日々の音色とことば

usual tones and words

リアリティショー化された戦争/オンライン演説のナラティブについて

3月23日。ウクライナのゼレンスキー大統領の日本の国会での初めてのオンライン演説を聞いた。移動中だったので電車の中でYouTubeのライブ配信を見た。

 

youtu.be

 

正直な感想として「これはすごい」と心底思った。今、アメリカやヨーロッパやいろんな国で起きている情動のさざ波のようなものの一端に触れた気がした。

 

言葉はとても強い力を持っている。それは実際に人を動かす。人は誰しもそれぞれの物語の中を生きていて、そのナラティブが折り重なっていく中で歴史が形作られる。

 

また、語りは言葉の持つ力を増幅させる。どんな声で、どんな口調で語られるのか。声に宿るトーンは、ときに語られる内容自体よりも強く聴き手の感情に作用する。

 

そして、マクルーハンが言うとおり、メディアとはメッセージである。どんな媒体を使って情報を伝えているかという、そのこと自体が時代の中で強いメッセージ性になる。今回の場合は「オンライン演説」ということがポイントで、もちろんその前提はLINEやWhatsAppやテレグラムのようなメッセージアプリの普及、コロナ禍を経て多くの人がオンラインでのコミュニケーションを経験したことにある。モニタの映像と音を通して遠隔地から喋っているわけだし、語義的には「tele-vision」なわけだけど、これが「テレビ演説」と言われないところにキーがある。僕自身そう言ってしまうと妙な違和感がある。「テレビ」というメディアが本質的に”一対多”の大衆伝達性を持つのに対して、メッセージアプリという「オンライン」メディアは本質的に電話の延長線上とも言える”一対一”、パーソン・トゥ・パーソンの親密性を持つ。

 

そういうことを踏まえて考えると、ゼレンスキーの決して声を張り上げず、力強くも低い声で静かに語りかけ、いわゆる”演説口調”にならない喋り方は、それ自体が強いメッセージ性を持っている。もちろん、手元の原稿を読んでいるような素振りは見せない。目線は真っ直ぐにカメラに向き続けている。丁寧に”一対一”の喋り方が選ばれていると感じる。

 

そのことが、各国でオンライン演説をした際の、それぞれの国の歴史や文化を踏まえたスピーチの内容にもつながっている。3月8日にイギリス、15日にカナダ、16日にアメリカ、17日にドイツ、20日にイスラエル、22日にイタリア、そして23日に日本。イギリスではシェークスピアやチャーチルの引用。アメリカでは真珠湾と9・11。ドイツではベルリンの壁への言及。それを踏まえて日本では何をどう語ったのか。

 

全文書き起こしがあった。

dot.asahi.com

www.ukrinform.jp

 

すごく練られた、とても巧みなものだった。

 

チェルノブイリ原子力発電所が武力で制圧されたということ。事故のあった原発周辺の封鎖区域をロシア軍の装甲車が放射性物質を巻き上げながら走っているということ。サリンなど化学兵器の攻撃の可能性があるということ。

 

その言葉自体は使わず、しかし日本に暮らす誰しもが東日本大震災と福島の原発事故やオウムの記憶を思い出し共有するであろう自国の危機への言及。「自分のふるさとへ戻らなければ、という気持ちをあなた方は理解していると確信している」という言葉。全般的な”感謝”のトーンと、「アジアのリーダー」という”持ち上げ”。制裁強化と戦後復興支援と国連改革への呼びかけ。「侵略の"津波"」という表現。日本文化への敬愛。

 

日本が置かれている状況と、そこに暮らす人々がどういう物語を生きているかを分析し把握した上で、何を語り、何を語らないかを綿密に選び取ったかのような内容に思えた。

 

加えて、あまり指摘されていないことだけれど、このスピーチの最初と最後は「距離をなくす」というリフレインによって成立している。

 

「両国の間には、8193kmの距離があります。経路によっては、飛行機で15時間もかかります。ただし、お互いの自由への思いに差はありません」という風に始まり、最後で「距離があっても、私たちの価値観はとても共通しています。ということは、もう距離がないということになります」と念を押す。

 

メディアはメッセージ。「もう距離はない」という語られた内容自体と「初のオンライン演説」という媒体形式が相似形を成している。

 

メディアやSNSを見ると、沢山の人が高い評価を与えている。極めて優秀なスピーチライターがチームにいるのであろうと僕も思う。

 

そのうえで、ひょっとしたら、これはこの後、ちょっと怖いことになるかもしらんぞという予感もあった。

 

演説自体のトーンと内容は決してそうではないけれど、起こっている事象は極めてテレビ的(というか、グローバル需要を前提にした“TVシリーズ”的)なのではないか、とも感じる。ゼレンスキーはコメディアンで俳優出身のキャリアの持ち主であることはよく知られている。そのキャリアのスタートが友人たちと結成した劇団であることを踏まえてイメージすると、年代的にも人気の大きさとしても日本で言うなら大泉洋が一番近いのではないかと思ったりする。それはさておき、大統領出馬の決め手になった番組『国民のしもべ』は彼が立ち上げた映像制作会社「Kvartal 95」の制作によるもので、ということはゼレンスキー自身とそのチームが「制作会社」としての出自を持つわけである。

 

こんなことを考えてしまう。

 

ひょっとしたら、我々が目撃しているのは歴史上初めての「リアリティショー化された戦争」なのではないだろうか。

 

あらゆる意味で、究極のリアリティーショー。

 

そして、演説のナラティブは、各国の視聴者を「当事者」にするために練り上げられたもので、それは制作会社的な視点で考えれば、いわばコンテンツの「ローカライズ戦略」になぞらえることができる。

 

この「語り」が多くの人の心を揺さぶり劇場的に受け止められたことで、その余波として何が起こるか。

 

まだ上手く言語化できないんだけど、これからしばらくは、美味しいご飯を食べたり、家を掃除したり、綺麗な花を見たり、普段よりもちょっとだけそういう方に感度を上げて生活しようかなと思ったりしている。