日々の音色とことば

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長谷川白紙『エアにに』と、拡張されるアイデンティティの境界

忘れないうちに書いておこう。長谷川白紙のファーストアルバム『エアにに』がめちゃめちゃ素晴らしい。

 

エアにに

 

エアにに

エアにに

  • アーティスト:長谷川白紙
  • 出版社/メーカー: MUSICMINE
  • 発売日: 2019/11/13
  • メディア: CD
 

 

アルバムについては『MUSICA』の12月号でディスクレビュー書きました。

そこにも書いたことだけど、こちらにも。

 

大袈裟なことを言うと「長谷川白紙以降」というタームが生まれそうなくらいの飛び抜けた才能。リズムとアンサンブルと歌の奔放で綿密な躍動があふれている。どんどん表情を変えせわしなく駆け抜けていく曲調は現代ジャズやエレクトロニカなど様々なルーツも感じさせつつ圧倒的にオリジナル。そして何より歌の強さ。譜割りもメロディの跳躍もこれまでのポップスの常識から逸脱してるのに、一度聴くとしっくりと馴染む。単なるエクスペリメンタルな音楽ではなく、シンガーソングライターとして「歌うべきテーゼ」を持ち、詩としての強度を持つ言葉を歌っているからだと思う。

 

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ひとたび聴いて伝わるのは、彼の音楽が、今まで聴いたことのないテクスチャ―と構造を持っているということで。緻密なコラージュの数々、カオティックな展開、自在なストップ&ゴ―、いろんなタイプの興奮を味あわせてくれる曲調が展開されていく。

で、それも間違いなく素晴らしいと思うんだけれど、僕としては、上に書いたとおり、これだけエクスペリメンタルでぶっ飛んだ音楽が、それでも「シンガーソングライターの表現」になっているということが凄いと思うのです。ただ音符と戯れているというよりも、彼の中に確固たるテーマがあって、その表出として歌がうたわれているということ。歌詞をちゃんと紐解くと、そのことが伝わってくる。

 

体を囲う虹の糸が
見えているのはあなただけ
天国くらいに磨り減って
光を通す
あなただけ
思ったときできた
肌から臓が 着くずれ 文字を待つ
(「あなただけ」)

 

「あなただけ」の冒頭で歌われるのは、身体の境界や、自分の内部の溶融をモチーフにした表現。『草木萌動』でも自分の身体をモチーフにした表現が頻出していたけれど、今作もその延長線上にある表現になっている。

どうして、彼は、そういうことを歌おうとしているのか。

『MUSICA』に編集長の有泉さんによるインタビューが載っていて、彼自身が明確にそれを言語化していた。

 

基本的に、私は常に私自身を否定して外に行きたいんですね。何重もの領域を持っていたいというか、私を固定するひとつの枠組があったとして、それを常に壊して「ない」状態にしておきたい――というのが私の根源的な欲求だなということに気づいたんです。私のやってきたことは全部それで説明がつくぐらい、私にとって基本的な欲求なんだなと。でも、それって実際には無理があることなんですよ。「何者でもありたい」なんてことはもちろん実現できないですし。でも音楽であればそれが可能になる。つまり私が音楽をやるのは、私にとって「私ではない私」にアクセスするための1個の手段なんだなということに気づきまして。私が想像し得なかった私であるとか、もしくはなりたかった私であるとか、少なくとも今の自分ではない広い領域に自分の体を持っていったり、広い領域まで自分の体を広げるための手段が音楽だったんだな、と。

 

私が曲を書く上で一番重要視している、というかこれ以外はほぼ重要視してない判断基準があるんですけど、それは曲を書いている時や書き終わった後に、「私の中を何かに探られていく感覚、あるいは私の中の何かが更新されていく感覚があるかどうか」なんです。やってて楽しいとかそういうことを基準にしていると、私の中ではどんどん立ち行かなくなってしまうところがあって。

 

この二つの発言を読んで、僕としては、とても合点がいったし、なんだかすごく感動してしまった。

たぶん、長谷川白紙の音楽を聴いて「わかりづらい」と思う人は沢山いると思う。馴染みのある様式を使ってはいないから。でも彼の曲はポップスとして機能する。というか、なんだかわからないけれど感覚を揺さぶられるようなものがある。それは、彼がアイデンティティについて歌っているから。

アイデンティティというのは、古くて新しい、すごくクリティカルな問題だと思ってる。

アイデンティティとは「自己同一性」のこと。辞書的な説明をすると「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」という意味。もうちょっと噛み砕くと「私はこういう人間だ」と思える「自分らしさ」のよすがというか。

で、ほとんどの人は、アイデンティティについて「あったほうがいい」と思っている。生きていくために「自分らしさ」が必要だと思っている。たとえばサカナクションの「アイデンティティ」みたいに、そのことをテーマにした日本のポップソングも多い。

 

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アイデンティティがない、つまり「自分らしさ」のよすががないことは、人を不安にさせる。

だから、多くの人は、人種や民族や、生まれ育ちや住む場所や、性別や性的志向や、職種や所属や、いろんな「領域」や「枠組み」をアイデンティティのよすがにする。

でも、長谷川白紙が言ってるのは、その反対なわけだ。「私を固定するひとつの枠組があったとして、それを常に壊して『ない』状態にしておきたい」というわけだから。

すごくラディカルな、そしてめちゃめちゃ風通しのいい考え方だと思う。

もちろん現実には難しい。でも少なくとも、音楽を聴いている瞬間には、それができる。「私」という境界は溶けて、違う領域にタッチできる。長谷川白紙はそういうことをテーマに表現してるから、こういう歌、こういう音楽にある。必然性がある。

そういうところにすごく興奮します。