日々の音色とことば

usual tones and words

繋ぎ止めるための言葉

いろいろなことがあって、僕は唐突に思い出す。もしくは、ずっと前から気付いていたのかもしれない。忘れたふりをしていただけなのかもしれない。ここを通り過ぎる多くの人たちにとっては、意味不明な文章かもしれない。けれど、僕は何より自分のために、そのことを書き記しておこうと思う。

このブログを始めた日、僕はこう書いた。

「考えたことは、言葉にしなければ僕から逃げていってしまう」。

目覚めて、新聞を読む。テレビを観る。夜遅くまでネットを徘徊する。音楽を聴き、本や漫画を読み、友人や様々な人達と話を交わす。そうして、膨大な量の情報が、日々僕の身体に流れ込んでくる。それは時に刺激になり、時にエネルギーになる。その一つ一つについて、何かを感じ、何かを思う。けれど、それは、そのうちきっと忘れてしまう。丹念に言葉として記録していかなければ、思考の萌芽は泡のように次々と消えていってしまう。僕は、そういう風に考えて、そう書いた。

でも、それだけではなかった。

言葉は僕を繋ぎ止める。

何を感じ、何を思ったのか。それを書きとめていくことで、僕は地面にしっかりと両足を下ろすことができる。流れゆく情報はまるで風のようなもので、日々、様々な方向から空中を横切ってゆく。そしてそれは「感情」という力を含んでいる。たとえばワイドショーのコメンテーターのしかめっ面。たとえば炎上するブログのコメント欄。たとえばニコニコ動画で右から左へ魚群のように移動していく文字の群れ。無数の「これはすごい」「これはひどい」。その力に身を任せていると、そのうち自分の足がふわっと浮かんでいるのに気付く。バタバタと身体を動かしているつもりでも、ただ風に流されていくだけになる。

“衆愚”とか、そういう話をしたいわけじゃない。僕が考えているのは、僕自身のことだ。

何かを感じ、何かを思ったときには、最初はそれは不定形の塊のような形をしている。グッとくる感じだったり、ちょっとした違和感だったり、素直な賞賛だったり、なんとなくの嫌な感じだったり、する。それらの「気持ち」に、彫刻師が刀を振るうように丁寧に、言葉で形を与えていく。そうすることで、僕は自分を繋ぎ止めることができる。不定形の塊としての「気持ち」がそのまま集積してなんとなくの「ムード」を作り上げても、その海に碇を下ろすことができる。その中で立つことができる。代替可能な情報や感情の容れ物としてではなく。

僕は、そういうことを思って、文章を書いている。