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日々の音色とことば

もう言い忘れないために、書いていきます。

SMAP解散の「真相」と「本当」について

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

 

■「関係者」が語るもの

 

今日はSMAPの解散を巡る「真相」と「本当」の話。

 

と言っても、僕が何かを知ってるわけじゃない。事情通みたいな話をしたいわけじゃない。むしろその逆だ。

 

そういう話は、スポーツ新聞とか週刊誌とかネットメディアに山ほど載っている。そして、それを見ると、どのスタンスで書かれた文章でも同じ「書かれ方」をしている。というのも、ほとんどが「芸能記者」とか「事務所関係者」とか「テレビ局関係者」とか「知人」みたいな匿名の内部者がコメントし、それを元にストーリーを組み立てる構成になっている。それをもとに、何があったのか、誰と誰との関係がどうなのか、事務所は、元マネージャーはと、いろんな内幕といろんな思惑が語られている。

 

で。ざっと記事は見たけど、それ以上読む気がしなくなってしまった。なんだか、「関係者」って、そもそも一体なんなんだろう?って改めて思ってしまったのだ。

 

メンバーの言葉は届けられない。最初に発表されたコメントはあったが、それが話したものなのか、書いたものなのかさえ判然としない。その一方で情報が奔流のように届く。たとえば中森明夫さんは「天皇陛下が生前退位のお気持ちを、国民に向けて映像と肉声で語られたというのに、SMAPにはそれすらない」と指摘している。

 

dot.asahi.com

 

これは1月に書かれた記事だけれど、津田大介さんも「一部を除く芸能マスコミは軒並み情報源をぼかし、結果的に事務所の情報コントロールに加担した」と指摘している。特にスポーツ新聞のような媒体において、事務所関係者という匿名の情報源」の伝えたいメッセージを発言者の「コメント」ではなく「地の文」で書かせる手法が横行していたと言う。

 

digital.asahi.com

 

そういうメディア環境のなか、スポーツ新聞も週刊誌も「SMAP解散の真相」という見出しの記事を連発している。繰り返しになるが、どれも匿名の「関係者」が語ることをもとに、これが真実だ、これが真相だとストーリーが組み立てられている。メディアリテラシーが試されている。

 

僕が思うのは、そもそも「真相」って何だろう?ってことだ。そこに「本当」はあるのだろうか?

 

■「ロックンロールは鳴り止まない」としての「SMAPは終わらない」

 

 

そんな中で、献本いただいた『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」 』を読んだ。『ジャニ研! ジャニーズ文化論』の著者の一人でもある矢野利裕さんの新著。

 

 

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

 

 

 

批評の鋭さと、思いの強さが文章の根底に流れている一冊だった。ただ、この本の発売一週間後にSMAPの解散が報じられ、よくも悪くも話題を集めるタイミングでの刊行になった。

 

アマゾンのレビューには現時点でこんな評が並ぶ。一目見ればわかるが、本の中身を一行たりとも読んでないだろうことがまるわかりの感想だ。たぶんタイトルを見て一言何か言いたくなっただけなのだろう。

 

 

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しかし、この本の題名の「SMAPは終わらない」という言葉が意味するものは、「きっとSMAPは解散しないはず」という見込みのようなものとは全く異なる。それは少しでも内容を読めばわかる。

 

「SMAPは終わらない」という言葉には、「パンク・イズ・ノット・デッド」とか「ロックンロールは鳴り止まない」とか、そういった言葉と近いニュアンスが込められている。

 

SMAPを「アイドルに自由と解放の気分をもたらしたグループ」と位置づけ、実質的には1月の謝罪会見の時点でその「SMAPらしさ」は失われてしまった、とするのが本書の論点だ。そして、タイトルには、たとえグループが解散したとしてもその存在が持つロマンは決して失われないだろうという願いが謳われている。

 

■SMAPというグループの「本当」はステージの上にある

 

著者の矢野利裕さんの立場は一貫している。この本の「はじめに」で語られているのは1月の報道と『SMAP×SMAP』での謝罪会見を受けてReal Soundに掲載されたコラムだ。

 

realsound.jp

 

以下引用する。 

 

芸能の本義は、常人とは異なる身体性を用いて、日常とは異なる空間を演出することだ。僕たちは、だからこそ、歌や踊りや笑いに触れることで、ほんのつかのま、社会のしがらみから解放される。かつて、ブロードウェイ・ミュージカルに魅了され、美空ひばりの舞台に感銘を受けたジャニー喜多川は、そのことをいちばん知っていたのではなかったのか。ジャニーズ事務所は、そういう日常から解放されるようなステージングを、なにより目指していたはずではなかったのか。だったら、ほかならぬ芸能‐人を、ああいうかたちで、社会のしがらみの最前線に立たせてくれるなよ。

(中略)

もし希望があるとすれば、それでも芸能は社会を越えてくる、ということだ。あらゆる社会的な困難にあるときこそ、歌と踊りと笑いが必要とされる。芸能は最後の最後、社会を越えてくると信じている。

(中略)

社会のしがらみに巻き込まれたSMAPが、「正直」に話ができないことくらい分かっている。しかし、芸能‐人にとっての「正直」さとは、あの、歌って踊る身体に他ならない。だから、社会のしがらみとはまったく別の水準で、芸能‐人としての「正直」さこそを早く見せて欲しい。

 

  

上に引用したとおり、矢野利裕さんはSMAPの「歌って踊る身体」「歌と踊りと笑い」に強い価値を置いている。「本義」や「正直」という言葉を使って、それを表現している。

 

すなわち、SMAPというグループの「本当」はステージの上にある、というのが矢野利裕さんのスタンスの根底にある価値観だ。それは匿名の関係者のコメントから「真相」を解き明かせるとする週刊誌やスポーツ新聞やネットメディアの立場とは真っ向から相反する。

 

なので、騒動の「内幕」のようなものは本には一切書かれない。本の目次は以下のようになっている。

 

はじめに

第一章 SMAP的身体論

第二章 Free Soul : the classic of SMAP――SMAPを音楽から考える

ゲスト:橋本徹(SUBURBIA)、柳樂光隆(Jazz The New Chapter)

第三章 SMAPがたどった音楽的変遷~触れておくべき8タイトル~

第四章 世界に一つだけの場所・にっぽんのアイドル論

ゲスト:中森明夫(作家/アイドル評論家)

 

 

大部分を占めているのは、SMAPのヒストリーを音楽から辿る論考だ。橋本徹さん、柳樂光隆さんとの鼎談で、90年代のクラブカルチャーとの親和性が示される。そして中森明夫さんとの対談では、アイドル文化と文学、社会、芸能、つまりは今の日本を巡る様々な状況の象徴としてのSMAPの存在が批評的に語られる。

 

 

僕は矢野利裕さんのスタンスに心底同意する。

 

もちろん、芸能の世界に「思惑」や「事情」や「しがらみ」があるのは誰にだってわかる。様々に絡み合うそれが物事を動かしているのだって承知している。でも、「歌って踊る身体」の持つ根源的な力に比べたら、そんなことは(わりと)どうだっていい。

 

カルチュラル・スタディーズの古典である、ディック・ヘブディッジ『サブカルチャー』は、まさに記号分析的な手法でパンクやモッズなどを批評していきました。というかそもそも、ロラン・バルトが『神話作用』のなかで最初におこなったのはプロレス分析ですよね。冒頭に「レスリングのよさは、度を越えた見世物であることだ」と書かれていますが、ようするに「見世物」なわけですよ。見世物においては、そこで演じている人がなにを思っているかとか、事実としてどうであるかとかとは別に、それを見ている観客にどういう意味作用・神話作用が起こるか、ということが重要です。ヘブディッジもバルトを参照していました。ジャニーズなどのアイドルやいわゆる芸能人というのも、見世物として人前に出ていく存在です。人前に出たとき、その人が何を考えているかとは別に流通していく記号や表象というものがあって、その分析は当然されるべきだと思います。いやむしろ、記号や表象としてこそ残っていくものがあるだろうし、芸能に生きる人というのは、そういう記号的な存在であることを引き受けている人なのだ、という感覚が個人的にはあります。

(『SMAPは終わらない』より引用)

 

たとえそれがどれだけ真相に近いものであったとしても、「匿名の関係者が語る裏事情」なんかより、「ステージの上」にこそエンタテインメントの「本当」がある。僕もそう思う。

 

2016年は、たぶん一つの時代の変わり目になる年なんだろう。SMAPだけでなく、いろんな事象がそれを象徴している。

 

何かの地殻変動が明示的に起こっているときには、僕はいつも、それが後から振り返ったときに「結果的にはよいターニングポイントになったのかもしれないね」と語られるような変化になることを願っている。

 

サニーデイ・サービスの新作が常軌を逸している

DANCE TO YOU

 

 

サニーデイ・サービスのニューアルバム『DANCE TO YOU』を、リリースされてから繰り返し聴いてる。すごくよい。最初はピンと来なかったんだけど、何度か聴くうちにどんどんハマってきた。その「よさ」の輪郭がクリアになってきた。

 

これ、相当ヤバいアルバムだ。ドラッギーだとも言える。ちょっと聴いただけじゃ気付かない。基本的にはゆるいテンポのダンサブルなリズムの楽曲が並ぶ、軽やかでポップなアルバムだ。スロウなディスコビート。ファンキーなベースライン。お洒落なエレキギターのカッティング。メロウな旋律に乗せて、曽我部恵一が持ち前の柔らかい歌声を響かせる。

 

だから「いいアルバムだよね」「ですよね」みたいな感じで消費されてしかるべきだと思う。そんな風に聴かれても何もおかしくない。

 

が、よくよく耳を凝らして聴くと、ヒリヒリした感触、精神の暗がりみたいなものが透けて見えてくる。

 

今回のアルバムについてナタリーの大山卓也さんがインタビューで「サウンドはポップでメロウなのに、どこか鬼気迫る印象を受けた」「メロディやサウンドは軽やかなのに、全体から受ける“圧”がすごい」と語っている。僕も同感。

 

natalie.mu

 

この記事に「悪魔に憑かれた渾身ポップアルバム」というキャッチをつけているのだけれど「まさに」と思う。

 

常軌を逸していると思う。

 

■異常な制作過程

 

何が常軌を逸しているか。

 

上記のインタビューでも語られているんだけれど、この『DANCE TO YOU』というアルバムが完成するまでには異様な時間がかかっている。作り始めたのが2015年の春。そこから数ヶ月かけて2015年の初夏にアルバムが一度完成したものの、そこにあった10曲は全てボツになってしまう。

上記のインタビューではこんな風に語られている。

 

普通は核になる曲が何曲かできて、それを中心に10曲とかまとめてアルバム完成ってことになる。6月ぐらいに一度そういう状態になったんだけどね。

──6月って1年前ですよね?

そう(笑)。そのときに一度完成したはずなんだけど、もっと新しいものを出したくなったというか。いわゆるサニーデイっぽさを残さずに、完全に脱皮した状態を見せたくなって。

──でもその新しいものがどういうものかは見えないまま?

だから途中からこれはヤバいな、このままずっと完成しないんじゃないかって思い始めて。「これでいいんじゃないか」と「もうちょっといかないとダメだろう」っていうののせめぎ合いでしたね。

──最終的に何曲ぐらい作ったんですか?

50曲は作ってる。そのうち40曲以上はちゃんと録ってミックスダウンまでしてるし。

──めちゃくちゃですね。

めちゃくちゃだと思う。そもそもレコーディングには予算ってものがあるからさ。スタジオ代やエンジニアのギャランティを確保して、だいたいの予算を決めた上でスタジオに1週間とか入るんだけど、結局そこでは何もできなかった。

──でもレコーディング初体験の新人じゃあるまいし、普通はもう少しうまくやれそうなものですが。

もちろん予算とか期間のことを考えたら、落としどころはあったと思うんだけど、でも今回は自分のアーティスト性のほうが勝っちゃったんだよね。よくわかんないところから無理やりひねり出すみたいな感じで、とにかく作り続けてた。

natalie.mu 

 

制作の途中でドラマーの丸山晴茂は体調不良により離脱。結局、曽我部恵一自身がドラムを叩き、夜通し編集作業を経て、最終的にはほぼソロのような体制になりながらアルバムは完成する。

 

もちろん、ロックやポップスの歴史をたどれば、もっとめちゃくちゃなレコーディングは沢山ある。たとえばケヴィン・シールズマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの名盤『ラブレス』の制作費用がかさんで、レーベルを倒産寸前にまで追い込んでいる。日本でも、巨大なスタジオを何ヶ月もロックアウトして結局一曲も完成しなかったとか、作った曲を全部ボツにするとか、そういう例は枚挙に暇がない。

 

ただ、曽我部恵一の場合は、彼自身がインディーズレーベルの経営者であるというのが大きなポイントだ。しかも稼ぎ頭である。スタッフもいるし家族もいるし抱えているアーティストもいる。巨大な資本に支えられたメジャーレコード会社に所属するアーティストとは金銭感覚が全く違う。

 

40代も半ばを超えたそういう人が

 

「めちゃくちゃになっちゃいましたね、すべてが」

「やっぱり“業”なのかな」

「理性の部分を超えて、全部を破壊しようとする何かが自分の中に生まれてきたんだよね」 

 

とか言っているの、率直にかなりヤバいと思うのだ。

 

■幻になったアルバム

 

ちなみに僕は去年の夏に『AERA』の「現代の肖像」という企画で曽我部恵一さんに密着取材していた。

 

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その中ではこのアルバムのレコーディングスタジオにもお邪魔していて、なので、スタッフやメンバー以外では数少ない「ボツになった曲」を聴いている人間ということになる。

 

その時に書いた文章を引用します。

 

 世田谷の閑静な住宅街の一角にある小さなレコーディングスタジオに、ピンと張り詰めた空気が漂う。エンジニアの合図と共に流れてきた音楽に載せて、ブースの中でマイクに向かった曽我部恵一(44)が、丁寧に歌声を響かせる。ゆったりとした、しかしとても繊細な雰囲気を持った曲だ。

「うん、いいんじゃないかな」

 声の調子やニュアンスを変え、何度かの録り直しを経て、曽我部は小さく頷く。

 彼は今、自らのバンド「サニーデイ・サービス」の新作のレコーディングを行っている。デビューは94年。情緒的なメロディと日本語の柔らかい響きを活かした歌詞でロックファンに確かな支持を集めてきた。新作は通算10枚目、2008年の再結成からは3枚目となるアルバムだ。ただし、発売の予定はまだ決まっていない。

 スタジオにいるのは、曽我部とバンドメンバーの田中貴、丸山晴茂、そしてマネージャーとエンジニアの5名のみ。昼過ぎに集まり、ときに他愛のない話をかわしながら、作業はたいてい深夜か早朝まで続く。三児の父でもある彼は、翌日起きて子供たちを学校に送り出すと、眠そうな目をこすりながら、またスタジオに向かう。そんな毎日が、数ヶ月続いている。

「ものによっては数日でパッと録ってしまうアルバムもあるし、サニーデイの前のアルバムも一週間くらいで仕上げたんで、ここ数年では一番長い時間がかかってると思います」

 

 この取材を開始したのがまさに去年の6月くらいの頃。たしかフジロック前だったはず。その時点で「ここ数年では一番長い時間がかかってると思います」と言っていた。で、その時に聴いた曲も、正直、めちゃいい曲なんですよ。少なくともボツにするようなレベルでは全くない。

 

で、その夏にフェス出演の裏側を追ったり、メンバーの田中貴さんやROSE RECORDSの岩崎朗太さんやMIDI時代のディレクター渡邉文武さんにインタビューしたり、香川県坂出市にまで行って母親の曽我部輝子さんに話を聞いたり、いろんな周辺取材を経て9月に再び曽我部さんにインタビューしたら状況が変わってた。

 

上記の記事から再び引用。

 

 しかしアルバム完成の目処はまだ見えていない。

「再結成してから2枚のアルバムは、今の3人が出せる音を自然体で出そうと作ったんです。でも今はそうじゃなくて、自分の意識下を探るような旅になっている。暗闇の中で自分に対峙するような感じがある。20代半ばの頃の感覚に戻っている気がします」

 制作の過程は二転三転している。ツアー前にシングルをリリースする当初の計画もなくなった。冒頭に書いたレコーディングの時点で筆者が聴かせてもらったものも含めて、最初に録音した10曲は全て白紙になった。レコーディング費用の数百万円が水の泡になったと言いつつ、「陶芸家が窯から取り出した作品を気に入らなくて割るようなときって、困るんだけど、ものづくりの醍醐味と思ったりもする」と言う。振り回される形となった田中も「僕らは曽我部がそういう人間だってわかってますから」と笑う。

 どうなるか全くわからないと言いつつ、曽我部は今探っているものをこう語る。

「子供が夢で見るような、漠然とした、説明がつかないような風景を音楽にしたいという気持ちがある。僕らがバンドを始めたころの日本のロックはみんなでマスゲームのように同じタイミングで拳を振り上げるものが主流で、それは今も同じ。そういうものに対する反発心で、全く違うものをやろうとしていたのがサニーデイ・サービスというバンドだったんです」

 静かな、しかし芯の強いパンクの意志が曽我部恵一というミュージシャンを導いている。

 

この記事が出たのが去年の秋だったので、さらにそこから半年は制作が続いたことになる。相当ヤバい。

 

■自分の意識下を探るような旅

 

もちろん制作過程が大変だったというのは、いろんなアーティスト、いろんな作品でもよくある話だと思う。なんだかんだ言って、本当に「ヤバい」のは肝心の中身のほうだ。

 

なんでこれでMV作らないのか謎なんだけど、アルバムを象徴するのは冒頭の2曲「Im a boy」と「冒険」だと思う。

 

「Im a boy」の歌詞がいい。

 

きみのことが忘れられない
なにをしても手につかない
ぼくの中に暗い夜が続く
きみと手をとりさまよい続けたい

祈ることしかできないのか?
祈ることすらできないのか?
神様は踊っているのかな?
ああこのままさまよい続けたい

 

「冒険」もネジが外れている。最近のバンドにたとえるならD.A.N.みたいな感じの曲。ひんやりしたミニマルビートとカッティング・ギターに乗せて「♪ぼくは ぼくは ぼくは…」(♪パー、パパパ、パー~)「♪こんな場所で こんな場所で」と歌う。酩酊感しかない。

 

「血を流そう」も、ちょっと普通の曲じゃない。けだるい感じのビートに乗せてギターとユニゾンするメロディで「今夜血を流そう」と繰り返す。不穏な転調が訪れる。

 

シングルカットされた「苺畑でつかまえて」も、よくよく改めて聴くととかなりドラッギーな曲だ。

 


サニーデイ・サービス「苺畑でつかまえて」【Official Music Video】

 

見たこともないこんな街で 知らないだれかを探してる
苺畑で逢えるのかな

 

(……たぶん会えないよ!)

 

パンチドランク・ラブソング」も。

 


サニーデイ・サービス「パンチドランク・ラブソング」【Official Music Video】

 

「ねえ、ここは何て名前の街だっけ?」
メロンソーダ アイスクリーム 溶けていく

「ねえ、ここは何て名前の街だっけ?」
メランコリア 愛す 狂う ほどけていく

 

「セツナ」も。

 


サニーデイ・サービス「セツナ」【Official Music Video】

 

子供の頃に作ったしゃぼん玉に乗ってふたりでこの空を飛ぼう

 

曽我部恵一BANDでも、ソロでも、基本的にはここ10年くらいの曽我部恵一は日常や生活と地続きのことを歌詞に書いてきた。下北沢という街で暮らしていることとか、子供がいることとか、そこで考えた日記みたいなことを歌にしてきた。

 

再結成後のサニーデイ・サービスの2枚のアルバムもそう。40代になった3人の自然体が、そのまま音になっていた。

 

でも、このアルバムの歌詞で描かれているのは完全に脳内風景。「日常」とか「自然体」とかと一番対極にある世界だ。しかもキマりまくってる。クスリとかそういうんじゃなくて、想像力だけで飛んでいる感じ。自分の精神の内奥の暗がりの奥の方まで降りていく感じ。そういうアルバムの風景が繰り広げられる。

 

で、混沌の中進んでいくアルバムのストーリーは、「桜 super love」で、

 

きみがいないことは きみがいることだなぁ
桜 花びら舞い散れ あのひとつれてこい
夏に見つけたら 冬にひもといて
いつも踊ってる 僕も踊ってる

 

と、ふわーっとしたダンス・ミュージックの高揚感に達する。結局のところ何にも解決してないんだけど、なんだかOKになってしまう感じ。

 

そこがとても素敵だ。時を止めるような透明なロマンティシズムが音楽になっている。

 

サニーデイ・サービスというバンドは、解散と再結成を経て、ようやく『LOVE ALBUM』と「魔法」の次に来るべきアルバムを作り上げたんだと思う。

 

 

DANCE TO YOU

DANCE TO YOU

 

 

 

 

 

虚構と現実は逆転する――『シン・ゴジラ』感想

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シン・ゴジラ』を観た。ゾクゾクした。おもしろかった。というか「すげえ……」という感想だった。終わったときに自然と拍手してしまった。

 

 

shin-godzilla.jp

 

そしてこれは、ただ単におもしろいだけでなく、観た人の胸に「刺してくる」作品だということも痛感した。少なくとも僕はそういう余韻が残った。

 

シン・ゴジラ』は、エンタテインメントに徹しているのは大前提で、でも、東日本大震災を経た2010年代の日本を、時代というものをちゃんと照射している。1954年に公開された初代『ゴジラ』がそうであったように。きっといろんな人が、いろんなことを言うだろう。言いたくなるだろう。なぜならこれは踏みこんでくる作品だから。

 

僕は特撮映画のマニアではないし、これまでのシリーズもハリウッド版のゴジラもろくに観てない人間なので、そっち方面の深い考察とかオマージュの指摘みたいなものは他の人にまかせようと思う。

 

シン・ゴジラ』はとても社会性を持った作品でもあるので、そちら側の視点からの考察も沢山出まわると思う。いろんな批評や感想が出揃って、評価が確定していく前に、公開から数日経った今の段階で僕が感じたことを書き留めておこうと思う。

 

というわけで以下からはネタバレです。未見の方は注意。というか、これは余計な情報いれずにまず観ることをおすすめします。

 


『シン・ゴジラ』予告

 

■なぜ『シン・ゴジラ』のゴジラは怖いのか

 

シン・ゴジラ』を観て最初の印象。それは「ゴジラ、怖い……」だったのよね。制作陣の意図として「最初のゴジラに立ち返る」というものがあったらしいと後で聞いて、とても納得。圧倒的な理不尽さをもって、普段の生活が、日常が破壊される恐怖。それがあった。

 

ゴジラの登場は「災害」として描写される。まず、東京アクアラインで大規模な陥落事故がある。その時にリアルだなーと思ったのが、逃げ惑う群衆に「余裕がある」のをちゃんと描いていること。スマートフォンで惨状を撮影したり、避難路を歩く人が「へー、こんなところあるんだ」と言い合ったり。

 

そして東京湾に姿を表したゴジラは「巨大不明生物」としてニュース報道される。人々が海ほたるからスマートフォンでそれを群がって撮影する様子がカットインで描かれる。

 

「巨大不明生物」は第一形態から第二形態に進化し、我々がよく知るゴジラのビジュアルではなく、爬虫類に近い身体となる。そして上陸する。あの時の「眼」が怖い。意思疎通できない生物の眼。何を考えてるかもわからないし、意志なんてないんだ、ということが眼の描写だけで伝わってくる。その「巨大不明生物」が時速10数kmでただ歩くだけで蒲田から品川が蹂躙される。

 

そして、街をなぎ倒してる瞬間は「うわー!」「すげー!」なんだけど、ハッとするのは、その被害の「跡地」の描き方なんだよね。第二形態の「巨大不明生物」はなぜか海に帰る。なぎ倒された区域では、瓦礫や、木造住宅の破片や、ひっくり返った車両が、道路に積み重なっている。でも、それ以外の人々は、翌日も会社に行ったり学校に通ったり、日常を取り戻す。ニュースはL字型の画面で緊急報道となり、被害の模様や政府の対策を映し出す。何億円、何兆円の損害という話も聞こえる。

 

僕らはこの光景を観たことがある。震災だ。

 

過去数十年を経てキャラクター化されて、街を破壊する様子もすっかりエンタメ化された「ゴジラ」はここにはいない。この時点では、まだ劇中には「ゴジラ」という単語も現れていない。

 

そしてゴジラの「怖さ」のクライマックスは、再び上陸したゴジラが東京の中心で第四形態に進化して熱戦を吐くシーンだ。硬い皮膚にマグマのように滾っていた赤い光が紫色になり、それまでとは比べ物にならない圧倒的な破壊を見せる。基本的には「緩慢に移動する」だけだった巨大不明生物としてのゴジラが、ここで初めて自らの獰猛な意志を見せる。

 

すべてを焼き尽くせ。

 

東京が絶望に包まれる。ここで鷲巣詩郎の音楽がゾクゾクするような美しさと高らかな神聖さを奏でる。

 


『シン・ゴジラ』予告2

 

やはり僕らはこの光景を観たことがある。使徒だ。

 

僕らの知っている街と、暮らしが、壊される。単なるディザスター・ムービーの快楽としてではなく、リアルにそれが実感される。

 

それが『シン・ゴジラ』のゴジラが「本気で怖かった」理由だと思う。途中で「もうやめてくれ。これ以上街を焼かないでくれ」と感じた理由だと思う。

 

■「現実 対 虚構」の構造

 

ここまできて、いろいろなるほどと思うことがあった。

 

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今回の『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「ニッポン 対 ゴジラ」。公式サイトでは「現実 対 虚構」として、「現実」に「ニッポン」、「虚構」に「ゴジラ」というルビが振ってある。

 

本編を観終わったあとで振り返ると、このキャッチコピーがとても秀逸であることがわかる。

 

映画のストーリーは、かなりのウェイトをさいて政府の対応を追っている。政治的、軍事的な駆け引きや情報交換を忠実に描写している。官僚にメモ出しされる大臣とか、会議室に立ち上げられる対策本部とか、コピー機や段ボール箱にかき集められる各種資料とか。「今の日本にゴジラがあらわれたらどうなるか」というシミュレーションが綿密に行われている。

 

そして、最初に「巨大不明生物」が上陸した時の日本政府は、はっきり言って上手く対応をとれていない。「そんなことがあるわけない」と想定外の予測を棄却して事実確認に遅れる。記者会見で発表したこともリアルタイムに進展する新たな事象によってあっという間に覆される。会議ばかりで話がまとまらない。招集された学者の意見は参考にならず時間のムダ(ここ笑いどころだったなー)。

 

結局、政府は何をすることもなく、ただ海に帰るのを眺めるだけになる。そして東京が放射能汚染されていることが民間の計測で明らかになり、メディア発表よりも先にネットでそれが広がり、やはり対策は後手後手になる。

 

つまり、ここで描かれている「ニッポン」、「虚構=ゴジラ」に立ち向かう日本は、東日本大震災福島第一原発の事故に対峙した現実の日本政府そのものだ。かなりのリアリティをもってそこを突き詰めている。どうやら取材協力には枝野幸男がクレジットされているらしい。脚本を書くにあたって、巨大災害、そして原発事故にあたっての危機管理について綿密に取材したのだと思う。

 

しかし、作中で、虚構と現実は逆転する。

 

第四形態で街を壊滅させたゴジラは、エネルギーを使いきり、再び活動を停止する。国連によって核攻撃が決議される。再び目覚めるまでの猶予は2週間。

 

前述の日本政府は壊滅し、対策チーム「巨大不明生物特設災害対策本部」で主人公としての活躍を見せてきた内閣官房副長官・政務担当の矢口蘭堂が強いリーダーシップをとりはじめる。研究者たちによって、ゴジラを凍結させることのできる希望が示される。「ヤシオリ作戦」と、それが名付けられる。

 

ゴジラの体内に溜まっているエネルギーを使い果たさせ、ゴジラを転倒させ、倒れたゴジラの口からポンプ車で凍結剤を流し込むという作戦だ。地味である。核攻撃に比べてはるかに地味ではあるが、重機と鉄道を駆使した(この夏最高のパワーワード「無人在来線爆弾」!)とても日本的な攻撃手段だ。

 

そして、これを遂行する日本政府は、前半に登場する日本政府とはまるで別物のような敏腕さを見せる。情報収集の巧みさ、意思決定の速さ、国際的な協力をとりつけるしたたかさ。すべてのピースがあっという間にバチバチとハマっていく。解決に向かっていく物語のカタルシス、エンタテインメント要素を重視した演出のせいだと思うけれど、前半に描かれたような「ぐだぐだ」は一切排除される。ほんのわずかな手掛かりから導かれた「希望」に全員があっという間にベットする。前半にあれだけ念入りに用いられたマスメディアの報道や避難する一般市民の視点はぐーっと後景に追いやられる。

 

「ヤシオリ作戦」という言葉は、日本の古代の神話に由来している。古事記日本書紀に書かれる、スサノオノミコトヤマタノオロチという大蛇を倒すときに用いた「八塩折之酒」の名前からとられている(と思う)。

 

が、観た人の多く「ヤシオリ作戦」という名前から別のものを想起するだろう。エヴァの「ヤシマ作戦」だ。それぞれの持ち場の人が力を発揮し、誰も足を引っ張ることなく、すべての人が犠牲を厭わず協力して一つの巨大な敵を倒す。そのプロットはヤシマ作戦にそっくりだ。

 

シン・ゴジラ』の後半においての「ニッポン」は、「現実」ではなく「虚構」をなぞらえている。そう僕は考える。

 

つまり『シン・ゴジラ』の「現実 対 虚構」は二重の構造を持っている。前半では、現実(=日本)が虚構(=ゴジラ)に蹂躙されるさまを。そして後半では、圧倒的な現実(=ゴジラ)に立ち向かう虚構の希望(=日本)を描いている。

 

そして見事ゴジラは凍結する。

 

観終わった時に、絶望ではなく、元気とか勇気のようなものを感じた人が多かったのは、思わせぶりのエンディングで「留保つきの解決」だったとしても、ちゃんとエンタテインメントをまっとうして「希望の勝利」を描いたからだと思う。

 

 ■虚構の力を信じるということ

 

庵野秀明という人、そして樋口真嗣という人は、本気で「虚構の力」を信じているんだと思う。渾身の力を込めた虚構は、決して絵空事ではなく、現実に作用しうるということを、『シン・ゴジラ』で示したんだと思う。

 

そのことが伝わってきたのも、僕が『シン・ゴジラ』に大きく感動した理由だった。

 

ポケモンGO』が世界中で社会現象を巻き起こしていることが象徴的なように、今の時代のテクノロジーやアーキテクチャの向かう先は、映像メディアに立脚した「虚構の力」の次を探すタームに入っていると僕は思っている。二十世紀的な二次元のイメージが作り出す「虚構の力」よりも、現実世界の座標軸の中に浮かび上がる「架空の力」が強まっている気がする。

 

このあたりのことは、AR三兄弟として活躍する川田十夢さんと話したり、現代の魔法使いとして知られる落合陽一さんの本を読んだり、それをプロデュースしている宇野常寛さんが語っている内容から僕なりにインスパイアされていることではあるのだけど。

 

そんな時代に「虚構の勝利」を真っ向から描いた庵野秀明監督の力量は、やはりとんでもないものだと思った。

 

おもしろかった!