高木正勝のコンサート「タイ・レイ・タイ・リオ」。とても美しく、そして神秘的な一夜だった。
タイ・レイ・タイ・リオとは、「波のように大きく振れ、小さく振れ」の意。高木正勝のピアノを中心に、2人のパーカッション、3人のヴォーカル、ジプシー・バイオリン、イーリアンパイプなどを加えた10人のプレイヤーからなる演奏陣が、静かにステージに姿を現す。彼らが鳴り響かせる音楽は、ときに荒波のように激しく、ときに囁きのように静かで、どこの地にも属していないフォークロアを思わせた。
彼自身の手による映像には、ゆらめく光のような綺麗さと、ときにグロテスクなほどの荒々しい野性味とが宿っていて、鳥肌が立つような思いをさせられた。特に本編の最後に流れた「NIHITI」には“生命”と“誕生”のイメージが色濃く宿され、思わず引き込まれるように見入ってしまった。
誰も知らない所に、一瞬でもいいので皆で辿り着ければ、それで本当にいいと思っています。
準備をしながら思ったのは、自分が思っている自分の表現の仕方だとか、そんな個人的な事はひとまず置いておいて、お客さんのこともひとまず置いておいて、何か自分を自分たらしめてくれているものに捧げるような気持ちで取り組めば、スッと落ち着く所に落ち着くものだなと、そう思いました。
これは、会場で配られたパンフレットに書かれた彼の言葉。共演者やスタッフに向けたメールから抜粋したものという。
そういえば、以前に彼にインタヴューしたときも、「自分がどんな人間であるかなんて、人に見せるものじゃない」と語っていた。彼にとっての表現とは、多くのアーティストがそうであるような“自己の内面をさらけ出す”という動機とは全く異なったところから生まれてくるのだろう。むしろ、見えないものを見ようとする探求精神が、そのまま音や映像を生み出しているのだと思う。
そういう、なにか本質的なもの、根源的なものに辿り着こうとしている彼の手探りの素振りが、そのまま生命力となって迸っているようなステージだった。
そういえば、以前話をしていた「神様をテーマにした映像」は、この日は上映されなかったな。もう完成しているのだろうか。こちらも是非観たいと思っている。
「今は神様をテーマにして映像を作っています。とは言っても、必ずしも映像に神様が出てくる必要はない。仏像の前に立ったときのように、それを観て背筋が伸びるような、見透かされているような気分になりさえすればいい。仏像の代わりになるような映像を作りたいんです。それを、あれこれ学びながらやっています」
「まだ制作の途中ですけれども、作ってるうちに、神話や仏像や、絵の禍々しさや、そういうものの接点が見えてくる。繋がりがわかってくる。今は『そこから先に何があるのかを見たい』という気持ちで作っているところです」
(2月28日発売、『papyrus』vol.17掲載インタヴューより)