日々の音色とことば

usual tones and words

「一人で聴くもの」としてのCDと 「みんなで楽しむもの」としてのライブ、という話

 

 

■「楽しさ」の理由

 

今日は、前回の「ポップソングが『閉塞感』から『楽しさ』を共有する時代へ」という話への反響から考えたこと。そして、去年に書いた「J-POPの高速化」の続きのような話。

 

予想していたことだけれど、前回の記事は「そうそう、確かに」というものから「何言ってんの?」まで、賛否両論というか、かなりパックリと反応がわかれました。

 

 

こんな指摘もありました。

未来はそんな悪くないよと歌っても現実からは逃れられない - SKiCCO REPORT

http://d.hatena.ne.jp/skicco/20140615/p1

 

厳しい現実に24時間365日全力で向き合っていたらストレスで死に追いやられてしまう。だからポップミュージックは、ひと時だけでもそれを忘れさせるような歌が支持されるのではないでしょうか。恋チュンとか。

 

これはもう、人にとって物事を見る視点や捉える感覚が全く違う話だし、きちんとロジックを詰めて考えたというよりも「こんな気がするんだけど、どうかなあ」というくらいの肌感覚レベルの話だったので、いろんな反響があること自体がありがたいです。

 

記事で取り上げた田中秀臣さん、そして佐々木俊尚さんのツイートも。ありがとうございます。

 

 

確かに。

 

まあ、ハッピーな曲、楽しさを共有をする曲が増えたといっても、単に「アベノミクスで景気がよくなったから」なんて言ってしまうのは、よくよく考えたら「さすがにそりゃ安易だろう」なんて自分でも思います。

 

そして、閉塞感が「なくなった」とも思ってない。前にも書いたけれど、ギラギラした光が強くなればなるほど、そのぶん、暗がりも深くなる。その分断は広がっていると思う。

 そして、今の情報社会のアーキテクチャにおいては、もっとも共有されやすい(=ポップな)感情は「楽しさ」じゃない。むしろ「苛立ち」や「怒り」のほうが伝播力は強い。そこに正義感が混じった「義憤」になると、炎上という言葉はよく言ったもんで、それこそ枯れ草に火を放ったように一気に広がっていく。これはもう、いろんな人がいろんな風に語っているし、今年になってもそれを象徴するいろんなことが起こっていると思います。それは、本題とはちょっと離れちゃうんで、これ以上は語らないけれど。

 

■「みんなで歌って初めて完成するポップソング」

 

で、すごく興味深い反応だったのが「CDからライブの時代になって、ポップソングが“一人で聴くもの”から“みんなで楽しむもの”に変わったせいじゃないか」という、以下のブログでの指摘。なるほど。すごくわかる。

 

新型ポップスの「楽しさ」はなぜ?:柴 那典氏「 ポップソングが「閉塞感」ではなく「楽しさ」を共有する時代へ」を読んで : ゆとりの視線:歌うセールスマンの自堕落思考

http://yutori1990.blog.fc2.com/blog-entry-41.html

 

今年の5月末にあった「JAPAN NIGHT」というイベントでの、ナオト・インティライミとウカスカジーで、共通したMCがあった。それは以下。

「The World is ours!」というらしい曲で、ナオトが次のように煽る。

「この曲は、皆で歌って初めて完成するんだ!」

現れたのはウカスカジー。これもまたぼくはよく知らなかった訳だが、ミスチル桜井和寿の別ユニットだ。ぼくはミスチルのイメージを持ったまま彼らの舞台を始めてみたが、桜井さんもまた、ナオトと同じことを言った。

「この曲は、皆で歌って初めて完成するんだ!(そしてはじまる『♪Oh-Oh-Oh』」(大体だけどね)

「このライブ的会場で曲が完成」的なコンセプトは、単なる煽り上手ではなく、この時代のポップスの一つのフォーマットになりつつあるのではないかと、ぼくは感じた。  

 この発言はすごく象徴的だなあ、と思う。「皆で歌うことで初めて曲が完成する」というのは、もちろん、CDに収録した曲が未完成だということを言ってるわけじゃない。彼らが、ポップソングの役割として、「寄り添う」よりも「一緒に盛り上がる」ことを選んだということだ。

そうした「アーティスト」の描く等身大、ある意味私小説的な世界は、ヘッドフォンのようなものを媒介として、ユーザーと一対一で交わった。

それから20年あまり。音楽の現場は大きく変わった。CDで音楽を聴くことはもはやメジャーでなくなり、人々はyoutubeで大変快適に気軽に音楽を楽しんでいる。しかしそれは、お金にはならない。 そんな中、市場が注目するのは、ライブだ。

 80年代にCDとウォークマンとヘッドフォンが普及した。それは、J-POPのアーティストとリスナーが「等身大」の関係を取り結ぶことができるアーキテクチャになった。だからこそ、アーティストはリスナーに「寄り添う」歌を届けるようになった。

一方、今はライブの時代だ。マーケットの力学は、CDからライブへと大きく舵を切った。だから「みんなで楽しむ」曲が持て囃されるようになった。

もちろん、ミュージシャンがステージから「一緒に歌う」ことを呼びかけるのは、最近になって始まった目新しい話じゃない。でも、特にここ数年のフェスの場にいると「みんなで楽しむ」ということに重点が置かれるような流れって、体感値として確かに増えているような気がする。「一緒に盛り上がる」ことが、「結果」よりも「機能」になってきている、というか。それは去年の夏に、以下の記事でも書きました。

Tシャツと集合写真 〜2010年代の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」論 その1 - 日々の音色とことば

http://shiba710.hateblo.jp/entry/20130806/1375791903

 

そして、フェスを主戦場にするロックバンドの「高速化」も、その現象と密接に絡み合っている。どんどんBPMが速くなって、盛り上がり方がどんどんスポーティーになっている。「waste of pops」管理人さんがVIVA LA ROCKで体感した通り。

 

当時「何この滅茶苦茶速いの」と思った、そんなテンポ感をごく当たり前のように標準装備して、アリーナで輪モッシュというか、一旦フロアを丸く開けてから曲がブレイクしたタイミングでその輪の中に走り込んでいくやつに興じる若者が今はどっさりいるんですよ。やってる方も受け手の方も明らかに新世代。
いや、このスピードでそれ無理。おっさんだから無理。

 

2014-05-09 - WASTE OF POPS 80s-90s

http://d.hatena.ne.jp/wasteofpops/20140509

 

この辺のことに関しては、最近もRealsoundに記事を書きました。BPM170オーバーが当たり前の「高速四つ打ちダンスロック」の新世代バンド勢がシーンを席巻しているという話。

オーラル、ゲス極、キュウソ……“先行指標”から見えた、今年の夏フェスのブレイク候補とは? - Real Sound|リアルサウンド

http://realsound.jp/2014/06/post-786.html

 

 

今年に入っても、その傾向はまだまだ継続している。KANA-BOONは地元・大阪で1万人単位の野外ワンマンをやれるくらいの人気者に駆け上がったし、ゲスの極み乙女。、KEYTALK、キュウソネコカミあたりも頭角を現してきている。これに関しては僕もVIVA LA ROCKですごく実感した。METROCKでも入場規制だったみたい。

 


ゲスの極み乙女。「パラレルスペック」 - YouTube

 


KEYTALK - パラレル【YouTube限定MUSIC VIDEO】 - YouTube

 


キュウソネコカミ - ビビった MUSIC VIDEO - YouTube

 

 

ただ、さっき挙げたゲスの極み乙女。の川谷絵音が、こういう高速化を「あくまでフェスの場の動き」と相対化しているのもクレバーだと思った。

 

早いテンポで売れるのはバンドシーンだけで、J-POPには全然関係ない。ここでより多くの人に聴いてもらうためには、テンポは落としたほうがいいんです。

CDが売れなくなっていることはしかたがないけれど、売れなくなっているからこそウェイトが大きくなっているライブで、画一的になってしまったら、これで大丈夫なのか? と。  

 

indigo/ゲス極のキーマン川谷絵音登場「バンドシーンを通過して、唯一の存在になりたい」 - Real Sound|リアルサウンド

http://realsound.jp/2014/04/indigo.html

 

一方で、こういう「盛り上げ合戦」みたいなシーンの動向への違和感の声も、現場のバンドマンからは沢山聞く。最近だとBase Ball Bearのインタビューがそんな感じの内容でビシビシ語ってた。

 今のロック・シーンってやっぱり無理してるんだよ。

ドーピングなんだよ。今のロック・シーンの状況が演者とお客さん側の相乗効果でこうなってると言うにはあまりに美化しすぎてると思う。

ただのレースになってきてるというか。競技めいてると思う。いやね、ライブがフィジカルなものになっていく流れは、すごくロック・バンド的だと思うし、それはすごく理解できる。なんだけど“その場で享楽的に騒ぐってことだけがロックだっけ?”みたいな。“そういうのばっかりもてはやすから日本のロック・シーンってこういう状況になったんじゃないの?”って思うんですよね。

Base Ball Bear | WHAT's IN? WEB

 http://www.whatsin.jp/feature/base-ball-bear_29

 

 こういう「一体感至上主義」とは違うスタンスで音楽をやることを信条として掲げているUNISON SQUARE GARDENの田淵氏も、あと、くるりの岸田繁氏も、画一化への違和感を言及していたりする(※→追記あり)。

僕としては、実のところ、そこまで眉をひそめたりするつもりはなくて。まあ、楽しかったらそれでいいし、楽しんでる人の楽しみ方にケチをつけるつもりはない、というか。

 ただ、演者側に、みんながみんな一つのルールで競争するような「最適化」「画一化」がそのことによって起こってるとするならば、それはやっぱりつまらないと思う。カルチャーの面白さというのは多様性から生まれるものだし、「今はこれがウケるから」と一つの方向に正解が定まってしまうことは、その多様性を殺してしまうことに繋がってしまう。

 場の熱量が生まれ続けるためには、熱力学的平衡に向かわないためには、なるべく「何でもアリ」であったほうがいい。特に、ことこれはリズムとグルーヴの話なんで、まさに「お前の踊り方で踊ればいいんだよ」って話だ。

 

ま、そのへんは、僕はそんなに心配したり懸念してたりする感じじゃないです。どうやらCDからライブの時代に変わったことで、ポップミュージックの持つ「機能」はちょっとずつ変わってきている。でも、音楽を通して「楽しさ」や「興奮」を共有するためのスタイルは一つではないし、こういう時代だからこそ置き去りにされがちなリスナーとの「一対一」の関係性を鋭く追い求めるミュージシャンもいる。

いろんな新譜を聴いてると、一辺倒に見えるスタイルの裏側で、現場ではその新しいあり方が日々生まれている直感がある。

 

(追記・記事公開後に、岸田繁氏本人から指摘がありました) 

失礼しました。その辺はちょっと誤解してました。

僕自身による音楽的な考察は、正直、まだそこまで明確な答えは出てきてないので、今後またじっくり考えていきたいと思ってます。で、このリズムとグルーヴに関して、彼が以前にツイートしていた内容がすごく興味深いので、改めて引用します。ダンスロックの画一化を超えていくためのヒントはここにある、って僕も思っています。

 

「1拍子」の話、すごく興味深い…。