堀江貴文の新刊『君はどこにでも行ける』を読んだ。
とてもおもしろかった。ところどころで食い足りないところ、同意できないなあと思うところはあるけれど、ひとつの考え方として参考になる部分は沢山ある。
激変する世界、激安になる日本。
出所から2年半、世界28カ国58都市を訪れて、ホリエモンが考えた仕事論、人生論、国家論。観光バスで銀座の街に乗り付け、〝爆買い〟する中国人観光客を横目で見た時、僕たちが感じる寂しさの正体は何だろう。アジア諸国の発展の中で、気づけば日本はいつの間にか「安い」国になってしまった。
日本人がアドバンテージをなくしていく中、どう生きるか、どう未来を描いていくべきか。刑務所出所後、世界中を巡りながら、改めて考える日本と日本人のこれから。
装画はヤマザキマリ。〈目次〉
はじめに 世界は変わる、日本も変わる、君はどうする
1章 日本はいまどれくらい「安く」なってしまったのか
2章 堀江貴文が気づいた世界地図の変化〈アジア 編〉
3章 堀江貴文が気づいた世界地図の変化〈欧米その他 編〉
4章 それでも東京は世界最高レベルの都市である
5章 国境は君の中にある
特別章 ヤマザキマリ×堀江貴文[対談] 無職でお気楽なイタリア人も、ブラック労働で 辛い日本人も、みんなどこにでも行ける件
おわりに
上記が出版社の内容紹介。
ただ「世界中を巡りながら、改めて考える日本と日本人のこれから」ーーとは言っても、アジアやヨーロッパなど各国を旅した旅行記にあたる第2章と第3章あたりの部分は軽いエッセイみたいな内容で、あの国は女の子がかわいいとか、メシが美味いとか、富裕層向けのサービスがすごいとか、景気がいいとか悪いとか、そういうことが主に書いてある。
で、第1章と第4章と第5章は、めざましく経済が発展するアジア諸国を脇目にいつのまにか「安い」国になってしまった日本と、そこで暮らす人々の展望について書いてある。
もともとはアイドル誌の連載をもとに加筆して再構成したということで、社会批評かと思ったら旅エッセイが始まって、最終的には自己啓発に辿り着く、不思議なテイストの読み応えになっている。
ただ、それでもブレを感じないのは基本的にこの人の考え方とモノの見方にひとつの軸が通っているからだよなあ、とも思う。
■どうすれば「排外」に染まらずにいられるか
で、おもしろいと思ったのは、この本にある「成長」とか「衰退」をめぐるスタンス。
「はじめに」で、平田オリザさんがポリタスに寄稿した「三つの寂しさと向き合う」という論考が引用されている。
私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ここに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がっきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。
一つは、日本は、もはや工業立国ではないということ。
もう一つは、もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。
そして最後の一つは、日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないということ。
(中略)
私たちはこれから、「成熟」と呼べば聞こえはいいけれど、成長の止まった、長く緩やかな衰退の時間に耐えなければなりません。
こう書く平田オリザさんに対して、堀江貴文さんは、こう返す。
なるほどと思った。グローバリズムが台頭するなか、日本人が向き合うべき問題が、ここに集約されている。
でも、実は、これは暗い話ではないと思う。僕はこの事態をまったく悲観していない。一度、思い込みを取り払って考えよう。
確かに経済の衰退は痛みを伴うことだろう。しかし、少子高齢化を迎えた国家が、経済力を失うのは、必然と言っていい。かつてヨーロッパは、日本より早く近代化し、その後、経済的に没落した。
まだなにかを諦めるほど、日本は貧しくない。過去に築いたインフラや文化資本の蓄積もある。日本の経済力は衰えても、世界規模で見ても珍しいほど好条件が揃っている。
下り坂には下り坂のいいところがある。円安は是か非か。外国人観光客が増えることは是か非か。外国企業に買収されることは是か非か。
衰退の“寂しさ”に流されず、冷静に状況を観察したらいいだけのことだ。しかも、日本は驀進する中国の隣にいて、チャイナマネーを呼び込める地の利がある。
一見すると対立する物言いのように見えて、実は根っこの部分では共通したところがある。
それは何かと言うと、「長期停滞の時代をどう生きるか」という話。で、これはたぶん、日本だけじゃなくてアメリカもヨーロッパ各国も向き合わざるを得ない問題だよね、と思う。
新興国が台頭して、地球全体での富の平準化が進む。かつて先進国にもたらされた人口ボーナスによる高度成長の時代は再び戻らない。その結果として中産階級の解体が進む。移民の流入は増え、富裕層は富を蓄え、国内の格差は拡大する。
さて、どうするか。
わかりやすい兆候として表れるのは排外的な動きだと思う。アメリカのティーパーティーやトランプ現象も、フランスの国民戦線の拡大も、日本で起こっていることも、どこか共通している。「あいつらを叩きだせ」。
けれど、できれば憎しみで連帯したくない。
そうする人たちがいる、というのはわかる。これまで不利益を被っていたマイノリティー層が機会を得るというのは社会に多様性をもたらすけれど、それは同時に「すでに椅子に座っていた人」や「その椅子は自分のものだと思ってた人」にとっては舌打ちしたくなるようなことではある、とも思う。あと、社会の多様性それ自体を心の底では望んでいない人たちも沢山いるんだろうなあ、とも思う。同質性の高い集団で心地よく伸び伸びと暮らし、いわゆるカッコつきの「協調性」(日本の特に教育現場ではこの言葉と同調性を混用している人が本当に多い)を育んできた人ほど、異質な他者への攻撃性を持っていたりする。
でもまあ、普通に考えて排外主義というのは格好わるいよね、とは思う。
で、話を戻すと、平田オリザさんの「三つの寂しさと向き合う」も、堀江貴文さんの『君はどこにでも行ける』も、そうやって閉塞感が強まる中で排外的な風潮が社会の大勢を握るのはヤバいよね、ということで、そうならないための処方箋としての文章を書いているように思う。
というか、それがそのままタイトルに表れている。
平田オリザさんは「寂しさを受け入れ、長く緩やかな衰退の時間に耐えなければなりません」と言う。一方、堀江貴文さんは「頭のなかの国境を消そう。そうすれば、君はどこにでも行ける」と言う。
対極的な二つの解。つまり停滞をどう生きるかという問いに、身をすくめよと答えるのが平田オリザさんで、そこがイヤなら別の場所に行けばいいじゃん?と答えるのが堀江貴文さん、という風に受け取れる。この二つだったら、個人的には後者の考え方のほうが風通しがよくて好きかな。
■物好きであるということ
あとはもう一つ 、「停滞をどう生きるか」という問いに対する解として、「物好きであれ」というのもある、と思っている。本書の中でもちょっとそれは示唆されている。
「物好き」とはどういうことだろう。
ニシキゴイの文化は江戸時代後期に生まれた。始まりは越後の奇特な人たちの趣味だったという。
日本人は昔からコイを飼ってきた。(中略)たまに黒くないコイが生まれると、食べずに捨てた。それを「百数十年前の江戸時代、この地域の物好きな人たちが観賞用として育て始めた」と、東京大学東洋文化研究所の菅豊教授はニシキゴイの始まりを説明する。
僕はわりとこのエピソードが好きで、江戸時代いいな、と思ってしまう。物好きな人は、それまで価値がないと思われていることに血道をあげたりする。微細な差異に情熱を燃やす。
で、アイドルやアニメやお笑いや音楽など、日本のサブカルチャーの中で目立つものがどうもそっち側に向かっているような気がする。『おそ松さん』に江戸化を感じたりする。
でもまあ、この話はまたどこかでいずれ。