日々の音色とことば

usual tones and words

シド・ヴィシャスと、死ということについて

父の命日にて、墓参りに往く。あれから5年。時の過ぎるのは早いな、と思う。

あのとき僕はまだロッキング・オンという会社にいて、ちょうどシド・ヴィシャスの単行本の校了作業の真っ最中だった。

シド・ヴィシャスの全て VICIOUS―TOO FAST TO LIVE…シド・ヴィシャスの全て VICIOUS―TOO FAST TO LIVE…
(2004/03/10)
アラン・パーカー

商品詳細を見る

そのときに書いた原稿を、再掲しようと思う。僕はまだ同じことを考え続けている。


「ロックは生き急ぐ、けれど…… /シド・ヴィシャスと、死ということについて」


 父が亡くなってから、一ヶ月が経つ。2月19日のことだった。「横浜駅で突然倒れたらしい」という電話を受けて病院に駆けつけたときには、身体には何本ものチューブがつながれ、人工呼吸器の緩慢な音だけが集中治療室に響いていた。手を握ると僅かに握り返してくる感触があるけれど、耳元で名前を呼んでも何の反応もない。救急車で運ばれたときに既に、一時心停止していたのだという。眼は見開かれ、白眼を剥いていた。翌朝にわたるまで、蘇生措置は何度も行われた。電気ショックを施されるたびに、ベッドに横たわっていた全身がビクっと跳ね打つ。心臓マッサージも、肋骨が折れるほどに体重をかけて勢いをつけ、何度も施された。まるで苦痛が自分にまで伝わってくるようで、正視することができなかった。しかし、僕が病院に着いた21時20分から医者が死亡を宣告した午前9時40分まで、結局父の意識が戻ることはなかった。死因は、心筋梗塞だった。
集中治療室の入り口で身に付けた使い捨てのマスクは最早ぐしょぐしょに濡れていたけれど、それでも僕はその時、自分を「驚くほど冷静だ」と思った。死はゆっくりと訪れる。心拍を示す緑の数字が40から30へ、30から20へと徐々に下がっていくのを見ながら、そう思った。生と死とは決してデジタルなONとOFFではなく、状態Aから状態Bへと徐々に移行していくようなものだ、ということ。そして、たとえ生物的な死を迎えたとしても、その人の記憶が残された人々の間に生きている限りその人は生きていて、みんな心の中からその記憶が消え去ってしまったときに初めて、その人はこの世から消えてしまうのだ――ということ。根拠はないけれど、ただ強くそう感じた。
父は真言宗の僧侶だったので、葬儀には付き合いのあった僧侶が沢山集い、手厚く、盛大に行われた。儀式は滞りなく終わった。けれど、その後今も僕は、ずっと頭のどこかで「死」と「記憶」のことを考えつづけている。

シド・ヴィシャスは1979年の2月2日に亡くなっている。ナンシー・スパンゲンが殺害され、自らその容疑をかけられてから3ヶ月も経っていなかった。死因はヘロインのオーヴァードーズだったけれど、「埋めるときには俺の革ジャンとジーンズとバイク・ブーツを着せてほしい。さようなら」と書かれた彼の遺書も見つかっている。その後の報道のセンセーション、そしてパンクのヒーローとして彼が崇拝されていく過程については、改めて書くまでもないだろう。けれどその一方で、彼の母親のアン・ビヴァリーは1996年に亡くなるまでの17年をずっと、「息子」シド・ヴィシャス=サイモン・ビヴァリーの不在と共に生き続けたのだ。そしてナンシーの母親であるデボラ・スパンゲンは、今も殺人事件の被害者遺族を支援し暴力的犯罪を防止する活動を行っている。
シドは21歳で死に至るまでずっと、イノセントな一人のパンク・ロック・ファンだった。担当楽器のベースもロクに弾けないまま巨大なるムーヴメントと騒動に巻き込まれ、自分を見失いながらも、最後まで無垢な少年にしか過ぎなかった。そしてナンシー・スパンゲンはそんなシドに深く深く入れ込んだ一人のグルーピーの少女にしか過ぎなかった。二人の刹那的な生はロマンとなり、映画化され、伝説として祭り上げられたけれど、やっぱり家族にとっては、シドやナンシーは一人の息子であり娘にしか過ぎなかったのだ。きっとその存在が失われたときの痛み、残された者が背負っていくべきものの重さは想像に絶するものがあっただろう。ましてや、ナンシーが死亡した時刻にはシドはドラッグで意識を失っていて、人を殺害することは不可能だったことがその後明らかになっている。ナンシーを殺してはいなかったにもかかわらず、その疑いを晴らすこともできぬまま、彼は死んでいったのだ。
葬儀を終えて出社すると、ちょうど僕が校了作業を担当するはずだった単行本『シド・ヴィシャスの全て』と、シドを表紙にした先月号のロッキング・オンが出来上がっていた。感謝の念は絶えなかったのだけれど、しかし、表紙のコピーにあった「LIVE FAST、DIE YOUNG!」という言葉、僕はそれをどうしても受け止めることはできなかった。

ロックは生き急ぐ。それは確かに本当だろう。特に60年代から70年代にかけては、本当に多くのミュージシャンが、ドラッグやその他の要因で若くして亡くなっている。90年代にもカート・コバーンが自らの頭を猟銃で打ち抜き、去年にもエリオット・スミスが自らの身体をナイフで突き刺した。どれも痛ましい出来事だし、その報を聞いた時の胸を抉られるような喪失感は、そのアーティストと「共に生きた」すべてのロック・ファンが感じるものだと思う。けれど最近僕はこう考えるようになった。
決して、生き急ぐのはロックだけではない。当たり前のことだけれど、毎年、毎分毎秒、世界中のどこかで人が死に続けている。天寿を全うした死もあれば、若くして命を絶ってしまった人も多いだろう。そしてそれらの死は、当人と残された者にとっては他の何物にも変えがたく絶大なものだ。喪失感は避けられないし、してやれなかったことを思い出して悔やむだろうし、それに、たとえ何歳だろうと完全に「OLD ENOUGH TO DIE」な死なんて存在しない。けれど。それでも、後に残された人々にその生の痕跡が記憶という形で残る限り、その人の中で死者は生き続けるのではないだろうか? たとえ遺体が焼かれそれが骨と煙に転じたとしても、化学的にいえば何の物質も消滅したことにはならない。N.E.R.Dのファレル・ウィリアムズはユニット名の由来“No One Ever Really Die”についてこう言っている。「人が死ぬと、そのエネルギーは散り散りになって消えるかもしれないが、破壊されるのではない。エネルギーを破壊することはできないんだ」。そうやって考えると、「生き急いだロック」とはつまり「生き続けているロック」ということなのではないだろうか? 一つの音楽を成り立たせる思想、歌や演奏を通して伝わる生々しい感情。それが伝わり続ける限り、そのエネルギーは生き続ける。人は生物学的な死からは逃れられないけれど、結果的にシドやカートはそうやって生き続けることができたのだ。僕は最近そう考えている。

葬儀の翌週、父親の衣類や遺品を整理するために実家に帰ったとき、宅配便で和牛のすき焼きセットが家に贈られてきた。差出人は父で、いつも月末に実家に帰ってくる息子にいいものを食わせようと通販で購入予約していたものらしかった。それを見たとき、僕は、初めてどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
「冥福を祈る」――という言葉は、何だかありきたりすぎて文章の締めに使うには、ちょっと戸惑ってしまう。ただ、これだけは確実に言えるのは、この先も、僕は決して回答の出ない「死」と「記憶」のことに関して考えつづけていくんだろう、ということだ。