日々の音色とことば

usual tones and words

なぜこの巨大な悪意に、誰も気付かないのだろう。――『ドルフィン・ソングを救え!』書評

 

f:id:shiba-710:20160116170804j:plain

 

今回は樋口毅宏さんの小説『ドルフィン・ソングを救え!』について。

 

献本いただいたんだけど、発売日に買って読みました。とても面白かったし、最後にさらっと仕掛けられた鋭い針のようなものに痺れたんだけれど、周囲の反響を見てると「あれ? この部分みんなスルーするの?」と思ったので、ブログに書いておきます。なのでネタバレありです。未読の方はご注意を。でも発売から数ヶ月経ったし、そろそろいいでしょ。

 

■あの時代へのタイムスリップ

ドルフィン・ソングを救え!

 

 

小説の主人公は45歳、結婚経験なし、子供なしのフリーター「前島トリコ」。2019年に睡眠薬を飲んで自殺を図った元オリーブ少女の彼女がタイムスリップするところからストーリーは始まる。向かった先は1989年。「私にはこの時代でやるべきことがある」と考えた彼女は、かつて青春を捧げたバンド「ドルフィン・ソング」を破局から救い出すために、奔走を始める。

 

――というのが大筋のストーリー。

 

誰もが指摘するように、このドルフィン・ソングというのは、フリッパーズ・ギターのことを指している。あの時代を知っている人ならみんなわかる。小説に登場する「島本田恋」と「三沢夢二」は、小山田圭吾と小沢健二のこと。90年代の渋谷系を象徴する二人のスター。その他にも、『オリーブ』や『宝島』や『ロッキング・オン』や、あの頃のサブカルを彩った沢山のワードが頻出する。

 

そして、帯には小説家の林真理子が書いたこんなコメントが踊る。

 

「めちゃくちゃの面白さ。私たちの80年代をこんなにもてあそんでいいのか! この天才野郎!」

 

だから、小説の感想には「懐かしくて楽しかった」という言葉が並ぶ。

 

こんな感じ。

 

1989年って よく知っている時代だもんな 街がキラキラしてた時代の空気感が懐かしい

 

岡崎京子が表紙でフリッパーズギターの話しならまず飛びつく。45歳担ったファンがあのバブルの時代へタイムスリップしてとある事件の阻止をくわだてる。80年代のリアルな人名がばんばんとびだし大変楽しいタイムマシンはドラム式を思わせる

 

内容はバブルへGO的なんだけど実在の音楽誌や編集者の名前がバンバン出てきて楽しい。

 

 

bookmeter.com

 

確かにそんなふうにも読める。でも、なんか、むず痒いのだ。「え? ほんとにサブカル版『バブルへGO!』でいいの?」って感じ。

 

僕はむしろこの小説を「パンク小説」として受け取った。読了後の感想はこれ。

 

  

 

  

曽我部恵一さんがフリッパーズ・ギターについて語っていたこの言葉、

 

「みんなはお洒落でキュートな二人組だと盛り上がってたけど、僕は彼らのことを正しいパンクのあり方だと感じていた。自分だけがそれをわかってると思っていた」

 

の方が、むしろ近いんじゃないかと思ったのだ。

 

■サンプリングには二種類のものがある

 

というか、そもそも、その前に書いておくべきことがある。

 

樋口毅宏という作家とフリッパーズ・ギターというバンドについては、持論がある。以前に『テロルのすべて』の文庫版で書かせてもらったこともある。

 

 

テロルのすべて (徳間文庫)

テロルのすべて (徳間文庫)

 

 

 

あそこに書いた文章は、自分がこれまでに書いたものの中でも、とても大切な文章の一つ。以下引用。

 

「あなたの書いている小説は『ヘッド博士の世界塔』ですよね?」

 僕が樋口毅宏氏に初めて会ったのは、この『テロルのすべて』についてのインタヴュー取材の場でのこと。そのときの第一声がこれだった。何より最初にそのことを伝えないといけないし、その前提を共有しないと話が始まらないと思ったからだった。

 『ヘッド博士の世界塔』とは、小沢健二と小山田圭吾の二人組フリッパーズ・ギターが91年に発表した3枚目のアルバムのこと。90年代屈指の名盤として長く語り継がれているこのアルバムは、全編にわたってサンプリングの手法が駆使されている。ビーチ・ボーイズ、ルー・リード、スライ&ファミリー・ストーン、プライマル・スクリーム、ストーン・ローゼズ……。過去のロックやポップスの巨匠、同時代の海外のロックバンド、そしてほとんど誰も知らないマニアックなポップソングまで。様々なフレーズがサンプリングされ、切り刻まれ、コラージュされ、再構築されて、一つの巨大な音楽絵巻として結実している。

 樋口毅宏という作家も、サンプリングを多用し、引用やオマージュやパスティーシュを駆使した小説を書いている。その膨大な影響元を巻末に列記していたりもする。また、デビュー作『さらば雑司ケ谷』には、登場人物たちが「絶望大王」タモリを引き合いに出しながら、小沢健二のすごさについて語り合うという、後の『タモリ論』執筆のきっかけに繋がった有名な一節もある。ついでに言えば、僕自身は、たびたび樋口毅宏氏の影響元リストにも上がる『ロッキング・オン』という音楽雑誌で編集者とライターをしていた人間で、世代は少し下になるけれど、同じ日本の音楽文化を吸収してきた自負もある。一言でいろんなことが伝わると思った。

 ただし。重要なのは、サンプリングしてるから、引用やオマージュを繰り広げてるから、樋口毅宏氏の小説を『ヘッド博士の世界塔』になぞらえたわけじゃない、ということ。そんな単純な話じゃない。

 サンプリングには二種類のものがある。それは「身を飾るため」のサンプリングと、「自分を救うため」のサンプリングだ。前者は誰もがやっている。自分のセンスを見せつけたり、最先端のスタイルを取り入れたり、「こんなのも知ってますよ」と知識で武装したり。つまりは「自分を格好よく見せるため」のサンプリング。悪いことじゃない。特に情報量の多い今の時代には必須のスキルだ。

 しかし、後者には安易に手を出しちゃいけない。何故なら「壊れてしまう」から。引用やオマージュ元を、自分を武装するためではなく、それによって自分自身の心や精神や信条や、とにかく柔らかくて大事な部分を支えるものとして表現に取り組むと、グループは解散したり、ストップしてしまう。ポップミュージックの歴史がそのことを証明している。『ヘッド博士の世界塔』をリリースした直後にフリッパーズ・ギターは解散した。アルバムのオープニングは、ビーチ・ボーイズの「ゴッド・オンリー・ノウズ」の引用から始まる。そこで歌われる「ほんとのこと知りたいだけなのに 夏休みはもう終わり」という言葉は、つまりは「行き止まり」の示唆だ。そして、その元ネタである「ゴッド・オンリー・ノウズ」の入ったアルバム『ペット・サウンズ』を66年に発表したブライアン・ウィルソンは、「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー」として次作『スマイル』の制作に入るが、結局、それは頓挫してしまう。

 ときに誇大妄想に突き動かされたり、ときに巨大な虚無と対峙したり、そんなふうに精神の荒波を乗り越えながら、ところどころで自分の本当に好きなものと自分自身が繋がってるように感じられる小さな点を紡いでいく。そういう類の創作活動が「自分を救うためのサンプリング」であり、それが『ヘッド博士の世界塔』と樋口毅宏氏の小説に共通するポイントだと思っている。

 

(ちなみに、この後に続く解説の後半では、作品に重ね合わせて、19歳の時に自死を選んだ僕の中高時代の同級生のことを書いています。もしよかったら書店で手にとって読んでみてください)

 

つまり僕が思ったのは『ドルフィン・ソングを救え!』を「前者のサンプリング」として読んでる人が、あまりに多すぎるんじゃないだろうか、ということ。

 

■騙された気分はどうだい?

 

で、以下は結末部のネタバレを含む話。

 

 

結局、最後に「ドルフィン・ソング」のカタストロフを防ぐことができなかった主人公のトリコは、今度はアメリカに向かう。シアトルで世界的なスターとなりつつあるロックスターのもとへ。カート・コバーンのことだろう。

 

でも、そのラストの数ページ前に、年表形式で記述された箇所がある。95年に阪神大震災と地下鉄サリン事件、01年にニューヨーク同時多発テロ事件、2011年に東日本大震災……。そういういくつかの記述に続いて、最後に

 

201X年 日中戦争開戦

 

と、ある。読んでいて「え?」となった。

 

小説が書かれたのは2015年だが、物語の舞台となるのは2019年だ。つまり、この小説のスタート地点は「戦時下の日本」ということになる。

 

その予言が実現するかどうかはどうでもよくて、その前提を踏まえた上で、この小説を再読すると、いろんな読後感がオセロのようにひっくり返る。冒頭の、自分の人生の展望のなさに絶望するというくだりも、89年にタイムスリップして「私にはやるべきことがある」と確信するくだりも。「戦時下なのに」と留保をつけると状況が変わる。

 

スリランカの内戦に巻き込まれて死亡した人権活動家の両親の元に育ち、オリーブ少女として思春期を過ごした主人公のトリコは、日中戦争が起こってしまった2019年でも、そこからタイムスリップした89年でも、徹底的にノンポリだった。「戦争」の「せ」の字もなかった。ただただ、ドルフィン・ソングを追いかけていた。

 

「めちゃくちゃの面白さ。私たちの80年代をこんなにもてあそんでいいのか! この天才野郎!」

 

正直、上記の林真理子さんの帯文は、何重にもミスリードの役割を果たしていると思う。

 

一つは、物語の舞台は89年だけれど、そこに描かれている感性はすでに80年代のものではなかった、ということ。そして、もう一つは、この小説の底のほうに流れている今の時代に対する真っ当な批判精神と、情報の奔流に踊らされる人たちへの、自嘲も含む巨大な「悪意」を覆い隠している、ということ。

 

いっぱしに批評家を気取り、アマゾンのレビューに投稿する。たまに「参考になった」に投票があって、ちょっと嬉しくなる。だけど現実は何もない自分。痛い痛い痛い自分。

 

押し潰されそうな焦燥感に苛立つと、決まって私はネットを覗く。そこは敗残者の群れだ。こいつらは仲間だ。限りなく似た者同士。

 

冒頭のシーンに描かれたこの描写が、この小説を巡る外部の状況、それこそ「懐かしい」「楽しい」という感想や、逆に「ぜんぜん懐かしい気持ちにもならなかった」という感想を低評価の理由にしているamazonの読者レビュー欄に突き刺さる鋭い「針」として機能する。

 

だから、僕がこの小説を読み終えた時に思い浮かんだ一つの言葉は、セックス・ピストルズが解散したときにジョニー・ロットンが言った、この有名なセリフだったのだ。

 

 

騙された気分はどうだい? 

 

 

ドルフィン・ソングを救え!

ドルフィン・ソングを救え!

 

 

 

さよなら小沢健二

さよなら小沢健二