『シン・ゴジラ』を観た。ゾクゾクした。おもしろかった。というか「すげえ……」という感想だった。終わったときに自然と拍手してしまった。
そしてこれは、ただ単におもしろいだけでなく、観た人の胸に「刺してくる」作品だということも痛感した。少なくとも僕はそういう余韻が残った。
『シン・ゴジラ』は、エンタテインメントに徹しているのは大前提で、でも、東日本大震災を経た2010年代の日本を、時代というものをちゃんと照射している。1954年に公開された初代『ゴジラ』がそうであったように。きっといろんな人が、いろんなことを言うだろう。言いたくなるだろう。なぜならこれは踏みこんでくる作品だから。
僕は特撮映画のマニアではないし、これまでのシリーズもハリウッド版のゴジラもろくに観てない人間なので、そっち方面の深い考察とかオマージュの指摘みたいなものは他の人にまかせようと思う。
『シン・ゴジラ』はとても社会性を持った作品でもあるので、そちら側の視点からの考察も沢山出まわると思う。いろんな批評や感想が出揃って、評価が確定していく前に、公開から数日経った今の段階で僕が感じたことを書き留めておこうと思う。
というわけで以下からはネタバレです。未見の方は注意。というか、これは余計な情報いれずにまず観ることをおすすめします。
■なぜ『シン・ゴジラ』のゴジラは怖いのか
『シン・ゴジラ』を観て最初の印象。それは「ゴジラ、怖い……」だったのよね。制作陣の意図として「最初のゴジラに立ち返る」というものがあったらしいと後で聞いて、とても納得。圧倒的な理不尽さをもって、普段の生活が、日常が破壊される恐怖。それがあった。
ゴジラの登場は「災害」として描写される。まず、東京アクアラインで大規模な陥落事故がある。その時にリアルだなーと思ったのが、逃げ惑う群衆に「余裕がある」のをちゃんと描いていること。スマートフォンで惨状を撮影したり、避難路を歩く人が「へー、こんなところあるんだ」と言い合ったり。
そして東京湾に姿を表したゴジラは「巨大不明生物」としてニュース報道される。人々が海ほたるからスマートフォンでそれを群がって撮影する様子がカットインで描かれる。
「巨大不明生物」は第一形態から第二形態に進化し、我々がよく知るゴジラのビジュアルではなく、爬虫類に近い身体となる。そして上陸する。あの時の「眼」が怖い。意思疎通できない生物の眼。何を考えてるかもわからないし、意志なんてないんだ、ということが眼の描写だけで伝わってくる。その「巨大不明生物」が時速10数kmでただ歩くだけで蒲田から品川が蹂躙される。
そして、街をなぎ倒してる瞬間は「うわー!」「すげー!」なんだけど、ハッとするのは、その被害の「跡地」の描き方なんだよね。第二形態の「巨大不明生物」はなぜか海に帰る。なぎ倒された区域では、瓦礫や、木造住宅の破片や、ひっくり返った車両が、道路に積み重なっている。でも、それ以外の人々は、翌日も会社に行ったり学校に通ったり、日常を取り戻す。ニュースはL字型の画面で緊急報道となり、被害の模様や政府の対策を映し出す。何億円、何兆円の損害という話も聞こえる。
僕らはこの光景を観たことがある。震災だ。
過去数十年を経てキャラクター化されて、街を破壊する様子もすっかりエンタメ化された「ゴジラ」はここにはいない。この時点では、まだ劇中には「ゴジラ」という単語も現れていない。
そしてゴジラの「怖さ」のクライマックスは、再び上陸したゴジラが東京の中心で第四形態に進化して熱戦を吐くシーンだ。硬い皮膚にマグマのように滾っていた赤い光が紫色になり、それまでとは比べ物にならない圧倒的な破壊を見せる。基本的には「緩慢に移動する」だけだった巨大不明生物としてのゴジラが、ここで初めて自らの獰猛な意志を見せる。
すべてを焼き尽くせ。
東京が絶望に包まれる。ここで鷲巣詩郎の音楽がゾクゾクするような美しさと高らかな神聖さを奏でる。
やはり僕らはこの光景を観たことがある。使徒だ。
僕らの知っている街と、暮らしが、壊される。単なるディザスター・ムービーの快楽としてではなく、リアルにそれが実感される。
それが『シン・ゴジラ』のゴジラが「本気で怖かった」理由だと思う。途中で「もうやめてくれ。これ以上街を焼かないでくれ」と感じた理由だと思う。
■「現実 対 虚構」の構造
ここまできて、いろいろなるほどと思うことがあった。
今回の『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「ニッポン 対 ゴジラ」。公式サイトでは「現実 対 虚構」として、「現実」に「ニッポン」、「虚構」に「ゴジラ」というルビが振ってある。
本編を観終わったあとで振り返ると、このキャッチコピーがとても秀逸であることがわかる。
映画のストーリーは、かなりのウェイトをさいて政府の対応を追っている。政治的、軍事的な駆け引きや情報交換を忠実に描写している。官僚にメモ出しされる大臣とか、会議室に立ち上げられる対策本部とか、コピー機や段ボール箱にかき集められる各種資料とか。「今の日本にゴジラがあらわれたらどうなるか」というシミュレーションが綿密に行われている。
そして、最初に「巨大不明生物」が上陸した時の日本政府は、はっきり言って上手く対応をとれていない。「そんなことがあるわけない」と想定外の予測を棄却して事実確認に遅れる。記者会見で発表したこともリアルタイムに進展する新たな事象によってあっという間に覆される。会議ばかりで話がまとまらない。招集された学者の意見は参考にならず時間のムダ(ここ笑いどころだったなー)。
結局、政府は何をすることもなく、ただ海に帰るのを眺めるだけになる。そして東京が放射能汚染されていることが民間の計測で明らかになり、メディア発表よりも先にネットでそれが広がり、やはり対策は後手後手になる。
つまり、ここで描かれている「ニッポン」、「虚構=ゴジラ」に立ち向かう日本は、東日本大震災と福島第一原発の事故に対峙した現実の日本政府そのものだ。かなりのリアリティをもってそこを突き詰めている。どうやら取材協力には枝野幸男がクレジットされているらしい。脚本を書くにあたって、巨大災害、そして原発事故にあたっての危機管理について綿密に取材したのだと思う。
しかし、作中で、虚構と現実は逆転する。
第四形態で街を壊滅させたゴジラは、エネルギーを使いきり、再び活動を停止する。国連によって核攻撃が決議される。再び目覚めるまでの猶予は2週間。
前述の日本政府は壊滅し、対策チーム「巨大不明生物特設災害対策本部」で主人公としての活躍を見せてきた内閣官房副長官・政務担当の矢口蘭堂が強いリーダーシップをとりはじめる。研究者たちによって、ゴジラを凍結させることのできる希望が示される。「ヤシオリ作戦」と、それが名付けられる。
ゴジラの体内に溜まっているエネルギーを使い果たさせ、ゴジラを転倒させ、倒れたゴジラの口からポンプ車で凍結剤を流し込むという作戦だ。地味である。核攻撃に比べてはるかに地味ではあるが、重機と鉄道を駆使した(この夏最高のパワーワード「無人在来線爆弾」!)とても日本的な攻撃手段だ。
そして、これを遂行する日本政府は、前半に登場する日本政府とはまるで別物のような敏腕さを見せる。情報収集の巧みさ、意思決定の速さ、国際的な協力をとりつけるしたたかさ。すべてのピースがあっという間にバチバチとハマっていく。解決に向かっていく物語のカタルシス、エンタテインメント要素を重視した演出のせいだと思うけれど、前半に描かれたような「ぐだぐだ」は一切排除される。ほんのわずかな手掛かりから導かれた「希望」に全員があっという間にベットする。前半にあれだけ念入りに用いられたマスメディアの報道や避難する一般市民の視点はぐーっと後景に追いやられる。
「ヤシオリ作戦」という言葉は、日本の古代の神話に由来している。古事記や日本書紀に書かれる、スサノオノミコトがヤマタノオロチという大蛇を倒すときに用いた「八塩折之酒」の名前からとられている(と思う)。
が、観た人の多く「ヤシオリ作戦」という名前から別のものを想起するだろう。エヴァの「ヤシマ作戦」だ。それぞれの持ち場の人が力を発揮し、誰も足を引っ張ることなく、すべての人が犠牲を厭わず協力して一つの巨大な敵を倒す。そのプロットはヤシマ作戦にそっくりだ。
『シン・ゴジラ』の後半においての「ニッポン」は、「現実」ではなく「虚構」をなぞらえている。そう僕は考える。
つまり『シン・ゴジラ』の「現実 対 虚構」は二重の構造を持っている。前半では、現実(=日本)が虚構(=ゴジラ)に蹂躙されるさまを。そして後半では、圧倒的な現実(=ゴジラ)に立ち向かう虚構の希望(=日本)を描いている。
そして見事ゴジラは凍結する。
観終わった時に、絶望ではなく、元気とか勇気のようなものを感じた人が多かったのは、思わせぶりのエンディングで「留保つきの解決」だったとしても、ちゃんとエンタテインメントをまっとうして「希望の勝利」を描いたからだと思う。
■虚構の力を信じるということ
庵野秀明という人、そして樋口真嗣という人は、本気で「虚構の力」を信じているんだと思う。渾身の力を込めた虚構は、決して絵空事ではなく、現実に作用しうるということを、『シン・ゴジラ』で示したんだと思う。
そのことが伝わってきたのも、僕が『シン・ゴジラ』に大きく感動した理由だった。
『ポケモンGO』が世界中で社会現象を巻き起こしていることが象徴的なように、今の時代のテクノロジーやアーキテクチャの向かう先は、映像メディアに立脚した「虚構の力」の次を探すタームに入っていると僕は思っている。二十世紀的な二次元のイメージが作り出す「虚構の力」よりも、現実世界の座標軸の中に浮かび上がる「架空の力」が強まっている気がする。
このあたりのことは、AR三兄弟として活躍する川田十夢さんと話したり、現代の魔法使いとして知られる落合陽一さんの本を読んだり、それをプロデュースしている宇野常寛さんが語っている内容から僕なりにインスパイアされていることではあるのだけど。
そんな時代に「虚構の勝利」を真っ向から描いた庵野秀明監督の力量は、やはりとんでもないものだと思った。
おもしろかった!