日々の音色とことば

usual tones and words

『君たちはどう生きるか』に描かれた“誕生”と“継承”



君たちはどう生きるか : 作品情報 - 映画.com

 

『君たちはどう生きるか』観てきました。

 

すごかったです。とにかくすごかった。ポスタービジュアル以外何も公開されない特殊な宣伝手法もあって、ストーリーも登場人物も全く前情報がない状態で観た宮崎駿監督の最新作。年齢を考えるとこれが最後の作品になってもおかしくない。

 

なので最初は「これはどういうことだろう」とか「この描写の意図は」とか、筋書きに追いつくためにいろいろ考えながら観てたんだけど、気付いたら途中からそういうのぶっ飛んでた。圧倒的な体験で、気がついたら涙ぐんでました。

 

でもこれ、観る人によっては「これって一体なんのことだったんだろう……?」みたいな人もいるだろうな、とも思った。特に後半はイマジネーションの奔流のような展開なので、理屈で捉えようとすると何がなんだか全然わからないままで終わるという可能性もある。

 

でも、そういう人に向けた“わかりやすさ”みたいなものを一切放棄して、とにかく自身の作家性を100%開放した結果としてこうなっているんだなということも思った。

 

なので、これを観終わって思ったのは、やっぱり『風立ちぬ』で引退作だったらちょっと綺麗過ぎる終わりだったよな、っていうこと。気取ってるというか。僕は近作では『風立ちぬ』よりも『崖の上のポニョ』のほうが好きで、特に『ポニョ』後半の船を漕いでいく場面からの流れがとても好きな人間で。ああいう、世界の枠組みがグニャリと歪むような、アニメーションならではの、飛躍した、ときに危うい想像力に魅せられてきた人間としては、そういう“濃度”がとても高い作品を浴びたという、そんな感触でした。

 

というわけで、ネタバレなしで言えるのはここまで。ここから後はストーリーの内容やその核心にがんがん触れていくので、すでに作品を観たという方はどうぞ。

 

続きを読む

小さくて弱いもの、疎外されたもの、傷ついたものの側に立つスピッツの歌について

スピッツの『ひみつスタジオ』がすごくいい。

 

これまでのスピッツのアルバムの中で一番好きかもしれない。何度か聴き返して、どういうところが好きなのか改めてわかってきた。

 

ストリーミングチャートでヒットして新たな代表曲になりつつある「美しい鰭」とか、リード曲「ときめきpart1」とか、タイアップ曲も沢山入っているけれど、たぶん、アルバムの中で最も重要な楽曲は「オバケのロックバンド」。草野マサムネだけでなく、三輪テツヤ、田村明浩、崎山龍男と、メンバー全員が代わる代わる歌う一曲。奇抜なアイディアだけど、これ、“遊び”でも“企画モノ”でもなく、メンバー1人1人の自己紹介的なフレーズと、スピッツというバンドのアイデンティティを真正面から歌ったキーポイント的な曲だと僕は思う。

 

《子供のリアリティ 大人のファンタジー》

とか

《毒も癒しも 真心込めて》

とか、ほんとにそうだよな、と思う。

 

この曲から、そしてアルバムの全体的なトーンから「童心」がひとつのモチーフになっているということが伝わってくる。

 

なにより印象に残るのは、4人の音がわかりやすく伝わるアレンジになっているということ。「美しい鰭」とかシングル曲のサウンドプロダクションは丁寧にモダナイズされているけれど、アルバム収録曲の多くは4人のシンプルなバンドサウンドに徹している。たとえば「跳べ」は8ビートのパンクロックだし、たとえば「めぐりめぐって」は「♪ジャッジャッジャジャ〜」と揃ってキメるリフが見せ所になってる。これだけのキャリアを持つバンドの、17枚目のアルバムとはとても思えないくらい、「バンドで音を合わせること」の純粋な楽しさとか喜びみたいなものが伝わってくる。インタビューとかを読むとコロナ禍を経て久々に集まったことが背景にあるらしいけれど、それにしてもここまでピュアで無垢なトーンが鳴っているの、なかなかすごいと思う。

 

で、もうひとつは、ビジュアルやアートの象徴性。このアルバムのジャケットは画家・絵本作家のjunaidaさんが描いたロボットデザインを実物大に再現したものになっている。

 

ひみつスタジオ

 

で、アルバムと同日には全曲の歌詞をもとにjunaidaさんが描いた“歌画本”の『ひみつストレンジャー』が発売されている。これを読みながら聴くと、歌詞の解像度が数倍にあがって、ものすごく真に迫ったイメージが広がる。

 

ひみつストレンジャー


で、ここからが大事なこと。

 

『ひみつストレンジャー』を読みながら何度も聴き返して、改めて気付くことがあった。このアルバム、ほぼ全ての曲で、小さくて弱いもの、疎外されたもの、傷ついたもの、世の中の仕組みに馴染めないもののことを歌ってる。

 

いろんな曲の歌詞の描写は、世の中のすみっこの方から始まる。「大好物」の主人公は

《つまようじでつつくだけで壊れちゃいそうな部屋》

にいたし、「ときめきpart1」の主人公は

《誰も気に留めないような隙間にじっと隠れてた》

と描写される。「オバケのロックバンド」で草野マサムネが歌うラインは

《誰もが忘れてた物置き小屋の奥》

から始まる。

 

「手鞠」の歌詞もかなりグッとくる。多様な読みのできるラブソングになっている。

 

この曲のAメロでは

《常識を保つ細いロープで 身体のあちこち傷ついて
感動の空気から 逃れた日 群れに馴染めないと悟った
誰のことももう愛せないとか 決めつけていたのかも》

と歌われる。そしてサビでは

《可愛いね手鞠 新しい世界
弾むように踊る 君を見てる》

と、みずみずしいメロディで歌う。

 

もちろん解釈は聴き手の自由に開かれているし、当然LGBTQとかマイノリティとか、そういうことは一切明示されていないけれど、この曲はクィアな読み方をすることもできる。少なくとも“君”に出会う前のこの曲の主人公は、“常識”や“群れ”に苦しめられ、一人で人生を過ごすことを決めていた、という風にとれる。

 

で、そういう風に「小さくて弱いもの、疎外されたもの、傷ついたもの、世の中の仕組みに馴染めないものに寄り添う」立場で曲を聴いていくと、アルバムの曲で歌われていることに、ひとつの通底したメッセージを発見することができる。

 

アルバムのいくつかの曲には「自分が自分らしくいるために、常識や決まり事に抗うこと」がモチーフとして歌われている。みんなが思い込んでいること、社会の中で当然とされていることにあえて従わないことや、抗うことや、ひいては体制をひっくり返すことについて歌われている。

 

たとえば「跳べ」では

《暗示で刷り込まれてた 谷の向こう側へ 跳べ》

と歌われる。「美しい鰭」では

《抗おうか 美しい鰭で 壊れる夜もあったけれど 自分でいられるように》

と歌われる。

 

「未来未来」では

《1000年以上前から語り継いだ嘘が 人生の意味だって 信じて生きてきたが 勧善懲悪なら もう要らない》

と、「Sandie」では

《虎の威を借る トイソルジャーたちに さよならして 古ぼけた壁 どう壊そうかな》

と歌われる。

 

一人ひとりが自分らしく生きていけるために、か弱い、繊細な心を持つものが壊れてしまわないために、「古ぼけた壁」、つまり時代遅れになった社会の規範の方を壊して変えていくということについて、歌われている。そういう意味でも、このアルバムの本質は「パンク・ロックとしてのスピッツ」にある感じがする。

 

それに気付いてから「讃歌」を聴くと、すごく感動する。この歌もラブソング。そしてやっぱり、幻想的な描写を通して「小さくて弱いもの、疎外されたもの、傷ついたもの、世の中の仕組みに馴染めないもの」に寄り添う曲。

 

なにしろマイナーコードのストロークと共に

《枯れてしまいそうな根の先に 柔らかい水を染み込ませて
「生きよう」と真顔で囁いて》

と始まる曲だ。

《勇気が誰かに利用されたり 無垢な言葉で落ち込んだり
弱い魂と刷り込まれ》

と、傷ついた心を綴る言葉は

《だけどやがて変わり行くこと 新しい歌で洗い流す》

と続く。

 

今朝、僕は公園を犬を連れて散歩していた。子供たちが砂場で遊んでいて、そこに初夏の太陽の光がキラキラと降り注いていた。

 

その光景を眺めながら、ヘッドホンでこの曲を聴いていた。

 

クライマックスのところで、高らかなメロディに乗せて

《二人だけの小さな笑いすら 今は言える 永遠だと》

という言葉を歌っていて。そこを聴いた瞬間、なんだかこみ上げてくるものがあって、ちょっと泣いてしまった。その時に感じたことを覚えておきたくて、これを書いたのです。

NewJeansとアジアと「チョベリグ」な日本

僕が『平成のヒット曲』という本を出したのは約2年前の2021年のこと。そこの後書きにはこう書いた。

 

改めて振り返った今、ひょっとしたら我々が過ごしてきたのは、ある種の「幸福な時代」だったのではないだろうかという思いがある。

もちろん、そう考えない人も多いだろう。バブル崩壊後の経済停滞は長く続いた。二度の震災もあった。本書の中でも「失われた」という言葉は頻出している。

それでも、ポピュラー音楽、大衆文化について考える時には、「平成」という言葉は、(たとえば「大正」と同じように)、ある種の豊かさのイメージと共に振り返られるようになっていくのではないかという予感がある。

 

その予感は、いい意味でも、悪い意味でも、当たったような気がしている。

 

悪い意味というのは、その「豊かさ」の感覚が、いよいよ失われつつある、ということ。日本という国が他の国と比べて相対的に貧しくなっているというのは、たとえば海外旅行をして食事をしてみれば一目瞭然なわけで。平成という時代にあった”停滞”、つまりモラトリアム的な感覚もいよいよ失われて、剥き出しの格差と階級社会が目に見えてきているような感もある。

 

そして何より、「振り返り」が続いている。大衆文化のメインストリームには、時代を前に進めていこうという力強い意志よりも、懐かしさとじゃれ合うようなムードが続いている。昭和の、そして平成のリバイバルはずっとトレンドになっている。

 

まあ、他人事のように言うわけにもいかないよな。僕自身も、それに加担している。TBSラジオの朝番組で毎週90年代の、そして00年代のヒット曲を解説するというコーナーをやっている。毎回、しっかり力を入れて選曲して準備して喋ってる。自分自身、『平成のヒット曲』という本を書いたこと、そしてその後にいろんな曲をセレクトしてその背景を解説する仕事を通じて、「平成という言葉をある種の豊かさのイメージと共に振り返る」活動をしているわけであるので。

 

ただ、それだけに、こういうCMを観ると、とてもむず痒いような気持ちがしてしまう。

 

www.youtube.com

 

マクドナルドの「平成バーガー」のCM。キャッチコピーは「あの平成が、かえってくる。」。CMでは池田エライザがギャルファッションをして「チョベリグ!」と言っている。楽曲は浜崎あゆみの「Boys & Girls」。1999年リリース。

 

なんというか、おそらく電通のクリエーティブなのだろうけど、「ほんとに、それでいいの?」と思ってしまう。浜崎あゆみが悪いわけじゃない。ギャルファッションが悪いわけじゃない。でも、ディティールの一つ一つにも、そもそもコンセプトにも、言葉にしがたい”キツさ”がある。

 

何がキツいのか。

 

「懐かしの〜」とか「昭和レトロ」とか、題材は何でもいいけど「温故知新」の「温故」しかないクリエーティブを堂々と眼の前に開陳されると、「ほんとに、それでいいの?」と思ってしまう。作り手としての矜持、ないの?って。

 

もちろん受け手がそれを喜ぶのは全然いい。そこにターゲットを絞ったプロダクトやコミュニケーションをするのもいい。『昭和何十年男』みたいなね。

 

でも、せめてCMクリエーターなら、それもマクドナルドみたいなグローバル企業のキャンペーンを打つなら、「知新」を意識に入れてほしいよねと思ってしまう。

 

一方で、NewJeansのマクドナルドのCMはめちゃめちゃクールなのですよ。

 

www.youtube.com

 

商品はマクドナルドの新メニュー「McCrisp」。クリスピーチキンの”サクサク感”を、ピクセルのビジュアルと8bitのチップチューンサウンドとかけ合わせて、つまりは任天堂のファミコンの表象を引用して訴求している。

 

ファミコンやレトロゲームは日本発祥のサブカルチャーなので「持ってかれた」と感じる人はいるかもしれないけど、まあ、グローバルに見れば同じ東アジアのポップカルチャーということで。あとは、ちゃんとAR的な映像表現にしていることで、期せずして『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』と同時代性もある2023年のクリエイティブになってるなと思う。

 

NewJeansはコカ・コーラとのコラボレーション曲「Zero」も最高だった。ドラムンベースのビートに乗せて「コカ・コーラ、マシッタ(コカ・コーラおいしい)」とサビで唄う曲。めちゃめちゃフレッシュだし中毒性高い。

 

www.youtube.com

 

ナイキのAirMaxのCMも、Y2Kファッションの引用とかクリエーティブの「温故知新」が効いているように思う。

 

www.instagram.com

 

で、マクドナルドとNewJeansのコラボレーション、どうやら韓国だけじゃなく、フィリピン、タイ、インドネシア、ブルネイ、マレーシア、香港、台湾、シンガポール、ベトナムでも展開予定のキャンペーンらしい。今のところ日本はスルーされている。

 

www.instagram.com

 

NewJeansがこうやってアジアを席巻してるなか、日本だけ「チョベリグ」とか言ってていいの? ほんとにいいの?って思ってしまうよね。