日々の音色とことば

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映画『バービー』に潜む“死”と“不安”


 
 『バービー』を観た。

 

驚いたのは、予想してた以上に“死”にまつわる映画だったということ。



全然気付かなかった。なにしろキャッチコピーは「バービーの世界、初の実写化!」。キービジュアルもピンク色のカラフルな仕上がりだし、予告編もまるでおとぎ話のようなコメディタッチの映像。きらびやかでポップな世界観が全面に打ち出されている。

 

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ただ、その一方で、『バービー』が単なるファンタジーじゃなく、ジェンダーを中心にさまざまな社会問題を取り扱った映画だということは、いろんな記事を通して、なんとなく伝わってきていた。

 

たとえば以下の記事には「映画『バービー』は女性をエンパワーメントするフェミニズム映画として大絶賛されている」とある。

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たしかにそのことは映画の大事な要素になっている。

 

「完璧な毎日が続くバービーランドから、ある日、バービーとケンが“人間の世界”(リアルワールド)に迷い込んでしまう」――というのが『バービー』のあらすじ。

 

映画には”人間の世界”に色濃く残る性差別や家父長制的な構造が描かれていたりもする。そこで“目覚めた”ケンが、バービーランドで反乱を起こし、車や映画や金融やロックについて語ったり、浜辺でうっとりとギターを弾き語りしたりして男の欲望を満たすという滑稽でユーモラスなシーンもある。そのあたりは、男らしさ(マスキュリニティ)に対しての痛烈な皮肉としても機能している。

 

でもでも、そんなことより何より、僕が気になったのは“死”を巡る問題。より噛み砕いて言うならば、死とアセクシュアル(生殖の不可能性)とメンタルヘルスにまつわる諸問題だ。

 

冒頭、デュア・リパの「Dance the Night」に乗せて陽気に、きらびやかに踊るバービーとケンたちのダンスパーティーは、「“死ぬ”ってどういうことなの?」という一言で、まるで一瞬にして空気が引き裂かれたかのように終わる。

 

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それをきっかけにバービーの身体に異変が生じ、人間の世界との“裂け目”が生まれてしまうというのが映画のストーリー。つまり、最初から死は『バービー』の物語における最重要モチーフとなっている。

 

死だけではない。性的なことについてもそう。人形であるから生殖器を持たず(字幕や吹き替えでは“ツルペタ”と表現されていたけど、英語のオリジナル音声ではヴァギナとペニスがない、としっかり明言されている)、バービーとケンは決してセクシャルな関係にならない。夜を共にすることもないし、ケンが和解のときにキスしたそうなムードになったときも「そういうんじゃないから」とバービーがハッキリ拒絶する。

 

主演でプロデューサーもつとめるマーゴット・ロビー自身が、『VOGUE』のインタビューでもそのことに触れている。

 

「彼女は人形なんだ。プラスチック製の人形。臓器はない。臓器がなければ、生殖器もない。生殖器がなければ、性欲は感じるの?いや、感じないはず、というように考えていきました」

 

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だから、基本的にはユーモラスでファビュラスでコミカルな『バービー』の物語世界には、ずっと、実存的な不安が横たわっている。死ぬことはない。生殖もしない。バービーランドという、(資本主義によって作られた)夢のような完璧な世界が広がっている。じゃあ、そこにいる自分は、どうして、何のために生まれてきたの?という。それが大きなテーマになっている。

 

ただ、まあ、この不安に共感できるような人は少ないと思う。だって我々は人形ではないし、普通に日常生活を送っているから。当たり前に、生まれて、老いて、死んでいく。そこにアイデンティティの基盤がある。

 

でも、マーゴット・ロビーにとっては、ひょっとしたら、そうじゃないかもしれない。むしろそのルックスも含めて「(資本主義によって作られた)夢のような完璧な世界の住人」であること、記号的な存在として日々を生きることの虚無を感じているのかもしれない。だとしたら、自身をバービーに重ね合わせたのはすごく理解できる。

 

そして、サウンドトラックを聴くと、ビリー・アイリッシュが、ただ一人だけ、この映画の本質を理解しているように思える。そういうアイデンティティの不安や葛藤をストレートに射抜くような曲を作っている。曲名は「What Was I Made For?」(私は何のために存在しているの?)。

 

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ドライブをしている 理想的な私

とても生き生きしていた

でも私は本物ではなかった

ただあなたがお金を払ったものに過ぎないの

私の存在は何のため?

 

ビリー・アイリッシュが書いた「What Was I Made For?」は、映画の中で何度もリフレインのように響く。作中のとても大事なシーンで使われている。

 

そして、MVを観ると、マーゴット・ロビーと同じように、ビリー・アイリッシュも自分自身をバービーに重ね合わせているのがわかる。なにしろ、ビリ―が箱の中から出してひとつひとつ眺めている着せ替え人形の洋服は、ビリー自身がこれまで着てきた衣装と同じデザインなのである。

 

『バービー』のラストでは、主人公のバービーが”人間の身体”を望み、それを得ることで終わる。生殖器を得ること、死ぬ身体になることが、ひとつの解放として訪れることで物語の幕が閉じる。そこから逆算的に描き出されるのは、夢のようなバービーランドが、ケンによる反乱とその鎮圧、そして和解を経ても、やはりなおディストピアであったということ。そこにあるのは”記号的な存在として日々を生きることの虚無”だ。

 

そして、バービーランドの鏡像的な存在である現実社会も、やはり”記号的な存在として日々を生きることの虚無”を強いられるディストピアである。我々の多くはそのことに気付いていないけれど、少なくともマーゴット・ロビーとグレタ・ガーヴィグとビリー・アイリッシュは、そのことを芯から知っている。

 

そういう映画として僕は『バービー』を観た。なので、すごくゾクゾクする面白さでした。