日々の音色とことば

usual tones and words

黙り込むということについて。

久しぶりの更新。


マスメディアの凋落/内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/04/02_1243.php

ずいぶん長いこと僕はブログを更新していなかったし、一時期はtwitterでつぶやくことからも離れていた。人に「なんで更新しないんですか」と言われると「いやまあ、いろいろあってね」とか誤魔化していたんだけれど、要は自分の中で「書こうと思えること」や「つぶやこうと思う出来事」の沸点のようなものをかなり高めに設定していたということなんだと思う。たぶん気分的なものもあったんだと思う。要は“自省モード”に入っていたんだな、ということを、内田樹センセイのブログを読んで気付かされる。

インターネットメディアの利点は「用がなければ黙っている」ことができる

そういうことなのだと思う。

上記のエントリは、マスメディアの凋落が何故起こりつつあるのかということについての考察。頷ける部分も多い。

新聞メディアの凋落は、「速報性やアクセシビリティにおいてインターネットにアドバンテージがあるから」という理由だけでは説明できない。
少なくとも、私が「新聞はダメだな」と思うのは、そういう理由からではない。
新聞の凋落は、その知的な劣化がもたらしたものである。
きびしい言い方だけれど、そう言わざるを得ない。

ある週刊誌の女性編集者が取材に来たことがあった。
その週刊誌はいわゆる「おじさん」系の雑誌で、「世の中、要するに色と慾」というタイプのシンプルでチープなスキームで森羅万象を撫で斬りにしていた。
そういう単純な切り取り方で世の中の出来事を説明してもらえると、読む方は知的負荷が少なくて済むので、それなりの読者がついている。
二十代の女性がその記事を書いている。
私はさぞや苦労していることだろうと思って、そう言ったら、きょとんとして「別に」とお答えになった。
記事の書き方に決まった「型」があるので、それさえ覚えれば、私みたいな女の子でもすぐに「おじさんみたいに」書けるようになるんです。
それを聴いて、はあ、としばらく脱力してから、それはちょっとまずいんじゃないかと思った。

言葉が「型にハマる」ということの負荷の少なさ、そして危機感は、書き手としての自分も、ものすごくリアルに感じている。出来合いの文体を使って、出来合いの話型と思考様式を使って、様々な事象をそこに収束させるような文章には、なんというか、鮮度のようなものがない。ただ文字組を埋めるような言葉の羅列は、極端にいうと、死んだ文章になる。

商売柄、メディアは「絶句すること」が許されない。
(略)
黙り込むことが許されない。
自分はどうして「こんな話」ばかりしているのか・・・という深甚な、ある意味で危険な問いを抱え込むことが許されない。
その自省機会の欠如が、メディアのもつべき批評性の本質的部分をゆっくりと腐らてゆく。

ただ、「だからマスメディアは凋落したんですよ」という話には、ちょっと頷けない部分もある。何故かというと、新聞や雑誌などの旧来のメディアにその手の「鋳型にはまった文章と思考様式」が満ちていて、インターネットはそうじゃない、とは簡単には思えないから。メディアには絶句することは許されていないが、インターネットの世界にも「毎日更新しないとページビューが下がる」という不定形の圧力がかかり続けている感じがする。商売のところは勿論、個人ブログでもアクセスを気にするところはそうだと思う。「批評性の本質的な部分がゆっくりと腐っていく」ということは、新聞だからというより、どの媒体でも起こりうる。それこそ2ちゃんねるのまとめサイトあたりじゃあ、特に政治的な話題では「鋳型にはまった文章と思考様式の切れ端」ばかりが並んでいる。

そういえば、twitterにはすごく可能性を感じるけれど、あれも「絶句することが許されないソーシャルメディア」だと思う。「許されない」というのはちょっと違うかな。言葉を発しないでいるうちに「乗り遅れる」ということへの圧力が常にかかり続けているという感じだ。Retweetは脊髄反射。いろんな感情が140文字の中で「嬉しい」とか「悲しい」とか「残念だ」とか「期待」とか、そういう風に収束していく。

情報の消費速度が上がっている。そのことは時代の必然だからどうこう言うつもりはない。でも、情報の処理の「効率を上げる」とか「生産性を上げる」ということは、何か大事なもの、ちょっとした違和感とか、そういうものを切り捨てていくことのような気がしてならない。