸」と「彼岸」を示していると思うのです。前者は「生」で後者は「死」。一つ目のエンドロールは戦後、そして現代までちゃんと連続していく「生活」を、そしてもう一つのエンドロールは、失われてしまった命、亡くなってしまった人に思いを馳せる「追憶」を示している。だから前者では子供が幸せに成長していくさまが、そして後者には死んでしまった人の楽しかった思い出が描かれる。

 

だからこそ、バイバイと手を振るのは、彼岸の領域にある「右手」じゃなければならなかった。

 

すずさん自身は「この世界の片隅」に居場所を見つけて、ちゃんと救われた。希望を持った終わり方になった。でも、その一方で、失われてしまったものは、どうやって救うことができるのか。

 

そこが、まさに「右手」が主人公として果たした役割なのだろうと思う。描くことで、思いを馳せることで、想像力を働かせること、フィクションをまじえて物語ることで、懐かしい記憶や、住んでいた場所や、大切な人にもう一度会いにいくことができる。すずの「右手」はそういう特別な力を持っていることが、作中でも繰り返し示される(たとえば『鬼いちゃんの南洋冒険記』が、石ころになって帰ってきた兄をジャングルに蘇らせたように)。

 

そして、こうの史代さんと片渕須直監督が『この世界の片隅に』でやったのも、それと同じことだった。その時代を生きた人の生活のさまを丹念に調べ、たくさんの人に街の様子を聞き、とても丁寧に、広島で暮らしていた人の日常をアニメーションで蘇らせた。その経緯は以下の記事に詳しい。

 

www.nhk.or.jp

 

『この世界の片隅に』がとても丁寧に当時の人々の暮らしや日常を「描いて」いるのも、すずさんがスイカや干物や街の風景を作中で「描いて」いるのも、一つのメタ的な相似形なのだと思う。描くことで、手の届かないもの、失われてしまったものを近くに引き寄せることができる。それは「物語」の持つ、とても大きな力だ。

 

そういうところに、僕は深く感じ入ったのです。

 

 

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック