日々の音色とことば

usual tones and words

「ポップの予感」第二回  音楽は予言だと、僕はいつも思っている。

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 とても示唆的な二つのトークセッションのモデレーターをつとめさせていただく経験があった。

 

 一つは、2月27日に幕張メッセで開催された「ライブ・エンターテイメントEXPO」内のセミナー。登壇したのは、亀田誠治さんといしわたり淳治さん。タイトルは「ヒットメーカー対談! 音楽シーンの現在、そして未来」というものだった。

 

 そしてもう一つは、3月16日に渋谷WWWと渋谷WWWXで行われたライブイベント「Alternative Tokyo」のトークショー。登壇したのは、その日にライブアクトとしても出演した近田春夫さんと曽我部恵一さん。こちらのタイトルは「ポピュラーミュージックの行方」というものだ。

 

 主催者もイベントの趣旨も全く異なるし、テーマ設定には僕は関与していなかったから、タイトルが似通ったものになったのは全くの偶然だろう。

 

 でも、そこには、単なる偶然だけじゃない巡り合わせのようなものがあるようにも思う。2019年の今、「○○の未来」とか「○○の行方」といった声を求める時代の空気というものがどこかに存在している気がする。

 

 その上で、とても面白かったのは、二つのトークセッションが、場所も客層もコンセプトも対照的なイベントで行われた、ということ。

 

 亀田誠治さん、いしわたり淳治さんが登壇した「ライブ・エンターテイメントEXPO」というのは、いわゆる業界向けのコンベンションだ。会場の幕張メッセには、ライブやコンサート、スポーツイベントなどの開催に必要な演出機材や各種サービスなどが出展され、商談ブースも用意されていた。いわゆる見本市のイベントで、セミナーの来場者にはレーベルやプロダクションなど音楽業界の関係者が多かった。

 

 一方、近田春夫さんと曽我部恵一さんが登壇した「Alternative Tokyo」は、その名の通り「オルタナティブ」をコンセプトに掲げたライブイベントだ。「商業的な音楽や方法論的な流行音楽とは一線を引き、時代の流れに捕らわれない普遍的な音楽を中心に、アート展示やトークセッション等を通じてそれぞれのコンテンツを紹介していく」というのがイベントのコンセプト。出演陣には、蓮沼執太フィル、トリプルファイヤー、折坂悠太、イ・ラン、カネコアヤノ、青葉市子、SONGBOOK PROJECTなどのメンツが並ぶ。近田春夫さんは「近田春夫+DJ OMB」名義で、曽我部恵一さんはこの日が初披露となる新プロジェクト「曽我部恵一 抱擁家族」名義での出演だ。こちらのラインナップには、いわゆるメインストリームとは違う、しかし独自の美学とポップセンスをもった面々がフィーチャーされている。会場にはメディアアーティストの市原えつこさんによる前衛的なアート作品も展示されていた。

 

 そういうこともあって、場のムードも聴衆の顔ぶれも全く異なっていたのだけれど、それでも二つのトークセッションは、必然的に共通したテーマを踏まえたものになった。それは「ストリーミングが前提となった状況において、音楽の作り手のスタンスはどう変わっていくのか」ということ。

 

 ストリーミングの普及による市場の拡大は、グローバルな音楽シーンにおいては、もはや既成事実となりつつある。ストリーミングからの収益が7割を超えたアメリカの音楽市場はここ数年続けて大幅なプラス成長を達成。90年代末から右肩下がりで減少を続けてきた世界全体の音楽市場も、2015年を境に回復期に入っている。その動きに遅れていた日本でも、昨年にはストリーミングによる売り上げがダウンロードを上回り、普及フェーズに入りつつある。

 

 そして、こうした状況においては、ヒットの基準は「売れた枚数」より「聴かれた回数」になる。複合型チャートであるアメリカのビルボードではストリーミングサービスの再生回数がランキングに大きく反映されるようになり、日本でも昨年12月からオリコンランキングがストリーミングサービスでの再生回数を織り込んだ合算チャートをスタートした。

 

 では、そのことによって、音楽はどう変わったのか。

 

 亀田誠一さんといしわたり淳治さんの指摘で印象的だったのは、「イントロ抜きでいきなり本題に入る」タイプの曲が増えている、ということだった。

 

 お二方には事前に「音楽シーンを象徴する曲」としてここ最近にリリースされた楽曲からいくつかピックアップし、その魅力を解説していただくというお願いをしていた。そこで亀田さんに挙げていただいたCHAI「アイム・ミー」、King Gnu「Prayer X」、米津玄師「Lemon」が、まさにそういう曲だった。いわゆる「サビ始まり」の曲構成とも違い、楽曲全体の核心を担うようなメッセージを印象的なメロディと共に冒頭から歌い上げるタイプの曲だ。

 

 また、いしわたり淳治さんの発言で印象的だったのは、「音楽から流行語が生まれてほしい」という言葉。挙げていただいた中では、ヤバイTシャツ屋さん「かわE」、DA PUMP「U.S.A」が、まさにそういう力を持った楽曲だった。

 

 また、二人の指摘で共通していたのが、コライト(共作)の重要性だ。日本ではアーティストによる自作自演が重視される傾向がある一方、海外では複数人が楽曲を制作することが当たり前のように行われている。「楽曲至上主義」の浸透が音楽シーンの未来を変えていくのではないか、という提言はとても意味のあるものだったと思う。

 

 一方、近田春夫さんと曽我部恵一さんのトークは台本も流れも決めないフリースタイルの形式。話題は、料理と音楽について、日本語の符割りとBPMについて、音楽に影響を与えた一番新しいテクノロジーの発明について(曽我部さんはオートチューン、近田さんはサイドチェイン・コンプと語っていた)など様々に広がったのだが、話はやはり「ストリーミングサービスの普及によって作り手のスタンスはどう変わったか」というテーマになった。印象的だったのは二人とも「多作」をキーワードとして挙げたこと

 

 振り返れば、近田春夫さんは昨年10月に38年ぶりのアルバム『超冗談だから』をリリースし、その発売からわずか49日後にOMBとのハモンドオルガン+テクノ・ハウスのユニットLUNASUNによるアルバム『Organ Heaven』をリリースしている。曽我部恵一さんのほうも、昨年4月にサニーデイ・サービスのアルバム『the CITY』を、12月には曽我部恵一名義の全曲ラップアルバム『ヘブン』をリリース。二人ともかなりのハイペースで作品を世に放ち、多岐にわたる形態でリリースを重ねている。とは言っても、その様子には切迫感や急いでいるような感じはなく、シンプルに「やりたいことが沢山あって、それを自由にアウトプットできるようになった」という風通しのよいムードがあるのが、とても印象的だった。

 

 音楽シーンは、過渡期の状況にある。

 

 そして、平成から次の年号へと移り変わろうとする今、日本の社会全体にも、大きな変化の機運がある。

 

 僕が普段からインタビュー取材で会っているアーティストたちも、口を揃えて言う。価値観は驚くべき速度で変わっている。ほんの少し前までにはオーケーだったことが、今では許されなくなってきている。逆に、昔だったら声を上げようとしても押し殺さざるを得なかった思いが、少しずつ、認められるようになってきている。

 

 音楽は予言だと、僕はいつも思っている。

 アーティストや作曲家や作詞家たちは、時代の風向きにアンテナを張り、自分の内側にある感覚を研ぎ澄まし、どんな歌が求められ、どんな歌が遠くまで響いていくのかを手探りで追い求めている。

 

 それに対し、ヒットという現象は、いつも事後的な形として現れる。もっともらしい後付けの説明は誰にでもできるが、結局のところ、それは結果論にすぎない。

 

 だからこそ、亀田誠一さん、いしわたり淳治さん、近田春夫さん、曽我部恵一さんといった第一線の作り手の方々に話を聞けたのは、とても刺激的な体験だった。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年4月4日 公開)

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望月優大『ふたつの日本』と、移民家族の歌としてのキリンジ「エイリアンズ」

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)


■これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話

望月優大さんの新刊『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』を読んだ。

 

いろんなことを考えさせられる、とても興味深い本だった。

 

本の内容は、タイトルのとおり、「いわゆる移民政策はとらない」というスタンスを取り続ける政府の“建前”と、労働力を求める企業の“現実”によって引き裂かれ、在留外国人たちが複雑な立場に置かれ続けている日本という国の構造を精緻にルポルタージュしたもの。本文にはこんな風に書かれている。

 

日本で暮らす外国人は増えている。人工の2%といえば先んじる欧米などの移民国家に比べてまだまだ少ないが、確実にその数も、割合も増え続けている。そして、政府が急いで「特定技能」の在留資格新設へと走ったことからもわかるように、今後もしばらくその趨勢は変わらないだろう。「日本人」は減っていく。そして「外国人」は増えていくのだ。自然にそうなったのではない。「日本人」がそうする道を選んだのである。

 

本の中ではグラフや数字がふんだんに用いられ、在留外国人たちの出身国や、立場や、その変化が、わかりやすく綴られている。

 

そのうえで、僕が感銘を受けたのは、本の前半に書かれたこの一節。

 

このあと出身国や在留資格など様々なカテゴリーごとに整理した数字の話が続くが、そこでカウントされる「1」というのはあくまで一人の生身の人間のことである。そのことを念頭に置きながら記述することを試みたし、ぜひ一人ひとりを想像しながら読んでいただけたら嬉しい。 

 

望月優大さんはウェブメディア「ニッポン複雑紀行」の編集長をつとめ、実際に、日本で暮らす様々な立場の在留外国人、つまり「一人の生身の人間」の話を聞いて記事にまとめている。だから、この一節に、とても強い説得力がある。

 

www.refugee.or.jp


そして読み終わって痛感するのは、最後の一文に書かれている通り、これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話である、ということ。

 

つまり、自分の生活の中で「出自の異なる人間」との交わりが増えていくことがわかっているこの現状に対して、さあ、どう生きていきますか?という問いがつきつけられている、ということだ。

 

で、もうひとつ思うのは、もし自分自身が「私たち」ではなく「彼ら」だったら、という想像力の問題について。

 

僕自身は日本で生まれて日本で暮らしている。だから移民という現実に当事者として向き合う機会は少ない。

 

だけど、もうちょっと広い意味での疎外感、英語で言う「alienation」の感覚には、すごく身に覚えがある。

 

たとえば、カミラ・カベロの「Real Friends」という曲がある。カミラ・カベロはキューバ出身、ラテン系のルーツを持つ現在21歳の女性シンガー。彼女はまさに移民の当事者だ。去年のグラミー賞でも「希望以外詰まっていない空っぽのポケットで私をこの国に連れてきてくれました」と、キューバとメキシコにルーツを持つ両親のことを語る感動的なスピーチを披露した。ヒット曲「Havana」は、「私の心の半分はハバナにある」と、親の故郷を思う曲。

 

www.youtube.com

 

そして「Real Friends」は、そのタイトルの通り「本当の友達がほしい」と月に語りかける、とてもエモーショナルな曲だ。

 

www.youtube.com

 

I'm just lookin' for some real friends
(本当の友達を探してる)
Gotta get up out of this town
(たぶん、この街を出なくちゃいけない)
I stay up, talkin' to the moon
(夜遅くまで起きて、月と話してる)
Been feelin' so alone in every crowded room
(みんながいるのに、とても孤独)


僕はキューバに行ったことはないし、アメリカでラテン系の移民として暮らすというのがどういう現状なのかは、わからない。でも、想像力を働かせることはできる。彼女が歌う「みんながいるのに、とても孤独」という感情を、歌を通して受け取ることができる。僕はそういうところにグッとくる。

 

『ふたつの日本』の本の冒頭には、ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』と、ゲーテ『ファウスト』と、魯迅『故郷』の引用がある。そこにグッとくるのも、まったく同じ理由だ。

 

放浪の生涯を通じて、彼はかつてただの一度もある特定の場所を自分の故郷として意識したことはなかった。というより、彼にとっては特別な場所などありはせず、どこへ行っても、そこが故郷と思えばそれで満足だったのだ。ところが、月面に立って地球を見た途端、ハントは生まれてはじめて、故郷を遠く離れていることを強く意識した。
ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(池央耿訳)

 

これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話である。

 

そのことには、もう一つの含意がある。ひょっとしたら「疎外されている」のは、「彼ら」だけじゃなく「私たち」も一緒なのではないか、という問いだ。外国人労働者が増えると同時に非正規雇用が増えたのが、平成という時代の30年間の変化だ。

 

社会が個人を「取り替え可能」なパーツとして扱う潮流が前面化している。そんな中で、自分自身は運良く「日本国籍を持った日本生まれの人間」のコミュニティと、そういう人たちにとって都合よくデザインされた社会システムの中にいるから気付かないだけで、ひょっとしたら、同じ変化の波にさらされているのではないか、と。

 

そういうことまで考えさせられる一冊だった。

 

■視点が変わると、見えるものがガラリと変わる

 

そして、ここから本題。

 

この本を読みながら、ふと聴いたキリンジ「エイリアンズ」。とても好きな曲なんだけれど、『ふたつの日本』という本と、そこから感じ取ることのできるエイリアネーションの感覚をもとに聴くと、歌詞にまったく違う意味を読み解くことができるのだ。正直、これがこの本を読んだ最も大きな収穫だった。


キリンジの「エイリアンズ」は、2000年のアルバム『3』に収録された彼らの代表曲。リリースされた当初こそ大ヒットしたわけではなかったが、秦基博や、のんや、沢山の人にカバーされ、歌い継がれている。

 

www.youtube.com


ここに書かれているのは、なんてことのない郊外や地方都市の風景。どこにでもある、何もない場所。二人の出身地である埼玉県が、そのイメージの源泉になっているという。

 

以前NHKの番組『ソングライターズ』に出演したときに、作詞した堀込泰行は「日本の街並みの大半は絵にならないけれど、それを写真のようにフォーカスをあてて絵にすることで、ドラマチックになると思って書いた」というようなことを語っている。

 

で、この「エイリアンズ」。たぶん、恋人同士のラブソングだと捉える人がほとんどだと思う。僕もそう思っていた。

 

だけど、『ふたつの日本』を読んで、これを「移民家族の歌」という視点から捉えると、見えるものがガラリと変わる。

 

「エイリアンズ」の主人公の「僕」を、日本にやってきて郊外や地方都市に暮らす外国人労働者に見立てると、歌の意味がまるで変わってくる。どことなく洒落た、キザにすら感じられる言い回しが、すべて反転して、とても切実で感傷的な内容になる。

 

遥か空に旅客機(ボーイング) 音もなく
公団の屋根の上 どこへ行く
誰かの不機嫌も 寝静まる夜さ
バイパスの澄んだ空気と 僕の町 

 

たとえば、この歌い出し。公団の屋根の上、見上げた夜空に旅客機の光が見えるという描写。旅客機に「どこへ行く」と問いかけるのは、それが自分をこの場所に連れてきた乗り物だからだ。「誰かの不機嫌も寝静まる夜さ」というフレーズも、主人公の「僕」が、日常的に「誰かの不機嫌」に相対してきたことを思わせる。

 

泣かないでくれ ダーリン ほら 月明かりが
長い夜に寝つけない二人の頬を撫でて

笑っておくれ ダーリン ほら 素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで

 

Bメロで歌われるこのフレーズも、「ダーリン」というのを主人公の「僕」の恋人ではなく、その娘や息子と捉えると、歌の情景がまるで違ってくる。家族の歌になる。

 

「泣かないでくれダーリン」というのは、ひょっとしたら夜泣きの止まない幼い赤子を連れ、壁の薄い公団のアパートを抜け出て、近所迷惑にならなさそうな人気のないバイパスを歩いているときの情景かもしれない。「僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで」というのは、ひょっとしたら、ある種のエスニックジョークのことなのかもしれない。

 

サビではこう歌われる。

 

まるで僕らはエイリアンズ 禁断の実 ほおばっては
月の裏を夢みて キミが好きだよ エイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ いいかい

そうさ僕らはエイリアンズ 街灯に沿って歩けば
ごらん 新世界のようさ キミが好きだよ エイリアン
無いものねだりもキスで 魔法のように解けるさ いつか

 

そうすると、ここで歌われている「キミ」も、恋人ではなく、主人公の「僕」の家族ということになる。この視点で読み解くと、「エイリアンズ」という言葉は、一番では「異星人」という比喩の意味で、そして二番では「外国人」「市民権をもたない人」という言葉そのままの意味で歌われている、と読み解ける。

 

こうして「エイリアンズ」という曲を「故郷を離れ日本の郊外や地方都市で暮らす異邦人の家族の歌」と捉えると、「この星のこの僻地で 魔法をかけてみせるさ」とか「街灯に沿って歩けば ごらん 新世界のようさ」といったフレーズが、ロマンティックに洒落たレトリックではなく、ものすごく地に足の着いたリアリティをもって響いてくる。


曲の最後には、こんなフレーズが歌われる。

 

踊ろうよ さぁ ダーリン ラストダンスを
暗いニュースが日の出とともに町に降る前に


そして『ふたつの日本』には、こんな記述がある。

 

これまで数多くの移民を受け入れてきた欧米の先進諸国でこそ、経済停滞や人々の不安を移民の存在へと投影することで、デモクラシーの中で自らへの支持を集めようとする政治勢力が一つ、また一つと台頭を始めている。

アメリカでも、イギリスでも、フランス、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ポーランド、オーストリアでも、欧米の先進諸国で台頭するほぼすべての「ポピュリスト」たちが「移民」を自らの主要な論点としてきた。

「移民」の排除はもはやニッチではないのだ。排外主義的な言説はいまや「選挙で勝てる」一つの王道的な戦術となり始めている。

(中略)

「移民の時代」においてはデモクラシーが包摂ではなく排除の手段となりつつある。そして、私が本書を書く理由は、日本もすでに「移民の時代」に突入しつつあることを認識し、デモクラシーを排除の手段としない道を考えるためだ。この社会の中で、自分を社会の一部と感じられない人を取り残さないためでもある。前からいた人も、新しく来た人もである。 

 

4月1日には、改正入管法が施行された。

 

2019年の今、「暗いニュースが日の出とともに町に降る前に」という一節に、約20年前にこの曲が書かれたときにはきっと想定もしていなかっただろう含意を読み解ける時代になってしまった。

 

そのことを踏まえて考えると、「エイリアンズ」という曲に、とても痛切な叙情を“発見”することができる。そして「無いものねだりもキスで 魔法のように解けるさ いつか」というサビのフレーズに、とても大きな希望を見出すことができる。

 

もちろん、これは一つの深読みにすぎない。でも、沢山の歌い手に歌い継がれる射程の広いポップソングは、こんな風に、いろんな角度から語り継がれてもいいんじゃないかな、とも思う。

「ポップの予感」 第一回 グラミー賞から見えてくるアメリカの未来

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「壁ではなく橋を作ろう」

 

鮮やかな黄色のドレスを身にまといカミラ・カベロが妖艶に舞いながら「ハヴァナ」を歌った第61回グラミー賞のオープニング。ゲストに参加したリッキー・マーティンが隣で腰を振って場を盛り上げ、さらにその横でベンチに腰掛け新聞を広げて読みながら登場したJ・バルヴィンの、その新聞の一面に書かれていたのが、この言葉だった。

 

ビルド・ブリッジズ・ノット・ウォールズ。

 

 もちろん、これは、トランプ政権が国家非常事態宣言を出してまでメキシコとの国境に「壁」を建設する計画を進めていることを踏まえた言葉だろう。カミラ・カベロ、リッキー・マーティン、J.バルヴィンというラテン系のシンガー3人が集ったパフォーマンスだからこそ、隠されたメッセージとしてこれを忍ばせておいたということもあるんじゃないかな。

 

 東ハヴァナ生まれでキューバとメキシコにルーツを持つ21歳のカミラは、昨年のグラミーでも移民に関してのスピーチをしていた。「夢だけをポケットに詰め込んでこの国へ渡ってきた」という両親への感謝を告げ、「この国は夢見る人々によって築かれてきた」と語っていた。もちろん、そのことも伏線になってるはず。

 

 アメリカのポップ・ミュージックの動向を見ていて本当に面白いのは、グラミー賞というメインストリームのど真ん中の舞台で、こういうことがたびたび行われるということ。それは社会的なメッセージを持った楽曲やパフォーマンスが繰り広げられる、というだけの意味じゃない。

 

 そこには「アメリカという国を定義する」ことが強いメッセージ性を持って響き、その強度がポップ性につながる、という回路がある。「年間最優秀レコード」「年間最優秀楽曲」の主要部門2冠を達成したチャイルディッシュ・ガンビーノの「ディス・イズ・アメリカ」も、まさにそういう楽曲の代表だ。

 

今年のグラミー賞は、ダイバーシティとインクルージョン、すなわち「多様性」と「包摂」が大きなテーマだった。特に、アリシア・キーズが司会だったり、冒頭でミシェル・オバマがスピーチしたり、ジャネール・モネイやカーディ・BやH.E.R.が鳥肌モノのパフォーマンスを見せたりと、女性の活躍が目立つ授賞式だった。

 

 もちろんこれは昨年の反省だろう。グラミー賞を主宰するレコーディング・アカデミーのニール・ポートナウ会長は、昨年のグラミー賞で女性のノミネートが少ないことを指摘され「女性は音楽業界でもっとステップアップする必要がある」とコメント。大きな批判を巻き起こした。その批判を踏まえてノミネートや投票や授賞式の構成をどうアップデートするかがグラミー賞のテーマになっていた。

 

 今年、最優秀新人賞を受賞したデュア・リパが「今年、私たちはとてもステップアップしたと思います」とスピーチしたのは、これを踏まえてチクリと言ってやった、ということでもあると思う。ちなみに、ニール・ポートナウ会長は今年で辞任することが決まっている。

 

 また、その一方で、グラミー賞の授賞式に「いなかった」側から見えてくるものもある。特に今年は「主役不在」の印象も強かった。

 

 何よりチャイルディッシュ・ガンビーノの不在が大きかった。事前にパフォーマンスを打診されていたドレイクとケンドリック・ラマーも出演を辞退し、直前まで交渉が続いていたアリアナ・グランデも授賞式のプロデューサー、ケン・エールリッヒに「クリエイティビティと自己表現を踏みにじられた」と出演をキャンセル。特にリリースされたばかりのアルバム『サンキュー・ネクスト』が記録的なチャートアクションを巻き起こしている最中、アリアナ・グランデがどんなパフォーマンスを見せてくれるかは本当に楽しみだったので、とても残念だし、ケン・エールリッヒは何らかの責任を負うべきなんじゃないかなって思ってしまう。

 

 チャイルディッシュ・ガンビーノやアリアナ・グランデが授賞式自体を欠席した一方で、ドレイクは授賞式には参加していた。ただ、スピーチで「君が作った曲を口ずさんでくれるファンや、仕事で一生懸命稼いだ大事な金でチケットを買って、雨の中でも雪の中でもライブに駆けつけてくれるファンがいるなら、こんなトロフィーなんて必要ない」と、グラミー賞自体を批判するコメントをして、しかもそれが途中で切られてCMに入ってしまうなど、波紋を呼ぶ場面もいくつかあった。これまで受賞確実と見られていたビヨンセ『レモネード』やケンドリック・ラマー『DAMN.』が主要部門で受賞していなかったこともあって、ヒップホップ・コミュニティとグラミーの溝は深かったのだけれど、それが改めて示された場面でもあった。

 

 こうやってグラミー賞の授賞式を見ていると、いろんなことがわかってくる。賞レースの行方はニュースを見ればわかるけれど、パフォーマンスとか、スピーチとか、いろんなディティールに込められたものから、アメリカ社会の今と、その向かおうとしている先が浮かび上がってくる。

 

 音楽は予言だと思う。

 

 最近になって、特にそう考えることが増えてきた。

 

 自分が子どもの頃は、ポップソングは政治や社会と関係ないものだと思っていた。わかりやすく、毒がない、誰もが安全に共感できる甘いラブソングのような音楽が、ポップ、すなわち大衆性の象徴だと思っていた。で、その一方に反抗の象徴としてのカウンターカルチャーがあると思っていた。

 

 だけど、今のアメリカを見てると、その印象はかなり違ってきている。メインストリームのポップソングこそ、むしろ、ジャーナリスティックに時代の姿を反映している。そこに説得力や迫力が宿ることで、エンターテイメント性と大衆性が生まれる。そういうメカニズムが駆動するようになってきている。

 

そして、カウンターカルチャーというものの形も変わってきているように思う。単に反抗や風刺を示すだけでなく、未来のあるべき姿を提示して社会をリードする役割を担うような表現が増えてきたように思う。政治への「カウンター」と言うより、ポップカルチャーの側に社会を変える力が宿っていることを自覚しているような表現、というか。

 

 チャイルディッシュ・ガンビーノにしても、グラミーを受賞した「ディス・イズ・アメリカ」よりもさらに示唆的だったのは、昨夏の「フィール・ライク・サマー」だった。けだるくメロウな曲調の、よくあるサマーソングかと思いきや、テーマは気候変動。つまり、夏でもないのに「まるで夏みたいに感じる」と繰り返す曲。サビでは「世界が変わってくれることを祈っている」と歌う。

 

 2016年からの3年間で、アメリカという国は、ずいぶん変わった。今年に入ってからも状況は刻々と動いている。

 

 たとえば、1月に「史上最年少の女性下院議員」となったアレクサンドリア・オカシオ=コルテスの躍進と、彼女が巻き起こしている現象は、その象徴と言っていいと思う。ヒスパニック系で、女性で、現在29歳。選挙区は地元のニューヨーク州ブロンクス。前回の大統領選ではバーニー・サンダースの選挙運動に携わっていたキャリアの持ち主。ただ、ほんの少し前まではウェイトレスやバーテンダーの仕事をしていた経歴を考えれば、現職の重鎮を破っての当選は大番狂わせだった。

 

 プエルトリコにルーツがありスペイン語圏にアクセスすることで支持を拡大した彼女の存在感はカミラ・カベロを思い起こさせるし、掲げている政策の「グリーン・ニューディール」は、チャイルディッシュ・ガンビーノの「フィール・ライク・サマー」と通じ合うものがある。

 

 2020年には次の大統領選が行なわれる。そこで再び大きな変化が起こりそうな気がする。

 

 この連載では、こんな風に、僕がポップ・ミュージックや、それを巡る状況から感じた「予感」について、書いていこうと思ってます。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年2月27日 公開)

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