日々の音色とことば

usual tones and words

「祟り神2.0」と「大仏建立」について

これは「言霊」についての話。何度も繰り返し書いてきたことではあるけど、忘れないためにもう一度書いておこう。

 

Looking upflic.kr

  

 

 

というわけで、今日の内容はちょっとスピリチュアル的な話になってしまうかもしれない。そういうのが苦手な人はここで引き返していただけたら幸いです。

 

電車に乗って辺りを見回す。だいたい7割以上の人はスマートフォンの画面を見つめている。かつてのように「ネット」が「リアル」の対義語だった時代は過ぎ去った。ネット空間はもはやバーチャルではなく、世間(の一部)をクラウド上で可視化したものになっている。それぞれの思念がつながり、増幅し、社会にうねりのような変化を起こすような時代になっている。

 

こういう記事がある。 

 

d.hatena.ne.jp

 

マスコミをマスゴミと呼ぶ人がいます。確かにマスコミはモンスターかもしれない。でも、インターネット、それも名も無き思念が無数に集まった地縛霊としてのインターネットも、それはそれで恐ろしいモンスター、あるいは「地脈」じゃあないですか。それに、幾つかの週刊誌や幾つかの番組には、それぞれの格付けに応じたコンテキストがあり、およそ“世論”とはみなされないモノも存在します。なによりマスコミ各社は、不十分かもしれないにせよ、社会的道義的責任を問われる立場を含んでいるわけです。

 

 ところが今回の件をはじめ、不特定多数が集まって増幅しあうインターネット上の“世論”には、そういったものが存在しません。結果として善をなすこともあるかもだけど、同じように悪だってなすかもしれないし、場をぶち壊しただけでフォロー無し、ということもあるでしょう。昔話に出てくる気まぐれな神様みたいですね、ネット世論とは。

 

 でも、そういう思念の集まりみたいなものが公のメディアっぽくなったインターネット上を跳梁跋扈し、大鉈を振るうのは恐ろしいことではないでしょうか。荒魂(あらたま)のごとき集合無意識に、酔った目でリツイートした言葉や、面白がってシェアした言葉までもが吸い込まれ、のっぺらぼうなクラウドジャイアントの一素子になってしまうんですよ? それとも今日日のネット作法では、そういう集合無意識に身を委ねて、ある種の全能感に満足するのが流行なんでしょうか?

 

 

この感覚、僕としてもすごくわかるところはある。気まぐれな神=クラウドジャイアントの支配するインターネット。そこでは、不誠実なふるまいや、かさにかかった物言いや、調子に乗った行動や、誰かを見下すような態度は「バチが当たる」。それが炎上という形で可視化される。

 

バチが当たる、つまり悪いことをしてたら自分の身に返ってくるという因果応報の戒めは昔からあった。けれど、それはあくまで受動態の言葉だった。「バチが当たる」人はいるけれど、「バチを当てる」人はいない。あくまで、その主体は「神様」とか「お天道様」とか、そういう霊的な存在だった。

 

「祟り」というものも昔からあった。触れちゃいけない超自然的なものに触れたり、霊的存在の怒りをかうようなことがあれば、何らかの害が与えられる。そういうふうに信じられてきた。

 

(とはいっても、僕はこのへん、あまり詳しくないので、民俗史や宗教学的なところで調べる先達もいるはずだし、ちゃんと語るためには、勉強しなきゃなあとは思っているところ)

 

それでも、僕としては、呪いや祟りは決して過去のものではなく、宗教やスピリチュアルの世界の話でもなく、むしろバージョンアップした「2.0」となり現在のネット空間、ソーシャルメディア空間を跋扈しているものだと考えている。

 

その正体は、決して非科学的な存在ではなく、むしろテクノロジーによって実現した「荒魂(あらたま)のごとき集合無意識」なのではないだろうか。ネットに接続し、ソーシャルメディアに結びついて、まとめサイトを経由して、お互いがお互いに少しずつ影響を与えたりする、その過程において、記号化した人の思念の集合体は「祟り神2.0」として作用するのではないかと思っている。

 

「祟り神2.0」の生まれる由来にあるのは、匿名であれ、実名であれ、それぞれの個人が持つ「こいつはけしからん」「気に障った」という小さな感情のうねりだと思う。嫉妬のようなものもあるかもしれない。けれど、一人一人には決して誰かを呪う悪意はなく、むしろ正義感に近い気持ちも多いと思う。けれど、その感情が記号化されて増幅し、雪崩のようになったときに「祟り神2.0」が立ち現れる。

 

じゃあどうするか。

 

こういう話題って、一人一人の生き方とか考え方とかを「もっとこうしましょう」と提案するほうに流れていくことが多い。たとえば、内田樹さんの『呪いの時代』がそういう本だった。

 

 

呪いの時代 (新潮文庫)

呪いの時代 (新潮文庫)

 

 

 

 

でも、無理だよなあ、きっと。という気もする。これは僕も含めて思う。何かを言いたい気持ちを抑えることは難しい。そういうメディア環境になって、メディア空間の公共圏をどう作っていくかはすごく難問だ。

 

 

で、唐突だけれど「大仏建立」について考える。

 

突飛な話だけど、ネット空間やソーシャルメディア空間の中には、人々の「気に障る」「けしからん」という感情の小さなうねりが「祟り神2.0」としての大きな力を持たないために、それを祀る神社仏閣のようなものが必要なのではないかと思う。日本はアニミズムの国なので、クラウド上にも「霊的存在」があり、それを呪鎮せねばならないという考え方は、意外にすんなり受け入れられるのではないだろうか。

 

というか、すでにツイッター上で「大仏建立」はバズワードとなっている。

 

世も末だし大仏建てようぜ!──Twitterで大仏建立の気運高まる - ねとらぼ

 

www.huffingtonpost.jp

 

なかば冗談なのだろうけれど、僕はすごく必然的なものを感じてしまう。別に今の時代に巨大な仏を作れば天災が鎮められると思っているわけではない。そうではなく、ネット上を飛び交う思念の集合体=「霊的存在」が、自ら鎮められることを願っているというか。

 

考えすぎかな。