日々の音色とことば

usual tones and words

lyrical school「RUN and RUN」の縦型MVは何が革新的だったのか

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今日の話は、lyrical schoolのメジャーデビュー曲「RUN and RUN」のミュージック・ビデオについて。スマートフォンでの再生を前提に「再生するとスマホがジャックされる」というギミックを込めた映像。こいつが素晴らしい。

 

というわけで、まずは動画を。

 

vimeo.com

 

最高ですね。これがSNSでぶわーっと拡散されて、ハフィントン・ポストとかKAI-YOUでも紹介されて、話題を呼んでいる。

 

www.huffingtonpost.jp

  

kai-you.net

 

アイドルファンとか、彼女たちの名前を知らない人にも届いてる。海外の有名動画メディア「The Verge」にも紹介されて、あっという間に国境を超えてしまった。

 

www.theverge.com

 

いろんな紆余曲折があったグループだけど、メジャーデビューのタイミングでこれだけの反響を巻き起こしたのは、ほんとアイディアの勝利、クリエイティブの勝利だな、と思う。

 

■「スマホ向けMV」だから革新的なわけじゃない

 

ただし。ここで指摘しておきたいのは、この動画が新しいのは、単に「スマホ向けMV」だからじゃない、ということ。

 

sirabee.com

 

「斬新」とか「革新的」と言われてるけど、先例は沢山ある。

 

たとえば、秦 基博『聖なる夜の贈り物』のMV。こちらは昨年12月にC CHANNELで公開された。

 

www.cchan.tv

 

倖田來未の「On And On」もスマホ向けのタテ型動画になっている。こちらは今年1月の公開。

 

www.youtube.com

 

自撮りっぽいアングルが多用されているのは、FaceTimeやSkypeっぽい演出と言える。手の中で映像や写真を見るというスマホのアーキテクチャを活かしたものだと思う。

 

(横向きだけど)「スマホのUIを模する」というアイディアも、KOHHの「Fuck Swag (REMIX) feat. ANARCHY, 般若」で、すでに披露されている。これは2014年10月の公開。

 

www.youtube.com

 

また、ケイティー・ペリーの「Roar」のリリック・ビデオでは、歌詞がメッセージアプリ「What's Up」上の会話のように表示される。これは2013年。

 

www.youtube.com

 

LINEのトーク画面を模したMVもある。たとえば、女性シンガーソングライター、あいみょんのデビュー曲「貴方解剖純愛歌 〜死ね〜」がそう。

 

www.youtube.com

 

 

■スマホはコンテンツへの没入を疎外する

 

「スマホ向けMV」に関しては、タテ型にしても、スマホUIを模した仕掛けにしても、先例が沢山あるわけなのである。では、今回リリスクの「RUN and RUN」のミュージックビデオは何が新しかったのか。何がバズに繋がったアイディアのクリティカルな部分だったのか。

 

それも、先行例とくらべるとわかってくる。というか、以下の記事がその先行事例を「没入型コンテンツ」とまとめていたので、「なるほど、そういうことか」とわかった感じ。

 

リスクの縦型ミュージックビデオで盛り上がる”没入型”コンテンツ

https://thebigparade.themedia.jp/posts/694671

 

秦基博や倖田來未などのMVになくて、リリスクのビデオにあるもの。それはインタラプト(割り込み)。画面上部にアプリ通知が出てきて、それをきっかけにどんどん別のアプリに移り変わっていく。いちいちiPhoneのホーム画面に戻ったりもする。そのアイディアをもとにした演出が、縦型ミュージック・ビデオを「没入型コンテンツ」として制作している他の動画との違いになっている。

 

スマートフォンで何かのコンテンツを見ているときは、それが機上でもないかぎり「没入」は難しい。映像を見ているときも、文章を呼んでいるときも、SNSやチャットアプリで誰かとコミュニケーションをとっているときもそう。別のアプリの通知によって、集中は常に疎外される。そういうアーキテクチャへの批評性がフックになっている。

 

つまり、これ、「スマホあるある」なわけである。

 

ネットからの情報収集が主になると、情報を右から左にさばく能力は発達するが、その一方で集中力は持続しなくなる。長文の読解能力が衰え、ものごとを深く考えることができなくなる。そう指摘したのはニコラス・G・カーだった。

 

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

 

 これは2010年の本なので、もう6年前の話。『ネット・バカ』というタイトルよりも、原題の『The Shallows』(浅瀬)という言葉の方が内容を象徴している。つまり、あふれかえる情報を処理するために思考や記憶が浅瀬にとどまり、深く沈潜することをやめてしまう傾向が生まれてきている、という話。

 

この本が出て数年が経過して、いよいよその傾向は加速している。スマートフォンを日常的に使っている以上、そこからはなかなか逃れられない。

 

どうやってコンテンツに「没入」させるか。それはスマートフォンの次の時代を見据えての、これから先の課題。

 

まあ、何はともあれ、そういう面倒くさいことをいろいろ考えなくても、楽しそうに歌って踊ってラップしてるリリスクの6人観てるだけで幸せですよね。

停滞をどう生きるかーー堀江貴文『君はどこにでも行ける』書評

君はどこにでも行ける

 

堀江貴文の新刊『君はどこにでも行ける』を読んだ。

 

とてもおもしろかった。ところどころで食い足りないところ、同意できないなあと思うところはあるけれど、ひとつの考え方として参考になる部分は沢山ある。

 

激変する世界、激安になる日本。
出所から2年半、世界28カ国58都市を訪れて、ホリエモンが考えた仕事論、人生論、国家論。

観光バスで銀座の街に乗り付け、〝爆買い〟する中国人観光客を横目で見た時、僕たちが感じる寂しさの正体は何だろう。アジア諸国の発展の中で、気づけば日本はいつの間にか「安い」国になってしまった。
日本人がアドバンテージをなくしていく中、どう生きるか、どう未来を描いていくべきか。刑務所出所後、世界中を巡りながら、改めて考える日本と日本人のこれから。
装画はヤマザキマリ。

〈目次〉
はじめに 世界は変わる、日本も変わる、君はどうする
1章 日本はいまどれくらい「安く」なってしまったのか
2章 堀江貴文が気づいた世界地図の変化〈アジア 編〉
3章 堀江貴文が気づいた世界地図の変化〈欧米その他 編〉
4章 それでも東京は世界最高レベルの都市である
5章 国境は君の中にある
特別章 ヤマザキマリ×堀江貴文[対談] 無職でお気楽なイタリア人も、ブラック労働で 辛い日本人も、みんなどこにでも行ける件
おわりに

 

 

上記が出版社の内容紹介。

 

ただ「世界中を巡りながら、改めて考える日本と日本人のこれから」ーーとは言っても、アジアやヨーロッパなど各国を旅した旅行記にあたる第2章と第3章あたりの部分は軽いエッセイみたいな内容で、あの国は女の子がかわいいとか、メシが美味いとか、富裕層向けのサービスがすごいとか、景気がいいとか悪いとか、そういうことが主に書いてある。

 

で、第1章と第4章と第5章は、めざましく経済が発展するアジア諸国を脇目にいつのまにか「安い」国になってしまった日本と、そこで暮らす人々の展望について書いてある。

 

もともとはアイドル誌の連載をもとに加筆して再構成したということで、社会批評かと思ったら旅エッセイが始まって、最終的には自己啓発に辿り着く、不思議なテイストの読み応えになっている。

 

ただ、それでもブレを感じないのは基本的にこの人の考え方とモノの見方にひとつの軸が通っているからだよなあ、とも思う。

 

■どうすれば「排外」に染まらずにいられるか

 

で、おもしろいと思ったのは、この本にある「成長」とか「衰退」をめぐるスタンス。

 

「はじめに」で、平田オリザさんがポリタスに寄稿した「三つの寂しさと向き合う」という論考が引用されている。

 

私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ここに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がっきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。


一つは、日本は、もはや工業立国ではないということ。 


もう一つは、もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。 


そして最後の一つは、日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないということ。
(中略)
私たちはこれから、「成熟」と呼べば聞こえはいいけれど、成長の止まった、長く緩やかな衰退の時間に耐えなければなりません。

  

こう書く平田オリザさんに対して、堀江貴文さんは、こう返す。

 

 なるほどと思った。グローバリズムが台頭するなか、日本人が向き合うべき問題が、ここに集約されている。

 でも、実は、これは暗い話ではないと思う。僕はこの事態をまったく悲観していない。一度、思い込みを取り払って考えよう。

 確かに経済の衰退は痛みを伴うことだろう。しかし、少子高齢化を迎えた国家が、経済力を失うのは、必然と言っていい。かつてヨーロッパは、日本より早く近代化し、その後、経済的に没落した。

 まだなにかを諦めるほど、日本は貧しくない。過去に築いたインフラや文化資本の蓄積もある。日本の経済力は衰えても、世界規模で見ても珍しいほど好条件が揃っている。

 下り坂には下り坂のいいところがある。円安は是か非か。外国人観光客が増えることは是か非か。外国企業に買収されることは是か非か。 


 衰退の“寂しさ”に流されず、冷静に状況を観察したらいいだけのことだ。しかも、日本は驀進する中国の隣にいて、チャイナマネーを呼び込める地の利がある。

 

一見すると対立する物言いのように見えて、実は根っこの部分では共通したところがある。

 

それは何かと言うと、「長期停滞の時代をどう生きるか」という話。で、これはたぶん、日本だけじゃなくてアメリカもヨーロッパ各国も向き合わざるを得ない問題だよね、と思う。

 

新興国が台頭して、地球全体での富の平準化が進む。かつて先進国にもたらされた人口ボーナスによる高度成長の時代は再び戻らない。その結果として中産階級の解体が進む。移民の流入は増え、富裕層は富を蓄え、国内の格差は拡大する。

 

さて、どうするか。

 

わかりやすい兆候として表れるのは排外的な動きだと思う。アメリカのティーパーティーやトランプ現象も、フランスの国民戦線の拡大も、日本で起こっていることも、どこか共通している。「あいつらを叩きだせ」。

 

けれど、できれば憎しみで連帯したくない。

 

そうする人たちがいる、というのはわかる。これまで不利益を被っていたマイノリティー層が機会を得るというのは社会に多様性をもたらすけれど、それは同時に「すでに椅子に座っていた人」や「その椅子は自分のものだと思ってた人」にとっては舌打ちしたくなるようなことではある、とも思う。あと、社会の多様性それ自体を心の底では望んでいない人たちも沢山いるんだろうなあ、とも思う。同質性の高い集団で心地よく伸び伸びと暮らし、いわゆるカッコつきの「協調性」(日本の特に教育現場ではこの言葉と同調性を混用している人が本当に多い)を育んできた人ほど、異質な他者への攻撃性を持っていたりする。

 

でもまあ、普通に考えて排外主義というのは格好わるいよね、とは思う。

 

で、話を戻すと、平田オリザさんの「三つの寂しさと向き合う」も、堀江貴文さんの『君はどこにでも行ける』も、そうやって閉塞感が強まる中で排外的な風潮が社会の大勢を握るのはヤバいよね、ということで、そうならないための処方箋としての文章を書いているように思う。

 

というか、それがそのままタイトルに表れている。

 

平田オリザさんは「寂しさを受け入れ、長く緩やかな衰退の時間に耐えなければなりません」と言う。一方、堀江貴文さんは「頭のなかの国境を消そう。そうすれば、君はどこにでも行ける」と言う。

 

対極的な二つの解。つまり停滞をどう生きるかという問いに、身をすくめよと答えるのが平田オリザさんで、そこがイヤなら別の場所に行けばいいじゃん?と答えるのが堀江貴文さん、という風に受け取れる。この二つだったら、個人的には後者の考え方のほうが風通しがよくて好きかな。

 

■物好きであるということ
 

あとはもう一つ 、「停滞をどう生きるか」という問いに対する解として、「物好きであれ」というのもある、と思っている。本書の中でもちょっとそれは示唆されている。

 

「物好き」とはどういうことだろう。

 

ニシキゴイの文化は江戸時代後期に生まれた。始まりは越後の奇特な人たちの趣味だったという。

 

日本人は昔からコイを飼ってきた。(中略)たまに黒くないコイが生まれると、食べずに捨てた。それを「百数十年前の江戸時代、この地域の物好きな人たちが観賞用として育て始めた」と、東京大学東洋文化研究所の菅豊教授はニシキゴイの始まりを説明する。

 

www.nikkei.com

 

僕はわりとこのエピソードが好きで、江戸時代いいな、と思ってしまう。物好きな人は、それまで価値がないと思われていることに血道をあげたりする。微細な差異に情熱を燃やす。

 

で、アイドルやアニメやお笑いや音楽など、日本のサブカルチャーの中で目立つものがどうもそっち側に向かっているような気がする。『おそ松さん』に江戸化を感じたりする。

 

でもまあ、この話はまたどこかでいずれ。

 

 

 

君はどこにでも行ける

君はどこにでも行ける

 

 

 

なぜこの巨大な悪意に、誰も気付かないのだろう。――『ドルフィン・ソングを救え!』書評

 

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今回は樋口毅宏さんの小説『ドルフィン・ソングを救え!』について。

 

献本いただいたんだけど、発売日に買って読みました。とても面白かったし、最後にさらっと仕掛けられた鋭い針のようなものに痺れたんだけれど、周囲の反響を見てると「あれ? この部分みんなスルーするの?」と思ったので、ブログに書いておきます。なのでネタバレありです。未読の方はご注意を。でも発売から数ヶ月経ったし、そろそろいいでしょ。

 

■あの時代へのタイムスリップ

ドルフィン・ソングを救え!

 

 

小説の主人公は45歳、結婚経験なし、子供なしのフリーター「前島トリコ」。2019年に睡眠薬を飲んで自殺を図った元オリーブ少女の彼女がタイムスリップするところからストーリーは始まる。向かった先は1989年。「私にはこの時代でやるべきことがある」と考えた彼女は、かつて青春を捧げたバンド「ドルフィン・ソング」を破局から救い出すために、奔走を始める。

 

――というのが大筋のストーリー。

 

誰もが指摘するように、このドルフィン・ソングというのは、フリッパーズ・ギターのことを指している。あの時代を知っている人ならみんなわかる。小説に登場する「島本田恋」と「三沢夢二」は、小山田圭吾と小沢健二のこと。90年代の渋谷系を象徴する二人のスター。その他にも、『オリーブ』や『宝島』や『ロッキング・オン』や、あの頃のサブカルを彩った沢山のワードが頻出する。

 

そして、帯には小説家の林真理子が書いたこんなコメントが踊る。

 

「めちゃくちゃの面白さ。私たちの80年代をこんなにもてあそんでいいのか! この天才野郎!」

 

だから、小説の感想には「懐かしくて楽しかった」という言葉が並ぶ。

 

こんな感じ。

 

1989年って よく知っている時代だもんな 街がキラキラしてた時代の空気感が懐かしい

 

岡崎京子が表紙でフリッパーズギターの話しならまず飛びつく。45歳担ったファンがあのバブルの時代へタイムスリップしてとある事件の阻止をくわだてる。80年代のリアルな人名がばんばんとびだし大変楽しいタイムマシンはドラム式を思わせる

 

内容はバブルへGO的なんだけど実在の音楽誌や編集者の名前がバンバン出てきて楽しい。

 

 

bookmeter.com

 

確かにそんなふうにも読める。でも、なんか、むず痒いのだ。「え? ほんとにサブカル版『バブルへGO!』でいいの?」って感じ。

 

僕はむしろこの小説を「パンク小説」として受け取った。読了後の感想はこれ。

 

  

 

  

曽我部恵一さんがフリッパーズ・ギターについて語っていたこの言葉、

 

「みんなはお洒落でキュートな二人組だと盛り上がってたけど、僕は彼らのことを正しいパンクのあり方だと感じていた。自分だけがそれをわかってると思っていた」

 

の方が、むしろ近いんじゃないかと思ったのだ。

 

■サンプリングには二種類のものがある

 

というか、そもそも、その前に書いておくべきことがある。

 

樋口毅宏という作家とフリッパーズ・ギターというバンドについては、持論がある。以前に『テロルのすべて』の文庫版で書かせてもらったこともある。

 

 

テロルのすべて (徳間文庫)

テロルのすべて (徳間文庫)

 

 

 

あそこに書いた文章は、自分がこれまでに書いたものの中でも、とても大切な文章の一つ。以下引用。

 

「あなたの書いている小説は『ヘッド博士の世界塔』ですよね?」

 僕が樋口毅宏氏に初めて会ったのは、この『テロルのすべて』についてのインタヴュー取材の場でのこと。そのときの第一声がこれだった。何より最初にそのことを伝えないといけないし、その前提を共有しないと話が始まらないと思ったからだった。

 『ヘッド博士の世界塔』とは、小沢健二と小山田圭吾の二人組フリッパーズ・ギターが91年に発表した3枚目のアルバムのこと。90年代屈指の名盤として長く語り継がれているこのアルバムは、全編にわたってサンプリングの手法が駆使されている。ビーチ・ボーイズ、ルー・リード、スライ&ファミリー・ストーン、プライマル・スクリーム、ストーン・ローゼズ……。過去のロックやポップスの巨匠、同時代の海外のロックバンド、そしてほとんど誰も知らないマニアックなポップソングまで。様々なフレーズがサンプリングされ、切り刻まれ、コラージュされ、再構築されて、一つの巨大な音楽絵巻として結実している。

 樋口毅宏という作家も、サンプリングを多用し、引用やオマージュやパスティーシュを駆使した小説を書いている。その膨大な影響元を巻末に列記していたりもする。また、デビュー作『さらば雑司ケ谷』には、登場人物たちが「絶望大王」タモリを引き合いに出しながら、小沢健二のすごさについて語り合うという、後の『タモリ論』執筆のきっかけに繋がった有名な一節もある。ついでに言えば、僕自身は、たびたび樋口毅宏氏の影響元リストにも上がる『ロッキング・オン』という音楽雑誌で編集者とライターをしていた人間で、世代は少し下になるけれど、同じ日本の音楽文化を吸収してきた自負もある。一言でいろんなことが伝わると思った。

 ただし。重要なのは、サンプリングしてるから、引用やオマージュを繰り広げてるから、樋口毅宏氏の小説を『ヘッド博士の世界塔』になぞらえたわけじゃない、ということ。そんな単純な話じゃない。

 サンプリングには二種類のものがある。それは「身を飾るため」のサンプリングと、「自分を救うため」のサンプリングだ。前者は誰もがやっている。自分のセンスを見せつけたり、最先端のスタイルを取り入れたり、「こんなのも知ってますよ」と知識で武装したり。つまりは「自分を格好よく見せるため」のサンプリング。悪いことじゃない。特に情報量の多い今の時代には必須のスキルだ。

 しかし、後者には安易に手を出しちゃいけない。何故なら「壊れてしまう」から。引用やオマージュ元を、自分を武装するためではなく、それによって自分自身の心や精神や信条や、とにかく柔らかくて大事な部分を支えるものとして表現に取り組むと、グループは解散したり、ストップしてしまう。ポップミュージックの歴史がそのことを証明している。『ヘッド博士の世界塔』をリリースした直後にフリッパーズ・ギターは解散した。アルバムのオープニングは、ビーチ・ボーイズの「ゴッド・オンリー・ノウズ」の引用から始まる。そこで歌われる「ほんとのこと知りたいだけなのに 夏休みはもう終わり」という言葉は、つまりは「行き止まり」の示唆だ。そして、その元ネタである「ゴッド・オンリー・ノウズ」の入ったアルバム『ペット・サウンズ』を66年に発表したブライアン・ウィルソンは、「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー」として次作『スマイル』の制作に入るが、結局、それは頓挫してしまう。

 ときに誇大妄想に突き動かされたり、ときに巨大な虚無と対峙したり、そんなふうに精神の荒波を乗り越えながら、ところどころで自分の本当に好きなものと自分自身が繋がってるように感じられる小さな点を紡いでいく。そういう類の創作活動が「自分を救うためのサンプリング」であり、それが『ヘッド博士の世界塔』と樋口毅宏氏の小説に共通するポイントだと思っている。

 

(ちなみに、この後に続く解説の後半では、作品に重ね合わせて、19歳の時に自死を選んだ僕の中高時代の同級生のことを書いています。もしよかったら書店で手にとって読んでみてください)

 

つまり僕が思ったのは『ドルフィン・ソングを救え!』を「前者のサンプリング」として読んでる人が、あまりに多すぎるんじゃないだろうか、ということ。

 

■騙された気分はどうだい?

 

で、以下は結末部のネタバレを含む話。

 

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