日々の音色とことば

usual tones and words

アフターコロナの世界で「戦争に反対する」ということ

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これも今のうちに書きとめておこう。

 

新型コロナウィルスへの感染拡大に対して、欧米各国の首脳が「戦争」という言葉を使っている。

その言葉に、なにか違和感がある。骨が喉につかえるような、ちょっとした引っかかりを感じる。なんだろう、これは。

「これは戦争だ」「私は、ある意味、自分のことを戦時下の大統領だとみなしている」(トランプ米大統領)

www.bbc.com

「われわれは戦争状態にある」「直面しているのは他の国や軍ではない。敵はすぐそこにいる。敵は見えないが、前進している」(マクロン仏大統領)

www.newsweekjapan.jp 

「我々は戦時下の政府のように振る舞う必要がある」(ジョンソン英首相)

www.bbc.com


もちろん、緊急事態であるのは間違いない。各国で甚大な被害が広がっている。そして医療従事者は“前線”にいる。重篤化したCOVID-19の患者を救うために日々戦っている。そして、感染拡大を抑えるためには、人々が社会的距離を保つ必要がある。

 

だから、まあ、言っていることはわからなくもない。無症状の感染者が多くいることがわかってきた。それぞれが勝手な判断で日常を暮らしていたら、医療資源が失われ、救える命が救えなくなる。統制が必要になる。

 

ただ、そういうメッセージを伝えるために「戦争」のレトリックが使われるということに、理解はしつつ、どうにも腹の底で落ち着かない気持ちがある。

 

このブログでもたまに書くけれど、僕は「戦争反対」のスタンスをとっている。

 

そして、こういう事態のときは、そのことについて、その言葉の意味がどういうことなのかをもう一度考えるきっかけになるような気がしている。

 

紛争や爆撃があったときには、そのことへのリアクションとして「戦争反対」のメッセージが発せられることが多い。たとえば今年1月初頭にトランプ政権がイランのソレイマニ司令官をドローン爆撃で殺害したときがそうだった。いろんな人がニュースに反応した。

 

www.businessinsider.jp

 

(まだ3ヶ月も経ってないのに、なんだかもう、はるか昔のことのように感じてしまうよな……)

 

ああいうときはわかりやすい。「戦争」のイメージは、軍服や戦闘機や爆弾と密接に結びついている。そういうのは嫌だ。平和がいい。想像しやすい。

 

でも、むしろ考えるべきときは、今なのではないかと思う。なぜ国民国家の指導者は状況を「戦時下」になぞらえるのか。そのレトリックから伝わるのは「戦争」というものの本質が、実は「戦場」だけではなく、むしろ「日常」のほうにあるということなのではないだろうか。

 

それは、いわば、社会的な統制のために個々の生活を明け渡す、ということ。行動を制限するということ。都市のロックダウンを含めた強硬な措置に従うということ。

 

それを伝えるためのメッセージとして使われるレトリックが、欧米各国では「戦争」で、日本では「自粛の要請」ということなのだろう。

 

■信頼をもって統制に立ち向かう

 

では、いま「戦争に反対する」ということって、どういうことだろうか。

 

もちろん、それぞれが自由気ままに行動する、ということではない。封鎖された都市を出歩いたり、抜け出したりすることじゃない。

 

かつて英文学者の吉田健一は「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」と言ったけれど、その言葉をそのまま当てはめるわけにはいかない。

 

でも、想像してみよう。

 

「国家権力の統制による隔離と封鎖」ではなく、テクノロジーをベースに人々が「ネットワークを通じて情報交換し相互に作用する」ことで、感染を封じ込めることができたならば。

 

一つ前の記事でも書いたけれど、ユヴァル・ノア・ハラリの書いた「コロナウィルス後の世界」というエッセイは、そういう社会の別れ道をイメージさせるという意味で、とても示唆的だ。

courrier.jp

 

新型コロナウイルス(COVID-19)の地域的流行に対抗するため、すでに各国政府は新手の監視ツールを展開している。

最も注目すべき例は、中国だ。

市民のスマートフォンを念入りにモニタリングし、人間の顔認識ができる監視カメラを何億台も稼働させ、市民に検温とその結果、および健康状態の申告を義務付けることで、中国当局はコロナウイルス拡散を疑われる人物をすばやく特定するだけでなく、彼らの行動や誰と接触していたかまで把握できる。感染患者が近くにいることを警告するモバイルアプリも広く出回っている。

 

今回のコロナ危機が、「監視の歴史」における重大な分岐点になるかもしれないのだ。大量監視ツールの標準展開が、それまで展開を拒否していた国で続々と実施されるかもしれない。「皮膚より上」から、「皮膚の下」の監視へと劇的な移行が起きているだけに、その懸念は強くなる。

いままで政府が知りたかったのは、ある人の指がスマホの画面で何のリンクをクリックしたかだった。だがコロナ危機によって関心の焦点がシフトした。政府が手に入れたいのは画面にタッチする指の温度であり、皮膚の下の血圧数値なのだ。

 

けれど、ハラリは強権国家による監視社会ではなく、それぞれがオープンな情報のもとで互いに信頼し、望ましいことを実践することで、難局を乗り越えられるのではないかと主張している。

 

集中監視システムと厳罰の組み合わせが、有益な方針に人々を従わせる唯一の方法ではない。市民が科学的事実を告知され、そうした事実を伝える当局に信頼を寄せたとき、「ビッグ・ブラザー」が肩越しに目を光らせなくとも、彼らはしかるべき対応をとるようになる。

充分な情報を与えられた市民が望ましいことを進んで実践するようになったとき、監視状態に置かれた無知な人々と比べ、前者ははるかに能力に長け、はるかに好結果をもたらすのが通例だ。

 


ハラリはTIMES誌に「In the Battle Against Coronavirus, Humanity Lacks Leadership」と題した記事を書いている。そこにはこうある。

 

今日、人類が深刻な危機に直面しているのは、新型コロナウイルスのせいばかりではなく、人間どうしの信頼の欠如のせいでもある。感染症を打ち負かすためには、人々は科学の専門家を信頼し、国民は公的機関を信頼し、各国は互いを信頼する必要がある。

web.kawade.co.jp


ちなみに、新海誠監督が最近のインタビューでハラリとコロナウィルスのことを語っていてすごく驚いた。

 

例えば『サピエンス全史』を書いたユヴァル・ノア・ハラリの次作である『ホモ・デウス』では、データを持っているごく一部の支配層と、自分の意思でデジタルデバイスを使うのではなく、デバイスに指示されるがままにコントロールされて家畜化していく人たち、という二極化が描かれていました。こう表現すると典型的なディストピアのようですが、現実に私たちはそれをディストピアと思わなくなってきているんですよね。実際「スマホに指示してもらった方が便利じゃん」と思うこともありますし、さらには「スマートウォッチをつけて脈拍を診てもらっていた方がいい」など、もはや生存権にも関わってきている部分があります。

 

── 確かに。シンプルに「便利になったね」で終わりがちな話ですよね。

もはやネットワークから外れたら健全な生存ができなくなっていくような世界にどんどん向かっていますし、僕たちはどこかでそれを心地よいと感じて受け入れ始めています。僕自身はそのことに対し考えている最中で、端的に受け止めるべきか、閉ざしていくべきか、まだ判断できていません。「動物として導いてもらった方が、種全体としてはいいんじゃないか?」とか。テクノロジーに限らず、今はあらゆる領域でみんなそういうことを考えながら試行錯誤していますよね。今回の新型コロナウイルスの件も含めて。…まあ、そういう大きな話につながっていくので、これはこの辺にしておこうと思いますけど(笑)。

 

www.gizmodo.jp

 

時計の針を逆にすすめることはできない。おそらく生体情報計測テクノロジーの導入は今後加速的に進んでいくだろう。

 

それをどう運用していくか。

 

オープンで迅速な情報公開と、それにもとづく相互の信頼によって、国家による監視と統制に対抗していくこと。それがアフターコロナの世界で「戦争に反対する」ということになるのかもしれない。

 

すでに、この状況を「第三次世界大戦」になぞらえる人も出てきている。

 

けれど、僕は、感染症との戦いは「戦争」ではないと考える。最前線の現場で働いている医療関係者たちの頑張りには誠心誠意の感謝と応援の気持ちを持っているけれど、それは「奮闘(=fight)」であって、国が争う「戦争(=war)」ではない。

 

僕はそんなふうに考えている。

 

www.youtube.com