「豊かさ」ってなんだろう。
ふと、そういう疑問を持った。ちょっと大きなテーマなんで、なかなか手に負えないんだけど、それについて今のポップミュージックを通してちゃんと考えてみようと思ったのが年の暮れの頃。ほんとは正月にブログにアップしようと思ったんだけど、いろいろ忙しくて、ぼやぼやしてるうちに2月下旬になってしまった。
今日はそういうテーマの記事です。とはいってもちゃんと結論が出てるわけじゃないんだけど。
■ポップソングと「豊かさ」と「多様性」について
ここ数年、「豊かさ」ということを考えてみようというきっかけになったのが、THE NOVEMBERSというバンドの音楽を聴いたこと。というのも、彼ら、作品をリリースするごとに、ブログなどでこのことについて書いていたので、ずっと気になっていたのです。たとえば下記。
僕は心身の健康や、人生の豊かさに価値を置いています。
何を持って“健康”なのか、何が人生の“豊かさ”なのか。それは生きている人が自分の目で選び、自分の手で勝ち取っていくものだと、僕は思います。
なので、例え僕と他の誰かの“健康”や“豊かさ”が違ったとしても、それは自然な事であり、誰にもそれを奪う権利はありません。しかし、あまりにおせっかいで、お人好しで、図々しい人というのはそれを許しません。
お互いが違うという事を認めず、自分の“健康”や“豊かさ”を他人にも強要します(提案にとどめるのが良心というものです)。それは時に争いを生みます。
「僕達は同じになれる」「きっと話せばわかりあえる」という気の利いた(?)言い方をする人もいるかもしれませんが、それが叶わなかった時、その人は怒ったり悲しんだり蔑んだりします。悪気はないのです。だからたちが悪いのです(どちらもマジだから)。
僕達はどこまでも違ったまま、わかり合えないまま、つるんだり、離れたりします。
「今日も生きたね/ブルックリン最終出口」によせて « THE NOVEMBERS
THE NOVEMBERS「今日も生きたね」 - YouTube
でも、とくにJ-POPのアーティストが「心身の健康や人生の豊かさ」をキーワードに曲を作ることって、ほとんどないと思うのですよ。むしろシンプルな「切なさ」とか「恋しさ」や「焦燥感」の方が多いと思う。もしくはもっと本能的な「楽しさ」とか。なぜなら、そのほうが共有しやすいし、共感しやすいから。
上に書かれてるとおり、何をもって「人生の豊かさ」なのかという感覚は人によって違う。そして、よく言われてる通り、その満足感を他者との比較によって得ようとすると悲惨なことになる。「ママカースト」みたいな話とかね。
たぶん、数十年前はみんなが共通して持ちうる「豊かさ」のイメージがあったんだと思います。それが社会のムードを一つにする物語を作っていたんだと思う。60年代の東京オリンピックとか『三丁目の夕日』的な話でね。でも、そこから時代は変わった。一つのゴールに向かって一斉に走っていくような社会ではなくなった。多様性を持った人たちが、バラバラのまま認め合うような社会が理想とされるようになった。
もちろん、ホームレスや難民の人みたいに、雨露をしのぐ場所すらままならない、食べていけるかどうかもギリギリ、みたいな状況だったら「豊かさのイメージ」とかしゃらくさいこと言ってんじゃないよ、って感じかもしれない。
でも僕が「なんだかなあ」と思っているのは、そういうわかりやすい経済的な困窮の話じゃなくて。むしろ、ここ数年ネットなどで散見される、そういう弱者に対しての振る舞いから透けて見える「貧しさ」なのです。たとえば、生活保護を受けている人へのバッシングをしていたり、マイノリティや特定の人種や信条を持つ人に対して簡単に「◯◯は出ていけ」と言い放ってしまうような人。そういう人が持つ「余裕のなさ」なんですよ。
そういうことを言っている人は、得てして、困窮しているわけではなくて、それどころか、むしろ当面暮らすには申し分ない収入や社会的な地位を持っていることもある。歳もそれなりに高齢だったりする。そういう人が、他者に対する攻撃性を発揮している。ということはその当人は決して「衣食足りて礼節を知る」という状況になく、むしろ「満たされていない」「我慢ならない」というメタメッセージを発しているわけで。つまり、60年代にみんなが目指していたゴールラインの向こう側に、そういう「余裕のない」人たちが沢山いるのが今の時代とも言える。
そういう時代における「豊かさ」って、一体なんだろう?と思うわけなのです。
■THE NOVEMBERSの「独立精神」と「美」
で、ここからはTHE NOVEMBERSの話。というのも、実は今年の年明けに「“豊かさ”について一緒に話をしませんか?」というざっくりとしたメールをスタッフを介して小林祐介さんに送ったら、快諾いただいて。そこからこの記事になっているわけなのです。
THE NOVEMBERSというバンドは、歌っていることのテーマだけじゃなくて、その活動形態も、すごく興味深いことになっている。彼らは、「音楽を作ることだけじゃなく、それをどう届けるかも含めて自分たちでゼロから作りたかった」と、2013年10月に自身のレーベル〈MERZ(メルツ)を設立している。そこから『zeitgeist』と『Rhapsody in beauty』という2枚のアルバム、『今日も生きたね』という1枚のシングルをリリースしている。たとえば『今日も生きたね』はひとつのパッケージに同じ内容の2枚のCDがおさめられた「シェアCD」仕様だったりする。
もともとUKプロジェクトというインディーレーベルに所属していた彼らだけれど、そこから独立して、よりインディペンデントな活動の形態を選び、そして活動を続けてきている。
彼らがそれを選びとる道に進んだのは、2011年、東日本大震災の後にリリースした『To(melt into)』と『(Two)into holy』という2枚の作品がきっかけだという。そして、それがさっき引用したブログのような「豊かさ」についての考え方ともリンクしているという。彼はこんな風に語ってくれている。
――今のような考え方に至るスタート地点があるとするならば? 個人的には2011年のことだったんじゃないかと思うんですけど。
「そうですね。『To(melt into)』と『(Two)into holy』の時期だと思います」
――今振り返ると、あのときに何を選んだんだと思います?
「何かを選んだというより、あそこで、何も知らなかった自分に気付いた、ってことだと思いますね。これから選択をしなきゃいけないという場所に立たされた。それを自覚したという。それと同時に、あの頃は落ち込むこと、困惑することもあって。こういう状況の中で自分が何に価値を置くのかというのを最初に意識できた。心身の豊かさ、心身の健康というのを選んだ、という」
――何故それを選んだんでしょう?
「言うなれば、自分がいいと思ったこと、悪いと思ったことの根拠を振り返ったときに『今までそうだったから』という理由以外になかったことがあったんですね。いつからこれを美しいとか、いいものとか、悪いものとか、そういう印象を抱くようになったんだろう?って。いろんなものに対してそういう根拠を疑う時期だった。自分って、たいして根拠とか理由とかを考えなく水に慣れていたんだなって。そう思ったら、足元のグラグラ感が半端なかった。一つ一つに疑いを持ったということは、何を信じるかをちゃんと確かめていかないといけない」
――そこで自分の根幹に何があるかを確かめることになる。
「そこで、ざっくり言うと、自分は『気分がいい』というのが好きで。そのためには健康が必要だった。たとえば、死ぬのが美しいということと、死んだことは悲しいけれどそこに美しさを見出すのは全然別で。そのどっちを選ぶか、とか。そういうことを初めて意識したというのはありますね」
THE NOVEMBERS 「夢のあと」(『To (melt into)』より) - YouTube
で、『GIFT』『Fourth wall』という2枚のミニアルバムを経てそういうテーマについてとことんシリアスに突き詰めたのが次の『zeitgeist』というアルバムで、さらにその一つの帰着点となったのが「今日も生きたね」という曲だった。
THE NOVEMBERS 「Flower of life」(『zeitgeist』より) - YouTube
そして、最新アルバム『Rhapsody in beauty』は、そういう考え方と表現を一度切り離したところで生まれてきたものだという。「美しさ」というものを純粋に追い求めたような作品になっている。
――このアルバムになってどういう変化があったんでしょう?
「きちんとした理由とか辻褄があって、これが正しいと思うのでこういうことをやりますという日常生活の自分と、なんだかわからないけれど”美しいからいい”という自分がいる。むしろ作品のほうは、そういう自分が作るようになっているんですよね」
――美しさと正しさだったら、美のほうに重きをおく。
「そうですね。それが美しいと僕が思えるか、格好いいか格好よくないか、綺麗か綺麗じゃないか、そこにしか価値基準がないんです」
(THE NOVEMBERS 「僕らはなんだったんだろう」『Rhapsody in beauty』より)
彼との対話から感じ取れるのは、時期によって考え方は違えど、「自分が何に価値を置くのか」を、ちゃんと自らで選びとるという意志。そういうところがポイントなんじゃないか、と思ったりします。
■無数の選択肢とコミュニティ
というわけで、もう少し踏み込んで考えてみる。
つまりここで書いてきた「豊かさ」の話って、「足るを知る」っていうことだと思うのです。京都の龍安寺で有名な「吾唯足知」という言葉。「満たされている」ということを知っている人は豊かである、という話。
ただ、この言葉って、わりとバブル以降の『清貧の思想』と共に解釈されているところがあって。たとえば、「足るを知る」を、辞書をひくと
「人間の欲望にはきりがないが、欲深くならずに分相応のところで満足することができる者は、心が富んで豊かであるということ」
と書いてあったりする。「分相応」という言葉が象徴するような、「高望みせず、自分の境遇に満足して生きること」みたいな風にとられている風潮がある。でも、ここで書いてるのは、そういう話じゃないと思うのですよ。むしろこれは、上に書いたように、自分が「何を選んだか」ということを再帰的に受け入れていく、という話なんだと思います。
というのも、今の時代は無数の選択肢が目の前にあるんですよね。たとえば、ちょっと前には「大量生産・大量消費ではなく、これからは選択肢の多さこそが豊かさなのだ」とか言われていたけれど、もはやその「これから」が今なわけで。むしろ、今の世の中は何を消費するにあたっても沢山の選択肢の前で茫漠とするような局面のほうが多い。そして、提供する側はどれだけ大きな声を出せるかという争いになっているようなことも多い。
――今の時代って、特に先進国の都市で暮らしていると、何をするにしても沢山の選択肢がありますよね。そういう無数の選択肢の前で立ち竦んでるみたいな感覚がある気がしていて。
「なるほど。言うなれば、一杯のコーヒーを飲んだ時にも『他にどんなコーヒーがあるんだろう』って想像する瞬間があって。もしくはそういう想像する暇すら与えてもらえない状況ということですよね。『あなたが探さなくてもこんなにある』という」
――音楽もそうですよね。毎週沢山の曲がリリースされて、まったく追い切れない。
「昔って、音楽を知れば知るほど『もっと知りたい』と思えたのに、今は世の中にありすぎる、ということがYouTubeを見てもSoundcloudを見てもすぐにわかる。聴けば聴くほど、知れば知るほど、自分がいかに音楽を知らないかが突きつけられる感じがある。世の中にある音楽のほんの僅かなしかものしか聴けない、みたいな恐怖があって」
――でも、かつてのパッケージメディアの時代は、まだ自分が持ってるお小遣いからお金を支払ってそれを買ったという事実があるんですよね。そこには「自分が価値を感じて対価を支払った」という実感と証拠がある。でもYouTubeやSpotifyみたいなストリーミングにはそれがない。僕は基本的にストリーミングサービスにはとても肯定的だけど、そこは気になっているところで。アナログレコードの売り上げが伸びているのはそういう理由なのかもしれない、とか思ったりするんですよ。
「たしかに、価値を感じて、それに対して対価を支払って、得る満足感や繋がりの強さというのは、クリックしたかどうかでは実感できないですよね。そういう意味では、音楽そのものは嗜好品のようなものになっているのかもしれない」
――THE NOVEMBERSとしては、音楽にどう価値を与えるかということについて、どう考えています?
「僕たちとしては、新しい音楽の売り方を思いついたわけじゃないし、基本的に何かの方向転換をしたわけではないですね。ただ、音楽を売ってお金を稼ぐということについて、『これしかできない』という考えじゃなくて、それ以外の可能性を探そうという考えには変わってきていると思います。あとは、自分たちに価値を感じてくれる人のコミュニティで回っていくというのを大事にしたいというのはあるかもしれない。前は人の顔をそんなに意識しなかったんです。大きなところでワンマンをやっても、ファンが来ているんだな、というくらいしか思わなかった。でも今は、自分たちを取り巻くコミュニティの中の大事な人たちが集ったんだと思うようになったかな」
彼が「コミュニティ」という言葉を使ったのは、すごく象徴的なことかな、と思ってます。選択肢があふれているからこそ、「選んだもの」に対してのコミットメントが大事になってくる。そして、そういう形のコミュニティをどう作っていくか、その輪をどう広げていくかというのがキーになる。
「誰かを排除すること」や「何かに対して異議申立てすること」で連帯するのは、とても簡単なことだと思うわけなのです。
非道なこと、ムカつくこと、鼻持ちならないことは非常にローコンテキストなので、簡単に感情を共有することができる。「これはひどい」で繋がることは簡単にできる。でも「格好いい」とか「綺麗だ」とか「美しい」とか、そういうものを共有することはそれに比べてハイコンテクストなので、若干ハードルは高い。
でも、それをやり続けていく、ということなんだろうなあ、と思っています。