きっと、忘れてしまう。
書きとめておかないと、考えたことは、あっという間に流れていってしまう。だから僕はここに文章を書いている。読むのは1ヶ月後、1年後、10年後の自分を想定している。
新たな習慣が生まれ、それが、少しずつ過去を古くしていく。ニュー・ノーマルが訪れるときに、過去の価値観の何を捨てていくのか。変えずに持っておきたいものは何か。それを取捨選択する時間が今だ。
この2ヶ月くらい、僕は繰り返し、そのことを考えている。
僕の生活は大きく変わった。電車には乗らなくなった。ライブには行かなくなった。取材や打ち合わせはオンラインで行うようになった。4月に入って緊急事態宣言が発令されてからは、犬の散歩や買い物以外はほとんど外出せず、自宅で過ごすことが増えた。
新しく始めたこともいくつかある。
ストレッチや筋トレを日常に取り入れるようになった。自宅の近くの多摩川の河原をランニングするようになった。犬の散歩をしながら新譜の話をするインスタライブを始めた。ベランダにプランターを置いて野菜を育ててみることにした。
これを書いているのは5月24日。明日には首都圏でも緊急事態宣言が解除される見通しが示されている。およそ2ヶ月にわたる外出自粛の日々が、とりあえず、終わろうとしている。
そしてこの先、長期にわたって新型コロナウイルス(COVID-19)と共存する社会が訪れる。ワクチンや特効薬が開発され、感染を完全に抑え込むには、もうしばらく時間がかかるだろう。
その先に何が待っているのだろうか。
■統治機構の“A/Bテスト”の結果
国や地域によって、“COVID-19下の社会”の状況は大きく違っている。
たとえばブラジルでは5月に入って感染が急速に拡大、貧困地区を中心に死者数が急増している。ウイルスの脅威を否定し経済活動の継続を訴えるボルソナロ大統領とロックダウンの措置を自主的に要請しているサンパウロやリオデジャネイロなどの州知事たちが対立し、連邦政府全体が大きな混乱に巻き込まれている。
一方で、台湾やベトナムでは感染を抑え込むことに成功している。
初期の段階から感染者の隔離や濃厚接触者の追跡を徹底したベトナムでは、死者数は0人、新規感染者も4月から1ヶ月にわたってゼロが続き、5月23日にはスタジアムに多数の観客を集めたサッカーの試合も開催された。
マスク配布システムなど情報技術を駆使した台湾のコロナウィルス感染対策は世界的にも大きな評価を集めている。
中国や韓国も位置情報技術を駆使した行動監視による感染拡大の抑え込みに成功している。日本がどうなるのかはわからないが、台湾も含めた東アジア、東南アジア諸国ではこうした方法が一つのスタンダードになっていきそうな予感もする。
2ヶ月前に僕はこう書いた。
「地球上で様々な国、文化、統治機構の“A/Bテスト”が行われてしまっているのが、今の数ヶ月と言えるのかもしれない」
その“A/Bテスト”の結果は、残酷な形で明らかになってしまっているとも言える。
死者、感染者共に最も多いアメリカで明らかになったのは、感染拡大によって大きな打撃を受けているのが貧困層などの社会的弱者であるということ。アフリカ系など有色人種の死亡率のほうが白人よりも高いということ。所得格差が健康格差に直結している事実が、改めて浮き彫りになっている。
アメリカの他にも、イギリスやブラジルといった新自由主義的な政策を推し進め、結果として国内に格差の問題を抱えた国家はウイルスによって大きな打撃を受けている。
一方で、情報をオープンに公開し共同体としての信頼関係を築くことのできている国家は感染を抑え込むことに成功している。
「新型コロナ問題で台湾が教えてくれたこと―マイノリティーへの向き合い方でその国が真の『先進国』かどうかが決まる」と題した記事が、とても示唆的だった。
今回のコロナ禍が問うているのは、その共同体が常に価値観をアップデートさせてきたかどうか、なのだ。例えば台湾・ニュージーランド・ドイツなど、今回のコロナ対策で死者を比較的低く抑えている国の共通点は女性がトップという話がある。
ここから導き出される答えは、女性が優秀であるといった話ではないだろう。女性がリーダーになれる国では、伝統的なジェンダーや慣習よりも実力や新しい発想が重んじられ、マイノリティーが重視され、柔軟に社会が変わってきたのだと思う。マスクアプリ開発で日本でも一躍有名になった天才IT担当閣僚オードリー・タン(唐鳳)氏の起用も、そうした例のひとつだろう。こうした国々が今、さまざまな先進的な施策によって世界を引っ張っている。
そういう意味では、今回のパンデミックによって共同体が大きく価値観をアップデートさせたのがイギリスだった、と言えるかもしれない。
3月末にコロナウィルスに感染し生還したイギリス首相のボリス・ジョンソンは、国民に向けてのビデオメッセージで“there really is such a thing as society”(たしかに社会なるものは存在する)と告げた。これはマーガレット・サッチャー元首相が語った“There is no such thing as society.”(社会なるものは存在しない)という言葉を意識した言い回しで、つまりはサッチャー政権以降続いてきたイギリス保守党のネオリベラリズム、新自由主義の価値観の“終わり”を意味するステートメントとも言える。
■「#検察庁法改正案に抗議します」はひとつのターニングポイントになるだろうか
日本はどうか。
残念ながら政府の対応は酷いものだった。布製マスクの配布も、10万円の給付金も、あらゆる対応が後手に回った。意思決定のスピードは遅く、決断は迷走し、マスへのコミュニケーション不足が露呈した。
星野源の「うちで踊ろう」の動画にあわせた官邸によるSNSの投稿も、とても邪悪なものだった。これについては現代ビジネスに書いたのでここでは改めては触れない。
ただ、5月に入って社会の風向きの変化を感じたのは「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグによるオンラインデモの広がりだった。
前提はとてもひどいものだった。今年2月に黒川弘務東京高検検事長の定年を延長する閣議決定も、これまでの法解釈を文書に残さず口頭で変更したという経緯も、それを受けて内閣が検察官の特例的な定年延長を恣意的に行うことを可能にする検察庁法の改正案の強行採決を目指した自民党の動きも、全てが法治国家としての根幹を揺るがすものだった。このあたりは除東輝さんが詳しく解説している。
松尾邦弘元検事総長が法務省に提出した意見書もとても辛辣かつ論理的なものだった。
結果として検察庁法の国会成立は見送られ、黒川検事長の賭博麻雀が発覚したことで辞職に向かうという幕引きになりそうだが、やはり大きな変化は、この「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグを通じて、俳優、タレント、ミュージシャン、作家といった著名人たちの発信が大きなうねりになったことだと思う。
これまで、日本では特に芸能人による「政治的な発言」は忌避されてきた。今回のように様々な分野の著名人が政治に対して同時に声を上げるようなことは、ほとんどなかった。
今回も多くのバックラッシュがあった。でも、これが一つのきっかけになればいいと思う。アーティストやクリエイターが当たり前に「政治的な発言」をする社会のほうが当然望ましい。日本以外の国ではそのことによってポップカルチャーがダイナミックに駆動している。
「政治を語ってこなかった日本人が、政治を語るという行動変容を起こしている」
「#検察庁法改正案に抗議します」タグを最初にツイートした笛美さんという方は、そう実感を記している。
笛美さんは、その先に「議員に日常的にコミュニケーションをとる」という新しい生活様式を提案している。
対立陣営同士が罵倒しあっているかのようにとられる“強い言葉”を使わないこともキーだったという。
渦中のときに僕がどんなことをツイートしていたのかも書いておこう。
「60年も1党独裁が続いてきたのです。ところが、世界で最大規模と言われる与党の汚職事件をきっかけに、その弊害に人々が気づきました」
— 柴 那典 (@shiba710) 2020年5月9日
「こうして、全員が『自分のことだ』と捉えて、政治を変えた結果、今があります」https://t.co/kJyCEeseIh
マレーシアの話です。#検察庁法改正案に抗議します
僕は「#検察庁法改正案に抗議します」タグのツイートで野本響子さんが書いた「政治の話がしやすい国と、しづらい国の違い」という記事のことを書いた。
記事にはこうある。
元々、マレーシアでは60年も1党独裁が続いてきたのです。
ところが、世界で最大規模と言われる与党の汚職事件をきっかけに、その弊害に人々が気づきました。彼らはデモを行い、人種や宗教を超えて繋がり、投票で選挙に勝ちました。その政府にお金がないと知ると、クラウドファンディングをはじめました。そういう国なのです。マレーシアでは、小学生でもチャットで政治の話をします。息子の中学校の仲間たちも同様です。
こうして、全員が「自分のことだ」と捉えて、政治を変えた結果、今があります。
個々の立場で言いたい事はあっても、個人攻撃しない、罵倒しない、汚い言葉も飛び交わない。時々おかしな人も乱入するけど、そんな時の対象方法まで含めて勉強になります。
(中略)
どうしたらこんな風に成熟した議論ができるのだろう?と、私はいつも羨ましい気持ちになってしまうのですが、マレーシアだって一夜にしてこうなったワケではないんですね。
過去には人種間の大きな対立もあったし、長年の腐敗した政権を選挙で倒したり。自分たちで行動してきたからこその、今なのだと思います。受け身の人が実に少ないのです。
この先に社会が大きく揺れることを確信した2月末、僕はこう書いた。
権威と忖度ではなく、知性と信頼によって、公共性はデザインされるべきだ。
この3ヶ月にあったことを、人々は忘れてしまうだろうか。
それとも何かが根付くだろうか。