僕が文章を書くときの一つのスタンスとして、できるだけ「貶したくない」というものがある。そして、できるだけ悲観的にならないでおきたい。
新聞を読んでも週刊誌を読んでもブログを読んでも、一つの基本になっているのは「批判」のトーンである。ワイドショーのコメンテーターは自分の専門外の分野にまで眉をひそめ、2ちゃんねるのまとめブログでも「これはひどい」の大合唱になったりする。ブログでも不用意な発言があればすぐさまコメントが炎上したりする。それが一概に悪いことだとは思わない。マスだろうとネットだろうと、メディアにはそもそもそういう機能が備わっている。そして、人を攻撃する言葉は、得てしてとてもキャッチーだ。亀田興毅でも沢尻エリカでもなんでもいい。誰かが「叩かれる」瞬間、叩く側の人間には「連帯」が生まれる。その連帯感は、ある種の快楽性を伴う。そして鈴木謙介が言うところの“カーニヴァル化”が生まれる。それ自体を否定するつもりはない。けれど、僕個人としては、
言葉でできるだけ人を殴りたくない
と思っている。ライターとしても、たとえば特定の誰かを貶めたり傷つけるような記事は、できるだけ引き受けないようにしている。音楽やカルチャーを中心に仕事しているおかげで、そもそもそういう発注がほとんどない、というのもあるけれども。僕がもし週刊誌のジャーナリストだったら「そんな綺麗事言ってんな」の一言で片付けられて終わりだろう。こういう職業をさせてもらっていることに、感謝の思いは大きい。
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書) (2005/05/19) 鈴木 謙介 商品詳細を見る |