日々の音色とことば

usual tones and words

星野源とRADWIMPSが対峙してきた「邪悪」について

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久々のブログ更新。いろいろと〆切を抱えててこっちに書く時間がなかなかとれないんだけど、これはちょっと記録しておかざるを得ないよね。

 

だって、11月から12月にかけての1ヶ月のうちに僕の観測範囲の中心である日本の音楽シーンから、素晴らしいアルバムがどんどんリリースされているわけだから。ちゃんと自分なりにそれをどう受け止めたかを書き記しておかないと、流れていってしまう。

 

そういうことのために僕のブログはあるのでね。

 

まずはなんと言っても、星野源『POP VIRUS』。まあ年間ベスト級の一枚であることは間違いないでしょう。

 

 

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三浦大知『球体』と新曲の「Blizzard」を聴いたときにも思ったけれど、なんだかんだ言って、メインストリームのど真ん中にいる人が挑戦的なことをやっているのがポップ・ミュージックの一番面白いところなんだよね、と痛感する。

 

 


三浦大知 (Daichi Miura) / Blizzard (映画『ドラゴンボール超 ブロリー』主題歌)

 

 

ただし「海外のトレンドにいち早く反応したほうが勝ち」みたいなゲームをやってるわけじゃない。ここ、すごく大事。別に先鋭的なことをやってるから格好いいわけじゃなくて。

 

ポップ・ミュージックは日々更新され続ける今の時代感の表現である。で、その背景には歴史の積み重ねたるルーツがある。当然のことだけど、完全にオリジナルな表現なんて世の中にはほとんどなくて、カルチャーとはいわば河川のようにいろんな源流が合わさって形作られる潮流である。

 

なので、現在の時代へのアンテナと、過去の蓄積への探究心と、声を使った身体表現としての「歌」としての美しさがあいまって、強度を持ったものになる。星野源の新作はそういうことを感じさせてくれるアルバムだった。いろんな聴き所があるけれど、やっぱり僕としてはSnail's Houseを起用した「サピエンス」に一番ビビったかな。

 

で、RADWIMPSの『ANTI ANTI GENERATION』も、確実に同じ問題設定を踏まえた上でその先に突き抜けていこうという意識を感じるアルバムだった。

 

 

ANTI ANTI GENERATION(初回限定盤)(DVD付)

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つまりは「すさまじい速度で更新されつつあるポップ・ミュージック・カルチャーの変化」にどう応えるか。具体的に言うならば、英語圏ではラップミュージックやベースミュージックが潮流を握ったことによって、リズムのあり方、垣根の溶けた歌とラップのフロウのあり方と言葉のデリバリー、そしてサウンドメイキングにおいて抜本的に革新が起こっている。それに「日本のロックバンド」はどう向き合うの?という問題意識だ。

 

それが端的にあらわれているのが「カタルシス」であり「PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~」だと思う。

 


PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~ RADWIMPS MV

 

ここにあるのは「前前前世」の「みんなが知ってるキラキラとして情熱的なギターロックバンド」のRADWIMPSではなく、トラップ以降のグルーヴとフロウの関係性の変化、低域の鳴らし方の変化に意欲的に向き合っているRADWIMPSだ。

 

で、そういう問題意識は当然他のミュージシャンも共有しているもので、特に12月はそういうテーマを持った作品が次々とリリースされた。

 

たとえば、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ホームタウン』は、まさに「ベースミュージックの影響で低域が強くなっているのが前提のグローバルな潮流に対して中域が強すぎるJ-POPや日本のロックバンドのサウンドメイキング」という問題系に真っ向から向き合いつつ「パワーポップをやる」という、いわば針の穴を通すようなコンセプトを形にしている。

 

 

ホームタウン(初回生産限定盤)(DVD付)(特典なし)

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SKY-HIの『JAPRISON』はラッパーという立場だから、もっとグローバルな潮流の変化にダイレクトにアクセスしようとしてる。端的に言うと、「日本」という枠組みで考えるとどうしてもぶち当たってしまう壁を「アジア」という枠組みに自分を位置づけることで突破しようとしている感がある。「JAPRISON」というタイトルに「JAPAN PRISON」「JAPANESE RAP IS ON」というダブルミーニングを込めていることからも、それが伝わってくる。

 

 

JAPRISON(CD+Blu-ray Disc)(LIVE盤)

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ぼくのりりっくのぼうよみのラストアルバム『没落』もすごくよかった。ツイッターの炎上騒ぎばっかり見てる人には何にも伝わってないし、最近でもYouTuberに就職して2日で辞職したりして「何がやりたいのかわからない」とか言われて本人にマジレスされたりしてるけど。

 

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ちゃんと彼のアルバムを聴いてる人はそこに封入されている「遺書」を読んだだろうし、いろんな表現が“自死”をモチーフにしていることが伝わってくると思う。『没落』の中では「曙光」が一番好きだけど、XXX TentacionやLil PeepやMac Miller やJUICE WRLDや、Lil Uzi Vert や、Fueled By Ramen所属だからワンオクともレーベルメイトになるnothing, nowhereあたりなど、北米のエモ・ラップやサッド・ラップと言われてるムーブメントと呼応しているテイストを感じる。

 

そのうえで、XXXTentacionもLil PeepもMac Millerも本当に死んじゃったのが去年から今年にかけての残酷な事実なわけで。ぼくりりは自分の肉体を害するかわりにキャラクターとしての「ぼくのりりっくのぼうよみ」を葬ったんだと考えると、日本がアメリカみたいな銃社会じゃなくて「キャラ社会」でよかったよねーなんてことも思う。

 

あと、曽我部恵一の追いつけないほどの多作っぷりも北米のトラップ以降のムーブメントの速度感を体現しててヤバいよね、と思う。

 

 

それからそれから、長谷川白紙『草木萌動』も今までにないタイプのリズムの脈動を身体感覚として“歌”にしていて、それもよかったなーと思う。

 

 

中村佳穂『AINOU』も。

 

 

■「人をコンテンツとして扱う」という邪悪

 

で、本題。

 

星野源『POP VIRUS』とRADWIMPS『ANTI ANTI GENERATION』はほぼ同じタイミングで世に出ているわけだけれど、ちゃんと聴けば、そこには拭い去れない「精神の傷痕」が刻み込まれているのが感じ取れると思う。

 

僕なりの言い方でもっと極端に言えば、それは世の中にはびこる巨大な「邪悪」に対峙してきた痕跡だ。

 

たとえば星野源の「アイデア」にはこんな歌詞がある。NHK連続テレビ小説の主題歌として爽やかに日本の朝を彩った一番から一転、二番では音数をグッと落としたアレンジでこう歌われる。

 

おはよう 真夜中
虚しさとのダンスフロアだ
笑顔の裏側の景色
独りで泣く声も
喉の下の叫び声も
すべては笑われる景色
生きてただ生きていて
踏まれ潰れた花のように
にこやかに 中指を

 

『ダ・ヴィンチ』2018年12月号掲載のエッセイ「いのちの車窓から」では、この歌詞の背景にあったエピソードが書かれている。

 

 買い物をしていると、物陰からスマートフォンで写真や動画を勝手に撮影されるようになった。
 家の前には、窓にスモークのかかった車が止まるようになった。
仕事帰りには様々な車が付いてくるようになった。
 週刊誌、ネットニュースで全ての内容が創作である記事が書かれるようになった。

  

続けて「嬉しいことばかりだった」と星野源は綴っているが、それはきっと、あくまでレトリックとしての表現だろう。2017年から2018年にかけて、間違いなく星野源は病んでいた。文章はこう続く。

 

 仕事では楽しく笑顔でいられても、家に帰って一人になると無気力になり、気がつけば虚無感にまみれ、頭を抱え、何をしても悲しみしか感じず、ぼんやり虚空を見つめるようになった。
 それは日々ゆっくりと、少しずつ増殖するウイルスのように、僕の体と精神を蝕んでいった。
 声をかけられることが恐怖心となり、街では誰にも見つからないように猫背で顔を隠し逃げ回り、ベランダに出ることさえも怖くて怖くて晴れた日でもカーテンを閉めるようになった。

 

ここからは、2016年に「恋」が一つの社会現象を巻き起こしてから彼が対峙さるを得なかった「邪悪」の巨大さが伺える。アルバムのインタビューでも星野源はこう語っている。

 

「去年いろんなこともあったし、ほんとにうんざりっていう(笑)。世の中に対してもそうだし、人間的にも疎外感というか、『なんじゃこりゃ、この世はもうどうしようもないな』みたいな感じがどんどん強くなってきて。そういう、うんざりっていう感覚みたいなものを出していこうっていうか」

(『MUSICA』2018年12月号)

 

 

 

同じく2016年に『君の名は。』と「前前前世」が社会現象的なヒットとなったRADWIMPSの表現はもっと直接的だ。彼が向き合ったものは「PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~」のリリックに全て書いてある。

 

いいかいお父さんの仕事は普通とはちょっと違う
大きな意味では世の中の人に娯楽を提供してるんだ
役者さんミュージシャン スポーツ選手や著名人
家の前だとか仕事場でも どんな所だって張り付いて
その人の日々の監視をする そういう仕事をしてるんだ
そして何か悪さをしたり 面白いことが起こったりすると
それをすかさず記事に書いて 世間の皆に知らせるんだ
体力も根気も無きゃいけない とても大変な仕事なんだ

 

曲名には「*この物語はフィクションです~」とあるが、インタビューではこんなことも語っている。

 

「これは相手がいた頃、俺は数年間ほんとに苦しんでて、ほんとにノイローゼになりかけてて。ウチが個人事務所だからなのかなんあのか、容赦なくて。役者の友達とかに話すと『そんなことあり得ないよ』っていうようなこともされてて。自分の中でどうケリをつけようかなっていうのがずっとあったんですよね。ただあの怒りをそのまま曲にしても伝わるものにならないなと思ったし、だから4,5年かかったんですけど……なので自分が言いたいことを言いつつ、彼らの言い分もなるべく想像して。あの人達には子供とかいるのかな、その子供に自分の職業をなんて説明するのかなってところからまず始まって」

(『MUSICA』2018年11月号)

 

 

俺のとこなら百歩譲ったとしても
実家の親の家にへばりついて
堂々直撃してきたな?
息子さん苦節10年 成功して良かったですね
親御さんとしてどうですか?
あんたの親にも聞いたろか

 

という歌詞もある。

 

まあ、これは実話だろう。『女性自身』が2017年1月にネットに公開したニュースには「RADWIMPS野田洋次郎の下積み時代支えた“セレブ母の献身”」という見出しの記事がある。アクセスを送るのが嫌なのでリンクは貼らないが、上のリリックの通りの内容だ。これもアクセス送るのが嫌なのでリンクは貼らないが、大方の予想通り、2018年後半時点で『女性自身』の標的は米津玄師に向かっている。自宅マンションをつきとめその前に張り付いた記事を公開している。

 

これ、僕ははっきりと「邪悪」だと思う。

 

もちろん今に始まった話じゃない。日本だけの話でもない。「有名税」なんて言葉もある。しかし、僕は「有名税」を払う必要のある人間なんて一人もいないと思っている。それに、SNSが普及し、子供たちの憧れにユーチューバーの名前があがり、多様化したジャンルそれぞれに個人のインフルエンサーがいる時代、「有名人」と「一般人」をわけるくっきりとした境目なんてないと思っている。

 

そういう意味では誰もが直面する可能性のあることだと思う。でも、特に、自分の生き様そのものを表現として差し出しているアーティストの場合は、そうやってプライベートな領域に土足で入り込まれることによって、自分の心の敏感な部分、大事な部分を削られてしまう。優れた才能を持った人間がそんな風に心を削られて消耗する必要なんてないと思っている。

 

それでも、この問題は根が深い。

 

スキャンダルやゴシップ記事で糊口をしのごうとするメディアはなくなってほしいし、それを作ったり協力したりすることを飯のタネにしてる人間のことは心から軽蔑するし、そういう人と一緒に仕事をしようとは思わないけど。ついでに誰かの名前で検索をかけると「○○の恋人は? 家族や出身は? 調べてみました!」と適当な情報を垂れ流すトレンドブログは絶滅してほしいと心から願ってるけど。でも、それだけじゃない。

 

ハンナ・アーレントが『イエルサレムのアイヒマン』で書いたように、邪悪とは陳腐で凡庸なものである。そういった記事を作っている人がが、特別にゲスな心性を持ち合わせているとは思わない。むしろ「たまたまその役割を担った」というくらいの人間だと思う。いろんな人が、少しずつ、持ち合わせているものだと思う。それは僕も。

 

その邪悪の源泉を言語化するならば、僕は、それは「人をコンテンツとして扱う態度」だと思う。

 

ごく最近に起こったことで言えば、『水曜日のダウンタウン』でクロちゃんを監禁した『モンスターハウス』と、それが結果的に巻き起こした騒動も、結局のところ同じ「邪悪」から生まれている。僕はあの番組をゲラゲラ笑いながら観てた側の人間だから、あそこに集まった若者たちを「この国は終わってる」なんて言って切断処理するつもりにはなれない。

 

TBSバラエティー番組イベント 若者殺到で混乱し中止に | NHKニュース

 

anond.hatelabo.jp

 

生身の人間のことを「コンテンツ扱い」していないか。そして、マスメディアとSNSが結託するようになり極度にメディア化された社会の中ではそれがある程度しょうがないことだとしても、そのことが生身の人間の尊厳を毀損することに加担してないか。

 

ついでに。いつものことだから口を酸っぱくして言っておくけれど、毎年、年末から正月にかけて沢山の炎上騒ぎが起こっている。おそらく今年もそうだろう。それは結局のところ、暇にかまけて「生身の人間をコンテンツ扱いしている」人たちが起こしていることだ。

 

何度だって省みられていいことだと思う。