日々の音色とことば

usual tones and words

cakesサービス終了と、この先の不安

cakesがサービスを終了する。

 

cakes.mu

 

正直、かなり寂しい思いはありますよ。もちろんメディアの世界は諸行無常であって、全ての場所やサービスが永続的に続くわけじゃないことはわかっている。紙と違ってウェブメディアのアーカイブ性が低いということも、わかってはいる。でも、「サービス終了後はすべての記事が閲覧できなくなります」というのは、やっぱり寂しい。

 

いろいろあったけれど、cakesは書き手として初期から携わったメディアプラットフォームだというのが大きいんだと思います。まだnote株式会社じゃなくて株式会社ピースオブケイクだったころ。今はもう辞めてしまった編集者の中島洋一さんとタッグを組んで企画を立てて始めた対談連載が「心のベストテン」だった。

cakes.mu

 

今調べてみたら、初回の記事は2014年。こんな風に始まってます。

 

音楽について語りたい。パァッと明るく話したい。「CDが売れない」とか「シーンの先行きはどうなるか」みたいな暗い話じゃなくて。なぜなら、日々いい曲がどんどん届いているから。年末恒例の「年間ベスト」だけじゃ物足りない。邦ロック、アイドル、洋楽、ボカロ、いろんなシーンに起こっているおもしろい動きを、がんがん紹介したい。熱く語らいたい。そういうところから話は始まりました。タイトルは「心のベストテン」。でも懐古的なトーンは一切なし。ダイノジ・大谷ノブ彦さんと、お互い「今はこの曲だ!」と思うものを持ち寄って、ぶっ続けの音楽談義。ぜひぜひ、聴きながら読んでみてください。

 

 

最初に取り上げてるのがファレル・ウィリアムスの「ハッピー」。もはや懐かしい。

 

www.youtube.com

 

その後、「心のベストテン」はCINRAに移籍した時期があったり。

 

www.cinra.net

 

www.cinra.net

 

その後はフジテレビの地上波に進出したり、YouTubeチャンネル「8.8 channel」に進出したりしながら、座組み自体は2022年の今も続いております。

 

www.youtube.com

わりと、自分にとって思い入れの強い座組みなんですよね。

 

他にも『初音ミクはなぜ世界を変えたのか』や『ヒットの崩壊』を出したときには全文公開をやらせてもらったり、オリジナルの対談記事やインタビューをやったり、いろいろ関わってきたメディアで。

 

それだけに、つらい気持ちはある。「サービス終了のお知らせ」には

 

原稿はクリエイターの方のものですので、お問い合わせいただき次第、クリエイターの方々それぞれのご要望をお伺いしながら、原稿のお渡しなどの対応を順次進めてまいります。

 

 

とあるので、自分としても原稿は引き取らせてもらおうとは思いますが。とはいえ、自分ひとりで書いたコラムやエッセイと違って、対談記事やインタビュー記事というのは相手があっての共同作業であり自分だけが権利を持っているものではないので、どうしようかなというのも思ったり。

 

で、もうひとつ。SlowNewsの終了のお知らせもあって。

slownews.com

こちらも自分が書き手としてがっつりコミットしているプラットフォームなので、正直、キツい気持ちは大きいです。

 

特にこっちのほうは現在進行形で連載をやってきていたので、それをどうするかについては、まさに考えねばならぬところ。

 

 

最後に本音を言うと。

 

正直、これを機会に、noteというサービスを使い続けていくことに不安を持っているというのは否めないです。

 

だって。

 

今後は、当社のミッションである「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする」に沿ってcakesで培ったノウハウを活かし、プラットフォーム事業のnoteをつうじて一層クリエイター支援を強化していきます。

 

 

とあるけれど。cakesは、ここ最近は、ずいぶん倫理的な面での問題を起こしていたメディアであって。その顛末はいちいち書かないけれど、その対応も書き手として「?」と思うところも多々あって。

 

たとえば、今回のサービス終了に関しても、書き手が真っ先に思うのは「自分の原稿はどうなるの?」っていうことで。そこへのアナウンスが「追記」としてなされている(たぶん問い合わせが沢山舞い込んで慌てて対応したんだと思う)ということにも、「えー?」と思ってしまう。普通に考えたら、「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする」ことをミッションに掲げ「クリエイター支援」を標榜する会社が、まず大事にすべきは書き手が安心して参加することのできるブランディングであると思うのだけれど。それを毀損してしまってない?とも思ったり。

 

加えて言うと、noteには現状、エクスポート機能もバックアップ機能もないわけで。ユーザーがそれを求めている声は当然サービス側に届いているし、何度かサービス側も開発に言及して、エディタのアップデートなんかもありながら、今日までリリースされていない。ということは、そこはあまり重視されていないんだなと思ってしまわざるを得ない。

 

はてさて、どうしたものか…。

リアリティショー化された戦争/オンライン演説のナラティブについて

3月23日。ウクライナのゼレンスキー大統領の日本の国会での初めてのオンライン演説を聞いた。移動中だったので電車の中でYouTubeのライブ配信を見た。

 

youtu.be

 

正直な感想として「これはすごい」と心底思った。今、アメリカやヨーロッパやいろんな国で起きている情動のさざ波のようなものの一端に触れた気がした。

 

言葉はとても強い力を持っている。それは実際に人を動かす。人は誰しもそれぞれの物語の中を生きていて、そのナラティブが折り重なっていく中で歴史が形作られる。

 

また、語りは言葉の持つ力を増幅させる。どんな声で、どんな口調で語られるのか。声に宿るトーンは、ときに語られる内容自体よりも強く聴き手の感情に作用する。

 

そして、マクルーハンが言うとおり、メディアとはメッセージである。どんな媒体を使って情報を伝えているかという、そのこと自体が時代の中で強いメッセージ性になる。今回の場合は「オンライン演説」ということがポイントで、もちろんその前提はLINEやWhatsAppやテレグラムのようなメッセージアプリの普及、コロナ禍を経て多くの人がオンラインでのコミュニケーションを経験したことにある。モニタの映像と音を通して遠隔地から喋っているわけだし、語義的には「tele-vision」なわけだけど、これが「テレビ演説」と言われないところにキーがある。僕自身そう言ってしまうと妙な違和感がある。「テレビ」というメディアが本質的に”一対多”の大衆伝達性を持つのに対して、メッセージアプリという「オンライン」メディアは本質的に電話の延長線上とも言える”一対一”、パーソン・トゥ・パーソンの親密性を持つ。

 

そういうことを踏まえて考えると、ゼレンスキーの決して声を張り上げず、力強くも低い声で静かに語りかけ、いわゆる”演説口調”にならない喋り方は、それ自体が強いメッセージ性を持っている。もちろん、手元の原稿を読んでいるような素振りは見せない。目線は真っ直ぐにカメラに向き続けている。丁寧に”一対一”の喋り方が選ばれていると感じる。

 

そのことが、各国でオンライン演説をした際の、それぞれの国の歴史や文化を踏まえたスピーチの内容にもつながっている。3月8日にイギリス、15日にカナダ、16日にアメリカ、17日にドイツ、20日にイスラエル、22日にイタリア、そして23日に日本。イギリスではシェークスピアやチャーチルの引用。アメリカでは真珠湾と9・11。ドイツではベルリンの壁への言及。それを踏まえて日本では何をどう語ったのか。

 

全文書き起こしがあった。

dot.asahi.com

www.ukrinform.jp

 

すごく練られた、とても巧みなものだった。

 

チェルノブイリ原子力発電所が武力で制圧されたということ。事故のあった原発周辺の封鎖区域をロシア軍の装甲車が放射性物質を巻き上げながら走っているということ。サリンなど化学兵器の攻撃の可能性があるということ。

 

その言葉自体は使わず、しかし日本に暮らす誰しもが東日本大震災と福島の原発事故やオウムの記憶を思い出し共有するであろう自国の危機への言及。「自分のふるさとへ戻らなければ、という気持ちをあなた方は理解していると確信している」という言葉。全般的な”感謝”のトーンと、「アジアのリーダー」という”持ち上げ”。制裁強化と戦後復興支援と国連改革への呼びかけ。「侵略の"津波"」という表現。日本文化への敬愛。

 

日本が置かれている状況と、そこに暮らす人々がどういう物語を生きているかを分析し把握した上で、何を語り、何を語らないかを綿密に選び取ったかのような内容に思えた。

 

加えて、あまり指摘されていないことだけれど、このスピーチの最初と最後は「距離をなくす」というリフレインによって成立している。

 

「両国の間には、8193kmの距離があります。経路によっては、飛行機で15時間もかかります。ただし、お互いの自由への思いに差はありません」という風に始まり、最後で「距離があっても、私たちの価値観はとても共通しています。ということは、もう距離がないということになります」と念を押す。

 

メディアはメッセージ。「もう距離はない」という語られた内容自体と「初のオンライン演説」という媒体形式が相似形を成している。

 

メディアやSNSを見ると、沢山の人が高い評価を与えている。極めて優秀なスピーチライターがチームにいるのであろうと僕も思う。

 

そのうえで、ひょっとしたら、これはこの後、ちょっと怖いことになるかもしらんぞという予感もあった。

 

演説自体のトーンと内容は決してそうではないけれど、起こっている事象は極めてテレビ的(というか、グローバル需要を前提にした“TVシリーズ”的)なのではないか、とも感じる。ゼレンスキーはコメディアンで俳優出身のキャリアの持ち主であることはよく知られている。そのキャリアのスタートが友人たちと結成した劇団であることを踏まえてイメージすると、年代的にも人気の大きさとしても日本で言うなら大泉洋が一番近いのではないかと思ったりする。それはさておき、大統領出馬の決め手になった番組『国民のしもべ』は彼が立ち上げた映像制作会社「Kvartal 95」の制作によるもので、ということはゼレンスキー自身とそのチームが「制作会社」としての出自を持つわけである。

 

こんなことを考えてしまう。

 

ひょっとしたら、我々が目撃しているのは歴史上初めての「リアリティショー化された戦争」なのではないだろうか。

 

あらゆる意味で、究極のリアリティーショー。

 

そして、演説のナラティブは、各国の視聴者を「当事者」にするために練り上げられたもので、それは制作会社的な視点で考えれば、いわばコンテンツの「ローカライズ戦略」になぞらえることができる。

 

この「語り」が多くの人の心を揺さぶり劇場的に受け止められたことで、その余波として何が起こるか。

 

まだ上手く言語化できないんだけど、これからしばらくは、美味しいご飯を食べたり、家を掃除したり、綺麗な花を見たり、普段よりもちょっとだけそういう方に感度を上げて生活しようかなと思ったりしている。

 

 

 

この後戻りのできない変化の中で

f:id:shiba-710:20220305203743j:plain

 

なんだか、とても気落ちしている。

 

ニュースに心をかき乱されて、鬱々とした日々を過ごして、思うところを上手く言葉にできない居心地の悪さを抱えたまま時間が過ぎていく。

 

大きな戦争が起こってしまった。2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻。砲弾が飛び、街が破壊される映像が次々と伝わる。そこから10日。いろんな情報が押し寄せる。世界史の1ページのなかで、簡単に戻ることのできない変化が生じてしまったことを感じる。冷たい水に浸かっているかのような無力感がある。

 

けれど、それはそれとして、いつもどおりの日常は進む。仕事をして、ご飯を食べる。取材に出かけ、〆切に向けて原稿を書く。朝のニュース番組をつけると専門家が情勢を分析している。チャンネルを変えると芸人が街を歩いている。

 

10ヶ月前に自分が書いたことを思い出す。

 

ひょっとしたら、このコロナ禍の先の世情は、予想していたよりも、もっときな臭いものになるかもしれない。

 

shiba710.hateblo.jp

 

やっぱり、という落胆もある。

 

それでも、こんな風だとは思っていなかった。なんだかとてもがっかりしているのは、時計の針が巻き戻ってしまったかのような思いがしているからかもしれない。

 

2年前、コロナ禍の始まりの頃にはこんなことを書いた。

 

新型コロナウィルスへの感染拡大に対して、欧米各国の首脳が「戦争」という言葉を使っている。その言葉に、なにか違和感がある。骨が喉につかえるような、ちょっとした引っかかりを感じる。

 

shiba710.hateblo.jp

 

あのときには、国家による統制を表現するある種のレトリックとしての「戦争」という言葉についてのことだった。けれど、今起こっている事象は、文字通りの戦争だ。非国家勢力が引き起こす21世紀の「新しい戦争」ですらない。すでに歴史の中で何度も繰り返されてきたやつだ。

 

僕は国際情勢に詳しいわけでもないし、何かの知見をもとに偉そうなことを言えるような立場ではないのだけれど、それでも、いくつか、思うことがある。

 

それは、この後戻りのできない世界史的な変化の中で、ひとつの物語が(主にヨーロッパ各国の間で)形作られているように思えること。ドイツとフランスの政策転換。スウェーデンやフィンランドの世論の変化。各国による経済制裁。理不尽な破壊と、プーチンによるあまりにも無理筋なナラティブを目の前にして、明らかに人々が世界を見る目線が変わってしまった。情勢がどう変わるかはわからないけれど、少なくともそれが覆ることはないだろう。

 

www.jiji.com

 

ユヴァル・ノア・ハラリは、2月28日、ガーディアン紙への寄稿でこう書いている。

 

開戦からまだ1週間にもならないが、ウラジーミル・プーチンが歴史的敗北に向かって突き進んでいる可能性がしだいに高まっているように見える。彼はすべての戦闘で勝っても、依然としてこの戦争で負けうる。

(中略)

ウクライナ人の勇敢さにまつわる物語は、ウクライナ人だけではなく世界中の人に決意を固めさせる。ヨーロッパ各国の政府やアメリカの政権に、さらには迫害されているロシアの国民にさえ、勇気を与える。ウクライナの人々が大胆にも素手で戦車を止めようとしているのだから、ドイツ政府は思い切って彼らに対戦車ミサイルを供給し、アメリカ政府はあえてロシアを国際銀行間通信協会(SWIFT)から切り離し、ロシア国民もためらわずにこの愚かな戦争に反対する姿勢をはっきりと打ち出すことができるはずだ。

 

web.kawade.co.jp

たくさんの人が、心の中にあるスイッチをそっと切り替えたのではないかという気がしている。

 

戦争反対。僕は基本的には楽観的な人間なので、いろんな国で、多数の市民がシンプルに「戦争反対」という思いを持っているだろうということを疑ってはいない。「そんなことを言ったってどうしようもないだろう」みたいな揶揄や冷笑のほうがよほど恥ずかしい言動だと思っている。けれど、実際に危機が目前に迫っているとき。あり得ないと思っていたことが起こっているとき。それが情報として押し寄せてくるときに、人々の心のありようはどう変わるだろうか、ということを考えている。

 

「平和ボケ」という言葉がある。こんな風に解説されている。

 

戦争や安全保障に関する自国を取り巻く現状や世界情勢を正確に把握しようとせず、争いごとなく平和な日常が続くという幻想を抱くこと、あるいは自分を取り巻く環境は平和だと思い込み、周りの実情に目を向けようとしないことなどを意味する表現。主に安全保障などに無関心である日本国民に向け、皮肉を込めて用いられることが多い。

「平和ボケ(へいわボケ)」の意味や使い方 Weblio辞書

 

定義のとおり、ほぼ皮肉や見下した物言いに使われる言葉。その対義語はなんだろう。「戦時覚醒」とでも言うべきだろうか。危機情報は中枢神経を刺激する。興奮作用を持つ。緊張と不安の中でノルアドレナリンが過剰になった脳内から放たれた言葉は当然に攻撃性を持つ。僕は「平和ボケ」という言葉で誰かを貶めたり煽り立てるようなタイプの人のことは「戦時覚醒」だなあと思ったりする。

 

悪い予感は尽きない。

 

それでも、少しでも安寧が訪れることを願う。

 

 

※国連UNHCR協会に寄付をしました。

 

 

 

https://www.japanforunhcr.org/campaign/ukraine