日々の音色とことば

usual tones and words

野田洋次郎「新しい時代の入り口で思うこと」について

僕が見せようとしていたことを、あの大地震がもっと大きなインパクトで実際に見せてしまったんです。

野田洋次郎は、アルバム『絶体絶命』とそれを受けた全国ツアー『絶体延命』後に初めて行われたインタヴュー(『papyrus』10月28日発売号・特集「新しい時代の入り口で思うこと」に掲載)で、そう語った。

2011年.様々なミュージシャンや表現者が、震災と津波による大きな被害を受けて作品を発表した。復興を支援すべく被災者を勇気づけようとする表現も、原発事故に端を発する分断に怒りを顕にするような表現もあった。でも、あの地震についてこういう言葉を語る人は、他に見なかった。少なくとも日本の音楽シーンにおいては。震災そのものに対して表現者としてジェラシーを感じたともとれるような発言を語るのは、とてもリスクの大きいことだ。けれど、今年の2月に発表された“狭心症”の歌詞とミュージックビデオの内容は、その発言に強い説得力を与えている。

RADWIMPSは東日本大震災の2日前の3月9日に『絶体絶命』というアルバムをリリースしている。その盤面には暗号のように「SOS」のモールス信号が刻まれ、そしてその後に「絶対延命」というタイトルの全国ツアーがスタートすることも、アルバムのリリース時には報じられていた。まるで予言のようだと僕はあの時、思った。

僕があのアルバムで見せたかったのは、あくまで平和ボケした、何の保証もないところに成り立っている絶対的な安心感への問いかけだったんです。戦争から60年以上経って、何かが淀んでるのに、必死で隠して、澄んだ空気の中で生きてるような顔をしている。

“狭心症”の歌詞に描かれた「1が1であるために/100から99を奪って生きてる」という言葉が指し示すのは、日本だけの問題ではない。チュニス、トリポリ、カイロ、フクシマ、ロンドン、ニューヨーク。2011年1月にチュニジアで起こったことの発火点になったのは、広場で無許可で果物を売ろうとしただけで警察に暴行を受けた名も無い若者の焼身自殺だった。8月にロンドンで起こった暴動の背景には、中間層と低所得者層の間の「鬱屈と絶望がクロスカウンターする構造」があった。ウォール街には「我々は99%だ」とボードが掲げられ、したり顔のブロガーが「先進国生まれという既得権益を守るためのデモ 」とこき下ろす一方で、エジプト革命の当事者がデモの支援を表明した。

勿論、各地で起こっていることを繋げて考えるのは無理やりにすぎるかもしれない。それぞれ位相も社会状況も目的も違うし、共通点もない。けれど、あえて飛躍させて考える。「何かが淀んでるのに必死で隠して、澄んだ空気の中で生きてるような顔をしている」ことの歪みが、噴出しているんじゃないかという気が、強くする。

これから必要なものは、まず、誰のせいにもできない絶対的な意志だと思います。「誰かがこうって言ってたから」じゃなくて、自分だけの絶対的な意志。
(中略)
今まではマジョリティに流れるほうが正解だったと思うんです。「こっちのほうを選ぶ人が多いから」という判断基準が大きな意味を持っていた。でも、これから、その正解は正解で無くなっていくと思うし、僕はそれでいいと思っています。
(中略)
ひょっとしたら、マジョリティを信じる人は、誰のことも信じてないのかもしれない。マジョリティというのは、結局誰のことでもないから。だから、あやふやなものに乗っかってしまうのかもしれない。

野田洋次郎はインタビューの中で、こう語っている。マジョリティに加担するという選択は、そもそもが「保証のないところに成り立っている安心感」でしかなかった、ということなのだろう。僕の見立てでは、何かを信じることではなく、何かをこき下ろしたり非難するような時にこそ、その「安心感」は立ち上がる。何故なら、そうする時には自分自身の当事者性を後ろに隠すことができるから。ワイドショーのコメンテーターの「政府はもうちょっとしっかりしてもらいたいものですね」も、2chまとめサイトの「マスゴミはクソだ」という書き込みも、同じ位相を持っている。(一部の)脱原発を叫ぶ人の「東電がすべて悪い」も。


これまでは、みんな一つの前提を共有しながら生きてきたと思うんです。日本人という文化の中で、先進国という環境で、安全・安心のもとに普通に生きていくことができた。でも今は、これからについて予測がつかない。だから、みんな正しさが欲しくてしょうがないんだなって感じますね。でも、何が正しいかなんて今が歴史にならないと証明できないし、歴史の教科書だって何年に一回か変わってしまうわけだし。正解が変わっていくことに、怯える必要はないんじゃないかなと思う。

いま僕が危惧しているのは「排除」の問題で、それは、排除や差別などの社会的暴力は、いつも不安の裏返しとして具現化してきたからだ。危険厨と安全厨のどちらが正しいかなんて興味はないけれど、失われつつある同質性がもたらす「みんな正しさが欲しくてしょうがない」という欲求の行き先は、凶悪な力を呼び覚ましかねない。そのことは強く危惧する。

これから社会がどうなっていくのか――。誰か一人ヒーローがあらわれて、すべてを解決するような予感は一切ないです。あなたは世界を変えられないかもしれない。あなた一人じゃどうにもならないかもしれない。残酷かもしれないけれど、それをちゃんと伝えてあげる必要はあると思う。でも、あなたのすぐ隣にいるたった一人の人間なら、あなたの力で変えることはできるかもしれない。たった一人の連続で世界ができているということを、もっと言っていいと思う。

もはや「正しさ」に依存することはできなくなった。わかりやすい悪役や、わかりやすいヒーローのような〈外部〉にそれを仮託することはできなくなった。でも、「怯える必要はない」。久しぶりに聴き返したアルバム『絶体絶命』、特にラストに収録された“救世主”は、そういうことを奏でているようにも聴こえた。



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