今日は「笑ってはいけない」の話。
年明けから物議を醸しているけれど、人権とか差別とか、そういう話は置いておいて、あれを観て感じた、今の時代に「笑える」と「笑えない」の基準が変わりつつあるんじゃないかという話。
【ガキ使速報】
— ダウンタウンのガキの使いやあらへんで! (@gakitsukatter) 2017年12月31日
浜田が着替えたらエディ・マーフィーになりました。#ガキ使 pic.twitter.com/OstIKlP5Vq
年末恒例のお笑い番組「笑ってはいけない」シリーズは、今年は『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』。僕はいつも紅白歌合戦を観ているのでリアルタイムで観てはいないのだけど、後日放映された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』で総集編をちょっと観た。
正直言うと、少しも笑えなかった。
前から嫌いだったというわけじゃない。10年前くらいはずいぶん好きで観てた記憶がある。「笑ってはいけない警察24時!」とか「笑ってはいけない病院24時!」とか。「板尾の嫁」みたいな名物キャラクターにゲラゲラ笑ってた。でも、久しぶりに見たら、なんか、いい大人がケツを叩かれたり蹴られたりしているのを見て「あれ? なんでこの絵を見て笑えてたんだろう?」と思ってしまった。昭和のお笑いを見てるような気持ち。
あれだ。『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』を再放送で観たときの感覚と近いかもしれない。
あれも子供のころは大好きだった。でも久々に観た番組は「あれ? なんでこれ面白かったんだっけ?」だった。「リアクション芸」という言葉があるのはわかる。芸人たちが身体を張っているのもおもしろい。でも、罰ゲームと称して人がひどい目にあっている様子そのものに冷めるというか、それを見世物として提供している制作側の視線を感じて笑えなくなった。多くの人が指摘していることだけど、やっぱりこれ、いじめの構造だよね。
時代が変わったのだろうか。僕の感覚が加齢で変わったのだろうか。
後者の可能性もある。『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』は、視聴率的には17.3%ということでかなりの好成績だったらしいし。
でも、やっぱり時代が変わったのも大きいと思う。何が笑えるか、何がおもしろいか。その基準が変わってきたのだと思う。
■海外に問題が広がった「ブラックフェイス」
『笑ってはいけない』では、番組内でダウンタウンの浜田雅功がエディー・マーフィに扮して肌を黒くメイクしたことが物議を醸している。
問題はBBCやニューヨーク・タイムズが報じるなど海外にも広まった。
ベッキーに「不倫の禊だ」ということでタイの格闘家がサプライズで蹴りを入れるシーンもあった。それを周りの男性芸人たちが笑いながら見ているというシーンも問題になった。
僕としては、今の時代の文脈に即して言えば、ブラックフェイスはもはや人種差別的表現にあたると思う。ベッキーにキックをしたのも、やっぱりいじめの構造だと思う。
ただ、僕は別に番組を糾弾したいわけじゃない。じゃあココリコ田中が蹴られるのはいいのか、とかそういうことじゃない。
「海外に比べて日本は〜」という話にしてしまうのも一面的だと思う。たとえばオーストラリア出身のお笑い芸人、チャド・マレーンが「笑ってはいけない」シリーズが海外で大人気になっているという話を書いていたりもする。
僕が考えているのは「笑えるかどうか」ということ。笑えるってなんだろう。おもしろいってなんだろう。
■誰かを「いじる」ことはもう笑えない
少し前、アメリカ在住の作家/コラムニスト、渡辺由佳里さんが「なぜ『童貞』を笑いのネタにしてはいけないのか?」ということを書いていた。
ブロガー/作家のはあちゅうさんが「#MeToo」ムーブメントの広がりと共に過去に岸勇希さんから受けたセクハラとパワハラを告発したことに関して、その一方、自身は「童貞いじり」のツイートやコラムを書いていたことへの考察。すごく参考になる意見だった。以下、引用。
多くの「セクハラ」は認識不足から起こる。
やっているほうは、「なぜやってはいけないのか?」を理解していないから、非常に無邪気なのだ。
ゆえに、「ささやかな冗談なのに、それがわからないのはつまんない奴だな」という反応や、擁護が起こる。だから、何度も無邪気なセクハラが繰り返される。
やっているほうは無邪気でも、そのためにイヤな思いをする者にとっては、もしかすると一生の心の傷になるかもしれないのだ。
「童貞いじり」をネタにするほうは「でも、私は見下していない。かえって愛情を抱いている」という言い訳をするかもしれない。「そのくらい笑い飛ばせなくてどうする?」と言う人もいるだろう。
だけど、愛があれば、処女いじりやゲイいじりもOKだろうか。そうではないことは、置き換えればわかるはずだ。
「笑い」は、いじめやハラスメントと隣り合っている。それはれっきとした事実。少なくともかつてはそうだった。「愛があるからOK」なんて擁護がされたりもした。
でも、やっぱり時代は変わりつつある。誰かを「いじる」ことは急速に「笑ってはいけない」ことに、そして「笑えない」ことになってきている。
昨年に30周年記念で復活したフジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした。』の保毛田保毛男がいい例だろう。あれはLGBTだったけれど、ああいう風にマイノリティーを見た目や行動で「いじる」という芸は、どんどん笑えなくなってきている。騒がれて問題になるからとか、最近は表現規制が厳しいからとか、そういうことではなくて。デブもハゲもそうで、とにかく「変わっている」ということを指摘して笑いにつなげるような作法の有効性が減ってきている。
つまりこれ、時代が変わって人々の生き方の多様性が増えているゆえに、「普通と違う」ということを指摘することの「おもしろさ」がどんどん減ってきているということだと思う。
だた、かつてそういうことを「おもしろい」と思っていた側、つまり共同体のマジョリティ側に居てそこから外れたマイノリティを笑っていた側は、「そんなこと、今はおもしろくないよ」とか「許されないよ」と言われると、「おもしろさ」が奪われたように感じてしまうのだと思う。そのことで「面倒くさい」とか「窮屈な時代になった」とか「ポリコレ棒が〜」と反発しているという側面もあるのだと思う。
でも、やっぱり僕は、誰かを「いじる」ことはもう笑えないと思うのだ。少なくとも、もっと他に笑えること、おもしろいことは沢山ある。
なので荻上チキさんが「保毛田保毛男」問題に絡めて、こういう風に言っているのはすごく同意。
それこそ飲み会の場とかで公然と人の身体性とかをいじったり、その人の属性とか、あと過去の生き方とか、そうしたことを公然といじって笑いに変えるってクソつまらないと思います。飲み会の雰囲気としても。それよりも、もっといろいろと楽しさってあるじゃないですか。その中で、なんでよりによってそれを選ぶんだ?っていうものがあって。というようなことは常々思っている。
■「キレイだ」が象徴する新しいおもしろさ
でも、お笑い番組の側だって進化している。僕はそう思う。
少なくとも日本のお笑いの「コード」はここ数年で目に見えて変わってきている。たとえばそれを象徴するのが渡辺直美やブルゾンちえみの活躍だと思う。ゆりやんレトリィバァだってそうだよね。
彼女たちは身体性やルックスを自虐的にネタにするようなこともない。周りからいじられることもない。少なくとも僕は先輩のお笑い芸人たちが彼女たちの体型や容姿を「いじって」笑いに変えようとするようなシーンを見たことがない。そうしようとするほうが「サムい」という感覚は急速に広まりつつある。
なので、駒崎弘樹さんが上で紹介した『笑ってはいけない』についての批判記事で書いた以下のくだりは、明確にズレていると思うのです。
「何を無粋なことを。そんなこと言ってたら、お笑い番組なんて作れないよ」という声が聞こえてきそうです。
本当にそうだろうか。
人権に配慮した笑いって、本当につくれないんでしょうか。
差別やイジメでしか、我々は笑えないんでしょうか。
だったらお笑い番組なんて、要らないよ、と個人的には思います。
「そんなこと言ってたらお笑い番組なんて作れないよ」なんてことを思っている制作スタッフなんて、今の時代、きっといないと思います。少なくとも、誰かを「いじる」ことで笑えなくなった時代に、新しい笑い、新しい「おもしろさ」を探る動きは沢山ある。
『M-1グランプリ』を筆頭に多くの特番が放送される年末から正月にかけては日本のお笑いの「コード」が更新される時期だと思っているのだけれど、やっぱり今年も印象的だったのは、去年にブルゾンちえみを世に送り出した『おもしろ荘』だった。
元日の深夜、年越しの『笑ってはいけない』が終わった後に日本テレビ系で放送される恒例の番組。売り出し中の新人が多数出演する『おもしろ荘』で今年1位となったのはレインボーというコンビだった。
彼らが披露したのは、実方孝生が演じるキザな「ひやまくん」と、女装した池田直人が演じる「みゆきさん」の二人が織り成す“ドラマティックコント”。これが不思議なおもしろさだった。
実方がキメ台詞「キレイだ」を連呼していくうちに、だんだん笑いが生まれていく。最初に見たときは笑いながら「なんなんだこれ」と思ってたけど、その後に内村光良司会の『UWASAのネタ』でもう一度ネタを見てやっぱりおもしろくて、こりゃブレイクするなと思った。でも、コントの筋書き自体はよくある恋愛ドラマを模したものなので、文字起こしを書いてもちっともそのおもしろさは伝わらない。
レインボーの「キレイだ」は何がおもしろいんだろう。言い方か。顔芸か。女装した相方をひたすら褒めていることか。
今はよくわからない。ただ、番組に出ていた相方の欠点を「いじる」タイプの他のコンビがそこまで跳ねない一方、彼らがブレイクしていくのが2018年という時代なのだと思う。
誰かを「いじる」ことで笑えなくなりつつある時代に、やっぱり、新しい「おもしろさ」は生まれていると思うのです。