日々の音色とことば

usual tones and words

日常を歌うことがプロテスト・ソングになる、ということ

以前noteに書いていたことなんだけど、MVが公開されたタイミングでもあるし、こちらにも残しておこう。

 

アナログフィッシュのアルバム『Almost A Rainbow』がすばらしい。

 

Almost A Rainbow


特にすごいのが下岡晃が書いた「No Rain(No Rainbow)」という曲の歌詞。

 


Analogfish 〝No Rain (No Rainbow)"(Official Music Video)

 

ほんとは聴いてから読んでほしいんだけど、まず歌詞を引用する。

 

「僕はバカだから傷つけなきゃわからないんだ」
「そんなあなたを選んだ私に見る目がないのね」
なんて笑いながら暮れる街を歩いていた
不意に隣をいく君の髪が風に揺れる

 

"No Rain No Rainbow"

 

「この幸せの代償に僕は何を支払うんだろう」
「何も何一つも支払う必要なんてないの」
「何故?」と問いかける僕に君は困ったように
「雨が降った後にかかる虹のようなものよ」

 

and she said
"No Rain No Rainbow"

 

寄った居酒屋は値段の割に酷いもんで
それを愚痴る僕に君は思い出したように
「ただ好きなだけでこれはサービスではないの
ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」

 

「でも…」 she says
"No Rain No Rainbow"

 

君に何かしてあげたいっておもうよ

 

雨のあとには虹がかかる。それは当たり前のこと。それを「悲しみのあとには喜びが待っている」みたいなことのメタファとして表現するような歌も沢山ある。


でも、この曲の「No Rain No Rainbow」はそういうことじゃない。もっと先のほうに踏み込んでる。


恋人か夫婦か、心を許しあえる相手と笑いながら夕暮れの街を歩く、日常のささいな風景から曲は始まる。ふと「この幸せの代償に僕は何を支払うんだろう」と「僕」が怯える。それに対して「君」が言う。「何も何一つ支払う必要なんてないの」。だって「ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」。


この一行は本当にすごいと思う。下岡晃の詩人としての冴え渡る才覚を示してる。

というわけで、ちょっとそれを検証するためにアナログフィッシュのここ数作を振り返ろうと思う。

 

2011年以降、彼の言葉は「覚醒」と言っていいほどの切れ味を増していた。きっかけはアルバム『荒野 / On the Wild Side』。というか、その1曲目に収録された「PHASE」だった。

 


アナログフィッシュ 「PHASE」

夢を買う彼はリアリスト
夢を乞う僕はテロリスト
夢を売る彼はリアリスト
夢を見る君はテロリス
失う用意はある? それとも放っておく勇気はあるのかい


2011年5月にリリースされたEP『失う用意はある?それともほうっておく勇気はあるのかい』にも収録されたこの曲。震災前に書かれたというこの歌詞の一節は、偶然なのか必然なのか、3・11以降の社会にシャープに照準を合わせたものになっていた。

『荒野 / On the Wild Side』には「戦争がおきた」という曲も収録されている。日常の情景を淡々と描写する中に「戦争」という言葉がインサートされる曲。これも、つまりはプロテスト・ソングを引き受けた曲だった。

 

2013年の『NEWCLEAR』に収録された「抱きしめて」も、実は震災の一年前に作った曲だったらしい。

 


アナログフィッシュ(Analogfish) "抱きしめて" (Official Music Video)

危険があるから引っ越そう

遠いところへ引っ越そう
畑と少しの家畜をかって
危険が去るまでそこにいよう

いつまでなんて聞かないで
嫌だわなんて言わないで

ねぇどこにあるのそんな場所がこの世界に
もうここでいいから思いっきり抱きしめて

 

そのことを踏まえて考えると、震災後の、原発事故後の現実に鋭く符合する歌詞は、あきらかに「啓示」に属するものだった。


2014年の『最近のぼくら』は、『荒野』『NEWCLEAR』とあわせた「社会派三部作」と位置付けたアルバムだった。

 


アナログフィッシュ(Analogfish) "最近のぼくら" (Official Music Video)

 

全般にループを元にした曲構成になっていて、表題曲はドラムとベースのみのシンプルなサウンド。ヒップホップにも接近したスタイルになっている。ただ、「社会派三部作」と言うわりには、メッセージを背負おうとはしていない。熱を込めず、目の前にあるものの描写に徹している。

 

このアルバムのインタビューでは「日常の風景を歌いたかった」と言っている。「そのほうがメッセージを歌うよりも自分にとって大事」だという。ただ、その一方で、別のインタビューでは「いつもレベルミュージックを作ろうと思っている」と語っている。
というわけで。


なんで遡っていろいろ書いてきたというと、下岡晃というリリシストの「覚醒」が、この「No Rain(No Rainbow)」にちゃんと結実しているから。

 

つまり、この曲では「日常の風景を歌う」ということに徹していながら、ちゃんとプロテスト・ソングになっていると捉えることができるわけだ。

 

何に対してのプロテストかというと、それはおそらく「市場化」の圧力。何かを手に入れるためには、何かを支払わなければいけない。幸福や、愛や、自由や、そういった大切なものを含めたすべての価値に、値札がつけられる。「世界は等価交換で成り立っている」と勘違いしてしまう。わかりやすく言うと「コスパ」で全てを判断してしまう価値観、ということだ。

 

この曲に出てくる主人公の「僕」は、その価値観を知らず知らずのうちに内面化している。だから、自分がお金(代償)を払って手に入れたわけではない幸せが怖くなる。コストとパフォーマンスの関係にとらわれているから、「値段のわりにひどい」居酒屋をグチる。

 

それに対して気高い「君」が諭すように「ただ好きなだけでこれはサービスではないの」と言う。私があなたのことを好きな気持ちは、市場やお金やコストや報酬には関係ないでしょう?ということだ。「ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」と。

 

それをうけた「僕」は「でも…」と口ごもる。

 

そして最後の一行にたどり着く。この曲の歌詞は二人の会話の描写で綴られているのだけれど、最後の一行だけそこから飛躍する。カメラが俯瞰から主観に切り替わって、歌はこう繰り返して終わる。

 

君に何かしてあげたいっておもうよ

 

前述した後藤正文の対談の中で「ラジオとか聴いてるとさ、サビの中で“愛してる”って言葉を言いまくる歌もあって。サビで“愛してる”を16回も言うのか、みたいな(笑)。でも愛ってそういうことじゃないじゃん?」という風に下岡晃は語っている。

 

そのことを踏まえて考えると、二人のダイアローグを通して「対価」とか「代償」とか、そういう価値観を丁寧に取り除いて辿り着いた「君に何かしてあげたいっておもうよ」というのは、そのまま「愛してる」という言葉と同義になっている。


ものすごく批評性を持った愛の表現だと思う。

 

 

(ちなみに。アナログフィッシュというバンドは下岡晃と佐々木健太郎という全くタイプの異なる二人のソングライターがいて、なので『Almost A Rainbow』というアルバムの素晴らしさを語るには「No Rain(No Rainbow)」だけじゃ片手落ちなのだけど、これ以上は長くなるのでやめときます。でも、山下達郎とチルウェイヴが溶け合ったような「Baby Soda Pop」や「Will」のキラキラしたきらめきも、すごくよいです)

 


Analogfish "Baby Soda Pop" (Official Music Video)

 

追記。

 

ライターの先輩、兵庫慎司さんが「知人のライター柴那典が、この曲に関して、腹が立つくらい(なんでよ)的を射たことを書いていたので〜」とブログに書いてくれてました。ありがとうございます。腹立てないで!

shinjihyogo.hateblo.jp

 

太陽光の感じや、影の落ち方や、アングルの切り取り方や、そのアングルの中を人やクルマや電車が通るタイミングなど、もう何もかもが絶妙。って、何がどう絶妙なのかとても説明しづらいが、いちいち「そうか!」とか言いたくなる、観ていると。

そして、それらの積み重ねによって「街の風景を描くことがそのままプロテスト・ソングになる」という、アナログフィッシュ下岡晃楽曲がやりたいことと完璧にシンクロした映像作品に仕上がっているのだ。

 

そこに書かれているMVについてのこの文章も、「まさに」と思います。

 

 

 

宇多田ヒカルは死をどう描いているのか

花束を君に

真夏の通り雨

 

今月号の『MUSICA』に、宇多田ヒカル『花束を君に』『真夏の通り雨』のレビュー原稿を書きました。

 

MUSICA(ムジカ) 2016年 06 月号 [雑誌]

MUSICA(ムジカ) 2016年 06 月号 [雑誌]

 

 

そこにも書いたことだけれど、改めてここにも書いておこう。

 

発売からしばらく経つから、もう沢山の人が耳にしただろうこの曲。聴いた人は、この二つの曲が何について歌っているのか、すぐにわかるんじゃないかと思う。

 

「花束を君に」と「真夏の通り雨」の二つの曲は、いわば裏表の関係にある。どちらも死がモチーフにある。アーティストの私生活と作品とを安易に結びつけるのには慎重になるべきだけれど、おそらく、母・藤圭子の自死がその背後にあるのは間違いないのではないだろうか。そして再びの結婚を経て自身が母親になった、ということも。

 


宇多田ヒカル「花束を君に」(30s Version)

 

普段からメイクしない君が薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した 

 

「花束を君に」はこういう歌い出しで始まる。ピアノの丁寧な温かみのある声で優しいメロディを歌う。最初のサビの前で挟まれる、ため息のような吐息が胸に刺さる。

 

そして、中間部を経て、2番が始まるかと思いきやメロディも歌い方も変調する。

両手でも抱えきれない
眩い風景の数々をありがとう 

 
と歌う。情感はクライマックスに向けて上昇し、

どんな言葉並べても
君を讃えるには足りないから
花束を君に贈ろう 涙色の花束を君に 

 と終わる。

 

悲しみを堪えながらも、別れと弔いをゆっくりと受け入れていく歌だ。

 


宇多田ヒカル「真夏の通り雨」(Short Version)

 

一方「真夏の通り雨」が射抜くのは喪失と葛藤だ。

 

深く沈むような沈痛な旋律で、こう歌う。

いつになったら悲しくなくなる
教えてほしい

今日私は一人じゃないし
それなりに幸せで
これでいいんだと言い聞かせてるけど 

 

心の深い部分から感情の奔流が湧き上がってくる。曲後半になるにつれて、そのままならない切迫感はどんどん増していく。

 

最後は

ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない乾き 

 

と繰り返し、絶望の余韻を残してフェードアウトする。

 

とてつもない2曲だと思う。そして、振り返れば、2012年には「桜流し」があった。

 

 


宇多田ヒカル - 桜流し(Short Ver.)

 

もし今の私を見れたなら どう思うでしょう
あなた無しで生きてる私を

もう二度と会えないなんて 信じられない
まだ何も伝えてない まだ何も伝えてない

 

この曲も、やはり死別のモチーフを持った曲だ。「真夏の通り雨」と同じく、その渦中にあることを強烈に感じさせる。

 

今、宇多田ヒカルは次作のアルバムを制作中だという。おそらく、これらの曲が収録されるだろう。たぶん、とてつもなく素晴らしいものになるのは間違いないと思う。ただ、この新作が、今の日本でどう受け止められるのか? そこに関しては正直、まだ未知数という気もしている。

 

宇野維正さんは著書『1998年の宇多田ヒカル』の中でこう書いている。

 

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

 

 

 このような本の最後には、音楽シーンの未来に向けて明るい提言の一つでもしておくべきなのかもしれないが、日本のメインストリームの音楽に関して言うなら、自分はもうほとんど何も期待していない。宇多田ヒカルの曲で「BLUE」と並んで最も好きな曲「テイク5」の歌詞を引用させてもらうなら、今は「絶望も希望もない、空のように透き通っていたい」といった心境だ。

 実を言うと、ほんの少し前まで希望はあった。知人や同業者と現在の日本のポップ・ミュージックについて語り合う際にも、その希望をよく口にしていた。

「宇多田ヒカルが戻ってきたら、きっと日本の音楽シーンはまたガラッと変わるよ」

 しかし、宇多田ヒカルの復活が現実のものとして近づいてきた今、もう無邪気にそんなことを言っている場合ではなくなってきた。

 

最愛の母の死、再婚、初の出産を経て世に送り出す新たな音楽。きっと、それはこれまでの宇多田ヒカルの名曲の数々をすべて塗り替えてしまうような、まったく別次元のものになっているに違いない。

 しかし、現在の日本の貧しい音楽シーンと、その貧しさにすっかり慣れきっているリスナーが、それを受け止めることができるだろうか?

 

引用させてもらった中にある「知人や同業者」に僕は入るだろうし、どこかで宇野さんとも実際にそんな会話をした覚えもある。

 

ただし、僕は上記の文には、はっきりと同意することはできない。日本の音楽シーンやリスナーの感性が「貧しくなっている」とは僕は思わないし、もし仮にそうだとするならば、それはうねりのように様々な様相を示しながら流れていく時代、テクノロジーの進歩や情報の流路や、人々の価値観が少しずつ変わっていく必然の中で「その場所に立ったらそう見える」だけにすぎないのではないだろうか。

 

それでも、こう思う。

 

振り返れば、2010年代の前半のJ-POPを巡るムードは「拡散の時代」「グループの時代」だった。SNSの普及で情報の流れ方が「マス」から「多対多」に変容し、ポップの担い手は「個」から「集団」に移り変わった。

 

そして、ここ数年、ポップ・ミュージックは「死」を描いてこなかった。誰もが向き合うものでありながら、それはヒットチャートからは追いやられてきた。その理由は簡単で、孤独の中で噛みしめる思いは「みんなで声を合わせて歌う」アイドルグループや、ダンス&ヴォーカルグループのアートフォームにはそぐわないから。

 

しかし、宇多田ヒカルはずっと、そして今はなお一層、孤独だ。

アノーニ『ホープレスネス』が告発する「新しい戦争」

ホープレスネス

 

アノーニのアルバム『ホープレスネス』を聴いた。久しぶりに、身震いするような感覚を得る一枚。素晴らしい。

itun.es

 

まずはサウンド。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとハドソン・モホークがプロデュースしている。つまりは今のエレクトロニック・ミュージックの最先鋭を支える才能がタッグを組んだわけで、そりゃすごくないわけがない。ヒリヒリするような緊迫感と不思議なカタルシスが同居するような音が鳴っている。


そして歌声。すごく深くて、どこかスピリチュアルな崇高さを持った声の響きに心を揺らされる。ジェイムス・ブレイクとか、ボン・イヴェールとか、そのあたりの人たちに近い感触。

 

「アノーニ」というのはアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズとして活動してきたアントニー・ヘガティの新しい名前で、その中性的な響きはトランスジェンダーであることを公言している彼女のアイデンティと密接に結びついている。そういうバックグラウンドとも関係しているような気もする。


歌われていることのテーマもかなり刺激的。


リード曲「Drone Bomb Me」は、曲名通りドローン爆撃による悲劇を、被害者の目線からありありと描くリリックが歌う。

 

私の上にドローン爆弾を落として
山の向こうに吹き飛ばしてほしい
山の向こうの海の中へ
私をこの山腹から吹き飛ばして
頭をこっぱみじんにして
ガラスの内臓を爆破して
血まみれの私を草の上に横たえてほしいの

私の目がきらっとしてるのが見えるでしょう
私は死にたいんだと思う
あなたの目に留まりたいの 

 

 

しかしアルバム後半の「Crisis」で、同じ悲劇を今度は加害者の側から描く。

 

 クライシス

もし私があなたの父親を
ドローン爆弾で殺したら
あなたはどう思う?

 

 

「4 Degrees」は気候変動に対しての歌。これも加害者の視点だ。

 

私は見たい
この世界が煮えるさまを
気温が4度上がるだけでしょう

犬が水を欲しがって吠えるのを聞きたい
魚が腹を見せて海に浮かぶのを見たい
キツネザルやああいう小さな生き物たちが
灼けて死んでいくのを見たいの

たった4度上がるだけ!

 


ANOHNI - 4 DEGREES (Official Preview)


で、最後の「Hopelessness」から「Marrow」では、この絶望的な状況に、結局、一人のアメリカ人である自分自身も少しずつ加担しているという嘆きを歌う。


まさに「ホープレスネス」。気が滅入るような現実を歌い上げている。だけど、音楽の美しさと、彼女の歌声の響きがそれを浄化している。

 

今の時代の一番新しい形のブルーズだと思う。