日々の音色とことば

usual tones and words

先の見えない時代で“熱狂”を頼りにすること

バラク・オバマの就任演説が行われ、正式にアメリカ大統領に就任が決まった。
彼の演説は、やはり熱狂の中、迎えられた。

僕は数日前にこの熱狂を「羨ましい」と書いた。その感情は自然なものだと思うし、翻って日本の国会のクイズ・バラエティ番組みたいな茶番劇を見ると、心の底から「なんだかなあ」と思う。別に麻生首相を擁護するつもりはないけれど、漢字が読めないのを揶揄するのは床屋政談の領域であって、議員としてきちんとお金をもらっている人のする仕事じゃないだろう、と思う。

それはさておき。

先日はアメリカの熱狂を羨ましいと書いたけれど、しかし、ここまでオバマが“希望”の象徴として語られるのを見ると、何かヒヤリと背中に氷が潜むような感触がある。何だろう。ふと考える。圧倒的な「熱狂」を背景に登場した為政者の前例。たとえば、アドルフ・ヒトラーは「国民投票」によって選ばれた。たとえば、小泉首相の郵政解散へのシンパシーは自民党に衆議院の3分の2を超える議員を送り込んだ。

勿論、並べて論じるのは馬鹿馬鹿しいことだとは思う。けれど、いま「格差社会」への怒りを叫び小泉・竹中の新自由主義路線への怨嗟をぶちまける人達のうち、あのとき一票を投じた人達がどれだけいたんだろうか――ということを考えてしまう。

先の見えない時代の中で“熱狂”を頼りに前に進もうということは、とても危険なことだと思う。勿論個々人が“希望”を感じたとするならば、それを無下に否定することはできない。でも、それが実体のないバブル的なムードに膨れ上がり、それが利用されたとするならば。

ぼくは基本的には楽観的な人間で、「世の中がどんどん悪くなっていく」というような見方には加担しないようにしている。合成の誤謬はあれど、少しずつ、間違いながらも、集合体としての“世の中”は良くなっていくはずだ――という思い込みを持っている。

でも、だからこそ、吹く風に安易に乗せられるようなことは危ない、と思っておくべきなのかもしれない。

関連:バラク・オバマとwill.i.am