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日々の音色とことば

新刊『ヒットの崩壊』が出ました。

宇多田ヒカルは死をどう描いているのか

花束を君に

真夏の通り雨

 

今月号の『MUSICA』に、宇多田ヒカル『花束を君に』『真夏の通り雨』のレビュー原稿を書きました。

 

MUSICA(ムジカ) 2016年 06 月号 [雑誌]

MUSICA(ムジカ) 2016年 06 月号 [雑誌]

 

 

そこにも書いたことだけれど、改めてここにも書いておこう。

 

発売からしばらく経つから、もう沢山の人が耳にしただろうこの曲。聴いた人は、この二つの曲が何について歌っているのか、すぐにわかるんじゃないかと思う。

 

「花束を君に」と「真夏の通り雨」の二つの曲は、いわば裏表の関係にある。どちらも死がモチーフにある。アーティストの私生活と作品とを安易に結びつけるのには慎重になるべきだけれど、おそらく、母・藤圭子の自死がその背後にあるのは間違いないのではないだろうか。そして再びの結婚を経て自身が母親になった、ということも。

 


宇多田ヒカル「花束を君に」(30s Version)

 

普段からメイクしない君が薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した 

 

「花束を君に」はこういう歌い出しで始まる。ピアノの丁寧な温かみのある声で優しいメロディを歌う。最初のサビの前で挟まれる、ため息のような吐息が胸に刺さる。

 

そして、中間部を経て、2番が始まるかと思いきやメロディも歌い方も変調する。

両手でも抱えきれない
眩い風景の数々をありがとう 

 
と歌う。情感はクライマックスに向けて上昇し、

どんな言葉並べても
君を讃えるには足りないから
花束を君に贈ろう 涙色の花束を君に 

 と終わる。

 

悲しみを堪えながらも、別れと弔いをゆっくりと受け入れていく歌だ。

 


宇多田ヒカル「真夏の通り雨」(Short Version)

 

一方「真夏の通り雨」が射抜くのは喪失と葛藤だ。

 

深く沈むような沈痛な旋律で、こう歌う。

いつになったら悲しくなくなる
教えてほしい

今日私は一人じゃないし
それなりに幸せで
これでいいんだと言い聞かせてるけど 

 

心の深い部分から感情の奔流が湧き上がってくる。曲後半になるにつれて、そのままならない切迫感はどんどん増していく。

 

最後は

ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない乾き 

 

と繰り返し、絶望の余韻を残してフェードアウトする。

 

とてつもない2曲だと思う。そして、振り返れば、2012年には「桜流し」があった。

 

 


宇多田ヒカル - 桜流し(Short Ver.)

 

もし今の私を見れたなら どう思うでしょう
あなた無しで生きてる私を

もう二度と会えないなんて 信じられない
まだ何も伝えてない まだ何も伝えてない

 

この曲も、やはり死別のモチーフを持った曲だ。「真夏の通り雨」と同じく、その渦中にあることを強烈に感じさせる。

 

今、宇多田ヒカルは次作のアルバムを制作中だという。おそらく、これらの曲が収録されるだろう。たぶん、とてつもなく素晴らしいものになるのは間違いないと思う。ただ、この新作が、今の日本でどう受け止められるのか? そこに関しては正直、まだ未知数という気もしている。

 

宇野維正さんは著書『1998年の宇多田ヒカル』の中でこう書いている。

 

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

 

 

 このような本の最後には、音楽シーンの未来に向けて明るい提言の一つでもしておくべきなのかもしれないが、日本のメインストリームの音楽に関して言うなら、自分はもうほとんど何も期待していない。宇多田ヒカルの曲で「BLUE」と並んで最も好きな曲「テイク5」の歌詞を引用させてもらうなら、今は「絶望も希望もない、空のように透き通っていたい」といった心境だ。

 実を言うと、ほんの少し前まで希望はあった。知人や同業者と現在の日本のポップ・ミュージックについて語り合う際にも、その希望をよく口にしていた。

「宇多田ヒカルが戻ってきたら、きっと日本の音楽シーンはまたガラッと変わるよ」

 しかし、宇多田ヒカルの復活が現実のものとして近づいてきた今、もう無邪気にそんなことを言っている場合ではなくなってきた。

 

最愛の母の死、再婚、初の出産を経て世に送り出す新たな音楽。きっと、それはこれまでの宇多田ヒカルの名曲の数々をすべて塗り替えてしまうような、まったく別次元のものになっているに違いない。

 しかし、現在の日本の貧しい音楽シーンと、その貧しさにすっかり慣れきっているリスナーが、それを受け止めることができるだろうか?

 

引用させてもらった中にある「知人や同業者」に僕は入るだろうし、どこかで宇野さんとも実際にそんな会話をした覚えもある。

 

ただし、僕は上記の文には、はっきりと同意することはできない。日本の音楽シーンやリスナーの感性が「貧しくなっている」とは僕は思わないし、もし仮にそうだとするならば、それはうねりのように様々な様相を示しながら流れていく時代、テクノロジーの進歩や情報の流路や、人々の価値観が少しずつ変わっていく必然の中で「その場所に立ったらそう見える」だけにすぎないのではないだろうか。

 

それでも、こう思う。

 

振り返れば、2010年代の前半のJ-POPを巡るムードは「拡散の時代」「グループの時代」だった。SNSの普及で情報の流れ方が「マス」から「多対多」に変容し、ポップの担い手は「個」から「集団」に移り変わった。

 

そして、ここ数年、ポップ・ミュージックは「死」を描いてこなかった。誰もが向き合うものでありながら、それはヒットチャートからは追いやられてきた。その理由は簡単で、孤独の中で噛みしめる思いは「みんなで声を合わせて歌う」アイドルグループや、ダンス&ヴォーカルグループのアートフォームにはそぐわないから。

 

しかし、宇多田ヒカルはずっと、そして今はなお一層、孤独だ。