日々の音色とことば

usual tones and words

春ねむりさんのことについて (追記あり)

 

(※追記しました)

 

 

まあ、これは書かねばならないよな。なんせ当事者なので。

 

沈黙していたほうが波風立たないのはわかっているけれど、自分のスタンスを表明しておかないのはよくないなと思うのでね。そして僕にとってブログというのはそういうことを文字にして残しておく場所でもあるので。

 

というわけで、何があったのか、僕がどう思っているのかを、つらつらと書いていきます。

 

8月28日に、宇野維正さんとのトークイベントをやりました。

 

「毎回波乱のトークバトル 2022年夏編」というイベント。サブタイトルは「ポップカルチャーから見た社会/社会から見たポップカルチャー」。以下のサイトで配信の視聴チケット購入できます。アーカイブ視聴期間は9月11日(日)23時59分まで。

(アーカイブ視聴期間終了しました)

twitcasting.tv

 

LOFT9 Shibuyaで宇野さんとのトークイベントをやるのはこれで3回目。最初にやった2021年夏はオリンピックの開会式の翌日で、あのときの音楽やエンタテインメントを巡るムードは相当シビアなものがあった。2回目は2021年の年末にやったその年の総括で、それはそれで爪痕の残るような話だった。

 

で、それを経ての今回は、個人的にも、かなり言いたいことが溜まっていたタイミングでもあった。夏フェスの現場で見てきたことについて。マルチバースとしてのサマソニで生まれた軋轢と、SNSで広がったその波紋について。それから、日本のカルチャーの状況にずっとある「帰るのが寂しいからといって、終わったパーティに居続けるのはみっともない」(by ヴィンス・ギリガン)問題について。

 

あとは、7月の参院選であった音楽業界4団体による特定候補の支持表明について、どんな背景があって、どういう構造があって、その力学がどう働いたのかについても、自分なりに整理して見取り図を示したつもり。そして、そこから当然派生する話として、7月8日の安倍晋三元首相の銃撃事件についても、踏み込んで話しました。それがどういうことをもたらすのかについては、僕は「フタが開いた」という言葉で言い表してます。

 

他にもいろんなトピックはあるのだけど、興味ある方はアーカイブ視聴期間がまだちょっと残ってるんで見てみてください。全編見ていただいた方からはかなりの割合で好意的な反響をいただいてます。そこは嬉しい限り。

 

 

で、そのトークイベントの一番最後、質疑応答のくだりの中で、宇野さんから春ねむりさんへの言及があった。それを見た本人からこんな指摘がありました。

 

これをきっかけに、春ねむりさんだけじゃなく、そのツイートを見た沢山の人からの反響があった。かなり批判も届いた。

 

予定時間をかなり超えてたというのもあって、僕は現場では何のコメントもしなかった(というか、そもそも話題自体が別のトピックだったのでね)。その後のSNSでも発信したのはこれだけ。

 

 

そのことに対して「卑怯なんじゃない?」的な声もあった。あー、そっか。そう感じる人もいるんだなと思った。なので正直な思いを書いておこう。

 

「もう、勘弁してよー!」

 

というのが、当該の宇野さんの言及への率直な僕の感想。だって、これまで何回か取材を重ねて、関係性もあって、個人的にもプッシュしていて、すぐ後にはトークイベントで会うことが決まっている、そういうアーティストとこんな風なややこしい感じになるの、めちゃイヤじゃないですか。

 

そもそも、春ねむりさんを最初に取材したのはアルバム『LOVETHEISM』をリリースした2020年のこと。記事のリンクは以下。

https://www.billboard-japan.com/special/detail/2938

 

個人的な興味の発端は2018年のアルバム『春と修羅』の海外での評価を耳にしたり、2019年に出演したヨーロッパの巨大フェス「Primavera Sound 2019」での盛り上がりを映像で目にしたりしたことだったんだけど、インタビューをしてわかったのは、単に海外で人気が出たとかバズったとかじゃなく、批評家のレビューをきっかけに、ちゃんと文脈が伝わって受け止められているということだった。

 

で、次に取材したのはアルバム『春火燎原』にも収録されている「Déconstruction」がリリースされたときのこと。こちらの記事は以下。

https://www.billboard-japan.com/special/detail/3344

 

ここで話題にしたのは、曲やライブのことだけじゃなく、春ねむりさんなりのパンク精神について。話を聞いて、すごく得心がいくところがあった。

 

あとはYahoo!ニュース個人にこんな記事を書いたのもあった。

 

news.yahoo.co.jp

 

そういういろいろを経てきているのもあって、宇野さんの言及に対する春ねむりさんの憤りについては正当だと感じてます。ただ、自分が周りからの煽りに応じて何かするのはあんまり誠実じゃないと思うし、どっち側につくだとか、間に入ってどうこうだとかは、全然考えてないです。それでもまあ、少なくとも僕の考えてることは書いておこうと思う。

 

ブロック云々は僕が口を挟むようなことじゃないので置いておくとして、春ねむりさんが「わたしにとってフェミニズムは、性別に関係なく全ての者に平等に権利があるべきという思想です」と書いていることには同意です。僕はフェミニズムの専門家ではないし知識も足りないのでラディカル・フェミニストの定義や位置づけとかについて踏み込んで自信を持って何か言えるようなことは何もないのだけれど。でもベル・フックスとか読むと「うんうん、たしかにそうだよな」と思ったりする。

 

というか、これは僕自身の反省なんだけど、現場であいまいに流そうとせずに「春ねむりはラディカル・フェミニストじゃなくてライオット・ガールだと思いますよ」と言えばよかった、それだったらスマートだったなーということは、この件を振り返って一番強く思うことです。それは前述のインタビューでちゃんと本人から聞いていることなので。

 

ライオット・ガール(RIOT GRRRL)については一応ウィキペディアの説明を。

 

ja.wikipedia.org

 

そういえば、『ミュージック・マガジン』2022年5月号で「ライオット・ガール特集」があって、そこに当然春ねむりが取り上げられてるだろう、というか『春火燎原』のリリースタイミングでもあるわけだからインタビュー載ってるんだろうなと思ったら、インタビューどころか全然言及がなくてビックリしたということもありました。いやいや「2022年に考えるライオット・ガール・ムーヴメント」を語るならザ・リンダ・リンダズもいいけどそれより春ねむりだろう、というのは強く思うところです。今年3月のサウス・バイ・サウスウエストではプッシー・ライオットと共演したりしてるわけだしね。

ミュージック・マガジン2022年5月号:株式会社ミュージック・マガジン

 

そんなわけで、この件に関しての僕の表明は以上。

 

9月13日の春ねむりさんのイベントでは、前回のアメリカツアーの反響について、『春火燎原』について、それからこれからのアメリカツアーについてのトピックになる予定です。気になるかたは是非チェックのほどを。

 

で、次回のLOFT9 Shibuyaでの宇野さんとのイベントは年末12月29日を予定してます。こちらは近くなったらまた告知しますが、また会場チケットと配信チケットの形になるはずです。テーマは何もまだ決まってないですが、話すべきことを話すイベントになると思うのでよろしくお願いします。

 

最後に、もうひとつだけ。チケットをちゃんと買って会場に来てくれた方、配信を見てくれた方はわかると思うけど、そもそもの質疑応答のくだりの話題のところで僕が言ってたことって、「ツイッターは怒りの感情を増幅して伝播するアルゴリズムによって人々のアテンションを奪いにくるプラットフォームなので、そのことに注意しようね」ということなんですよ。

 

もちろん、傷つけられたり、不当な扱いを受けたその人に対して「怒るな」と言うようなつもりは全然ないです。その選択肢はあってしかるべき。でも、他者の発した怒りの感情に安易に「乗っかる」人に対しては、それが行動嗜癖化してないか一回深呼吸して確かめてみたらいいんじゃないかなと思ってる。今回も沢山見かけたよ。揉め事を見かけて駆け寄ってきて、ツバを吐いたり弄ったりするだけして、去っていく人。

 

これは前々から言っていること。

 

 

そういうことを話したあとに、まさにそういう反響の当事者になったのは、皮肉なことだなあと思ったりしています。

 

※追記(9月12日)

 

この記事を9月9日に公開して、いくつかの反応を読みました。それで思うこと、考えることがあったので追記しておきます。うーん、伝わってないか、とも思ったけど、これは自分に書き足りないことがあったなとも思うので。

 

まず「宇野さんの発言やその後の対応について柴はどう思っているのか」みたいなことについて。

 

このへんのことは、うまく言うのはなかなか難しいんだけど、自分の意思表示をできるだけシンプルな言葉にすると「同意はしていない」ということです。発言は不適切だったと思うし、同調しているつもりもないです。現場であいまいに流しちゃったなというのは反省点。

 

じゃあ年末にトークイベントやるしその告知もしてるじゃん、ということについてはどうかというと、それは「意見に相違がある」とか「不適切な発言については許容していない」ということと「じゃあ今後は関わらない」ということとはイコールではない、と捉えているから。そこについては0か100かじゃなくて、グラデーションであるべきだと思っているので。今回のことだけじゃなく、ふつうに社会ってそうあるべきでしょ、というスタンスです。

 

それから「柴はどうなの、何もするつもりないの?」みたいなことについて。

 

これについては、宇野さんと春ねむりさんとの当人同士の関係においては、上にも書いたとおり「どっち側につくだとか、間に入ってどうこうだとかは、全然考えてない」という感じです。

 

ただ、もうちょっと大きなフレームで物事を捉えると、やるべきことというか、当事者としてこの件に関わってる立場としての責任みたいなものはあるなと思う。それは何かというと、ひとつは、いわゆる今回みたいな有料配信ありのトークライブという場に携わるときの考え方について。こういう形のメディアはコロナ禍以降まさに成立過程にあって、そういう場では「お金を払ってチケットを購入した人だけが内容を把握できる」&「オーディエンスと書き起こしNGという約束を共有する」という環境設定によって、登壇者がリスクを恐れず踏み込んだ発言をできるというメリットが生まれる。それはまさに僕も享受しているもの。だからイベントのキャッチコピーとして「ここでしか言えない本音」みたいなことが書かれるし、僕にだって、チケットを買ってくれたお客さんを信頼してるから、そういう場だけで言えることも沢山ある。でも、「ここでしか言えない本音」は「インフォーマルな場だからこそ言える危うい、もしくはトキシックな発言」とイコールでは決してない。このへんはすごく大事なところ。そういう倫理観をもってやっていきたい。なんで、僕自身、今後は気を引き締めていかねばなと思ってます。

 

もうひとつは、これも書き忘れていた大事なことなんだけど、当該の言及の直前のところで「僕はフェミニズムに対してはアライであろうと思っている」と発言しているということ。考えてみればここ数年そういう風になんとなく思ってはいたけれど、それを明確に表明したことはなかったな。言ったことは流れていってしまうので、これもちゃんと文字にしておこう。僕が前にどっかでぽろっと言った自分自身のジェンダーやセクシュアリティにまつわることについては、改めて言ったり書いたりするようなつもりはないけど。まあそれは置いておいて、であるがゆえに、「専門家ではないし知識も足りないので踏み込んで自信を持って何か言えるようなことは何もない」と上で書いているのは「この先も学ぶつもりはありません」ということでは全然ないです。むしろ逆。やべえな、勉強しなきゃなこれ、って思ってます。そうでなくても、特にポップカルチャーと社会について語る上で、いろんな差別や抑圧の構造に無知であるわけでいられないのは当たり前のことなんで。フェミニズムについても自分なりの観点で考えてきたつもりではあるけれど、知識の土台がないと付け焼き刃であるなあというのは強く思った次第。個人的にいくつか課題図書もリストアップしてるんですが、詳しい人いたらそっと教えてくださいな。

 

なかなかこれも言語化するの難しいんだけど、「勉強する」とか「学ぶ」という言葉には、なんというか「お行儀の良さ」みたいなものを感じてしまう感覚があって。「教養」という言葉についてもそうで。それもあって「勉強します」的なことを自分で言うのはしゃらくさい的なことも思ってたんだけど、こういうのはいい機会だったのかもなと思ってます。変化しつつある時代の潮流の中で、自分自身はできるだけ先鋭化しないでいたいという思いはありつつ、よい場所を作っていくこととか、自分のスタンスを点検していくことについては、ほんとに勉強必要だなあとつくづく痛感してます。

 

長くなったけど、これでほんとに以上。

 

6G呪術飛蝗

 

 情報技術の発達によって、誰しもがカジュアルに祟りをなすことが可能になった。


 僕がそのことに気付いたのはおよそ10年ほど前のことだけれど、今では、そのことはもはや常識のようになっているのではないかと思う。クラウドに顕在化した呪いの力について、ソーシャルメディアがもたらした新しいアニミズムの時代について、ずっと考え続けてきた。でも、デジタルネイティブな世代であれば、もはやそんなことは前提として意識に刷り込まれているのではないかと思う。


 2022年1月17日、株式会社NTTドコモはネットワーク技術を用いて人間の感覚を拡張する「人間拡張」を実現する基盤を開発したと報道発表した。同社の公式サイトからダウンロードすることのできる「ドコモ6Gホワイトペーパー」には2030年を目処に実用化を想定している通信技術6Gのコンセプトが数十ページにわたる資料と共に解説されている。


 同資料には、6Gの超低遅延性によって通信速度が人体における神経の反応速度を上回ると書かれている。すなわち、脳や身体の情報をネットワークに接続することによって感覚を拡張することが可能になる。

「人体に装着されたマイクロデバイスにより、人の思考や行動をサイバー空間がリアルタイムにサポートするようなユースケースが考えられる」

「考える・思うだけで特定の動作が可能になるテレキネシス、思考や感情の共有、テレパシーといった究極のコミュニケーションも実現することが期待できる」

ドコモ6Gホワイトペーパー4.0版より引用

 5Gと新型コロナウイルス感染症を関連付ける陰謀論がニュースを賑わせたのは、パンデミックが始まった当初の2020年4月頃のことだ。英国やオランダなどヨーロッパ各国では携帯電話基地局が放火される被害が多発した。偽情報はアメリカにも伝わり、米国土安全保障省が基地局の襲撃を防ぐために対策強化を発する事態となった。mRNAワクチンの開発が進み2021年に接種が本格化すると「ワクチンにはマイクロチップが仕込まれ、接種すると5Gで監視され操作される」というデマが広まった。


 なんでこんな荒唐無稽なことを信じるんだろうと、多くの人は思ったはずだ。ソーシャルメディアにはニュースに対して鼻で笑うような論調のコメントも見受けられた。

 

 しかし現実は違った。

 

 こうした統合失調的なアイディアの数々は、5Gにおいてはまだ陰謀論の範疇にあった。しかし6Gにおいてはそれは技術的なロードマップに記される事項となっている。通信最大手企業が実現を期して開発を進めるユースケースの一つとなっている。

 

 とてもワクワクする、鳥肌の立つような話。

 

 僕はここ最近のテクノロジーとカルチャーと社会の動向を「最適化の罠」「ミームの魔法」「わくわくディストピア」「うんざりアディクション」といういくつかのモチーフで考えているのだけれど、6Gはまさに「わくわくディストピア」のど真ん中を射抜くようなホットトピックであった。

 

 

「バチが当たる」という言葉がある。

 

 悪いことをすると天罰がくだる。そういう素朴な道徳観を持って暮らしてきた日本人は古来から少なくないと思う。「お天道様が見ている」というような言い方もある。

 

 この場合において「バチ」を成す主体は、神仏であり、天である。ひょっとしたら怨霊かもしれない。いずれにしても超自然的な存在である。

 

 けれど、デジタル技術の発達による情報発信の分散化は、市井に暮らす個人に超自然的な力を与えた。ソーシャルメディアによる情報の奔流に最適化した人々は、言葉や画像や動画に宿るエネルギーを瞬時に察知し、雪崩や津波のように押し寄せる集合的無意識の一角を成すことで、不適当な行いや言動をなした誰かに「バチを当てる」ことを可能にした。

 

 たとえば、スカスカのおせち料理を作った料理店に。たとえば、冷蔵庫の中に入って遊んだアルバイトに。たとえば、不倫を働いた芸能人に。

 

 炎上やキャンセルカルチャーという言葉で括られる事象については、いつも、「燃える側」や「キャンセルされる」側が語られる対象となる。しかしその行為の主体はいつも炎の側にある。観客席に座っているつもりの「あなた」が祟り神となる。

 

 ジェームズ・スロウィッキーは2004年に『The Wisdom of Crowds(「みんなの意見」は案外正しい)』という書籍を上梓している。「Web2.0」という言葉が希望的観測と共に喧伝されていた00年代半ば、集団の叡智は素朴に信じられていた。しかし、そのわずか10年後にはケンブリッジ・アナリティカ社の跋扈と共にポスト・トゥルースの時代が訪れることになる。


 2021年には「Web3」という言葉がバズワードとなった。ブロックチェーンと分散型台帳技術がビッグテックの支配を脱し非中央集権的なインターネットをもたらすという言説が溢れかえった。そのうちのいくつかにはスーパーボウルのTV中継にCMを出稿するほどの市場規模となりつつある暗号資産関連企業による、ある種のディスインフォメーションも含まれているはずだ。そうしたことを加味して考えると、およそ10年後、30年代初頭あたりには政府や中央銀行の担保によらない非中央集権的な信用創造が当たり前になると同時に、人と社会との信頼関係が相対的なものとなる「ポスト・トラスト」の時代が訪れることが容易に想像できる。

 

 

「愛ほど歪んだ呪いはないよ」

 

『呪術廻戦』の劇中で、五条悟は乙骨憂太にこう持論を告げる。

 

 シリーズ累計発行部数6千万部を突破し現代日本をヒットコンテンツとなった同作は「呪い」をこう定義している。

「辛酸・後悔・恥辱――人間が生む負の感情は呪いと化し日常に潜む」

(TVアニメ『呪術廻戦』公式サイト)

 

 しかし、「呪い」というのは決して負の感情が顕現したものだけを指すのではない。物語の中では「呪い」という言葉にもう一つの意味を与えている。主人公の虎杖悠仁は、作品の冒頭で病室で亡くなる直前の祖父に「オマエは強いから人を助けろ」「オマエは大勢に囲まれて死ね」と声をかけられる。ひょんなことから呪霊との戦いという過酷な日々を送ることになった虎杖は、逃げずに戦うことを選んだ自らの行動の理由に、その祖父の言葉を回想し「こっちはこっちで面倒くせえ呪いがかかってんだわ」と述懐する。

 

 その後、虎杖と戦いを共にする呪術師の七海健人は、満身創痍の死に際に「言ってはいけない」「それは彼にとって“呪い”になる」――と躊躇いつつ、虎杖に「後は頼みます」と告げる。


 人は言葉に縛られる。虎杖だけでなく、他の登場人物たちもそういう意味での「呪い」を内面化している。遺された側が最後に託された言葉。血筋や家柄、ジェンダーによる抑圧。家族や友人に日常的に繰り返しかけられてきた期待や失望の言葉。それが呪縛となり自由を奪う。


 人を言葉によってコントロールしようという意志はすべからく「呪い」として機能する。『呪術廻戦』が画期的なのは、日本古来より連綿と続く呪術というモチーフを題材としつつ、オンライン化による社会の再魔術化が進行しつつある現代に則してそのイメージをアップデートしていることにある。


 神仏の力を借りずとも、藁人形や五寸釘といった古典的な呪法に頼らずとも、人は人を呪うことができるようになった。誰もが小さな災厄をもたらすことができるようになった。そのことはすでに常識となり、多くの人は注意深く、慎重に暮らすようになった。


 その一方で、相互に影響を与え合う興味や関心の波は、それ自体が電流のような力を持つようになった。意図的に不安を掻き立て、恐怖と憎悪を巻き起こすことによって利得を獲得する勢力が蠢くようになった。

 

 

 飛蝗は相変異によって発現する。


 餌が豊富な通常の環境で育ったサバクトビバッタは、緑色の体色で互いを避け大人しい性格の「孤独相」となる。しかし、餌が乏しく高頻度で他の個体とぶつかり合う混み合った環境で育ったサバクトビバッタは黒色の「群生相」となる。大量発生したトビバッタが群れをなし植物や農作物を食い尽くしながら移動する現象は飛蝗と呼ばれ、世界各地で多大な被害をもたらしてきた。


 内気な孤独相のバッタがひとたび巨大な群れを成す群生相に相変異すると筋肉も増強し体色も変異し数十億匹の大集団となって数百キロメートルの距離を飛ぶ。その相転移を引き起こす原因が脳内の神経伝達物質セロトニンであることが研究によって明らかになっている。群生相のバッタのセロトニン水準は孤独相のバッタよりおよそ3倍高いという。


 一方、セロトニンの欠乏は鬱病の原因とされ、現在、日本で抗うつ剤として広く処方されているSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)は神経細胞と神経細胞の間のセロトニンの量を増やし、情報伝達を増強して抗うつ効果を発揮すると考えられている。

 

 こうした飛蝗という現象をヒントに2010年代半ばから米海軍研究事務所が研究を進めてきたのが「LOCUST」と名付けられた軍事ドローンシステムだ。バッタを意味する「LOCUST」は「低コスト無人飛行機群技術(Low-Cost UAV Swarming Technology)の略。戦略対象地域に大量に発射された軽量かつ高性能な小型ドローンが、他のドローンと自律的に群れを形成し攻撃任務などをこなす。


 こうした技術をもとに米国防総省の国防高等研究計画庁(DARPA)は「攻撃型群集可能戦術(OFFSET:OFFensive Swarm-Enabled Tactics)」プログラムを進めてきた。数百台の自律型ドローンと地上ロボットが連携し、複雑で入り組んだ都市環境の中で戦術的な任務を遂行することを目指したプログラムだ。


 「OFFSET」という略語は、50年代のアイゼンハワー政権がソ連に対抗して核抑止力の構築を打ち出した第一次オフセット戦略、ステルス戦闘機や精密誘導兵器の導入による70年代の第二次オフセット戦略に続いて2010年代半ば以降の米国が推し進める第3次オフセット戦略を指し示す言葉でもある。


 2021年2月初頭、米国防総省は14の重要技術分野のイノベーションを推進することを目的とした新しい優先事項を発表した。米国研究・工学担当国防次官のハイディ・シューはロシアや中国との戦闘を想定した際に必要となる自律システムについて議会にて答弁している。3Dプリントされた群体型の超小型ドローンを飛行機から大量に展開する作戦もすでに米軍によって実証されている。


 自律型致死兵器システム(LAWS: Lethal Autonomous Weapons Systems)が駆動する新しい戦争の時代はすでに始まっている。

 

 そして、その先には、ネットワークを介して常時接続し相互に情報を交換することで、人が群知能(=Swarm Intelligence)の端末の一つとなる未来が、妄想でも陰謀でもなく、すぐそこにまで迫ってきている。


 神経の反応速度を上回る速度でネットワークに接続され、思考や感情を互いに共有し、自律的に群れを形成するようになった群生相の人間の脳内には正気を逸脱させるほどの多量のセロトニンが分泌される。過剰な原色に埋め尽くされたその視界の先には、何が見えるだろうか。

 

(『ウィッチンケア第12号』に寄稿した文章に加筆修正しました)

 

 

ままならなさのなかで/FUJI ROCK FESTIVAL '22の配信を見ながら思う

土曜日。フジロック・フェスティバルの配信を見ながら、これを書いている。

 

直前まで行く準備をしていたのだけれど、先週に家族が体調を崩して熱を出してしまったので、とりあえず、見合わせることにした。幸いにして、PCR検査は陰性。すっかり回復したようで、うまくすれば、日曜日だけでも行くことはできるのかな。

 

ともあれ、今はコロナ”第7波”の真っ只中で、いろんなところでその影響が出ている。ずいぶん近くまで来ているような感もある。フジロックにしても、出演者がコロナ陽性になったことで出演がキャンセルになったり、他のライブにしても、野球の試合にしても、中止になったりしている。

 

とはいえ、昨年の夏とは、だいぶ社会のムードも変わってきているようにも思う。政府からの行動制限はなく、海外の動きも視野に、少しずつ平時に戻していこうという動きもある。簡単に言ってしまうと”飽き”のようなものも生まれているのかな。

 

よくわからない。

 

そうだ。よくわからない、ということを書き記しておこう。茫漠としている。アノミー的な状況の中で、気を抜いていると、自分の価値基準の手がかりや感情の手触りを見失いそうになる。SNSやニュースサイトばかり見ていると、アルゴリズムの渦にいとも簡単に飲み込まれてしまう。

 

ついつい忘れがちになるのだけれど、ブログを書くということは、少なくとも自分にとっては、未来の自分に対して「このときはこう考えていた」とか「このときはこんな感じだった」という足掛かりや手触りのアンカーポイントを示すという行為であったりする。

 

で、いくつか見返してみたら、ここ1、2年に書いたものは、なんだかちょっとばかり陰気なトーンになっているような感じもする。シニカルになるまいと思ってはいるのだけれど、知らぬ間に悲観的になっているのかな。疫病、戦争と、ひどいことばかり起こっているからだろうか。

 

それとも僕自身の傾向もあるのかな。振り返ってみると、ここ数年は、本や新聞やウェブのような商業媒体に書く原稿で「音楽シーンから社会の動きをわかりやすく解説します」的な役割を担うことも増えた。もともとそういうことをやりたかったわけだし、ある程度やれている自負もあるけれど、そのことで、少しずつすり減っているということもあるのかもしれない。

 

わからないことについて、わからないまま、手探りで草むらをかき分けていくように書くというのは、誰に頼まれるでもなく書くこういうブログのような場所に適している気もする。生産性はないけれど、そもそも別に生産性を求めてやってるわけじゃないし。

 

折坂悠太(重奏)の歌と演奏が、とてもよかった。

 

昨年のフジロックに出演を辞退し、今年は出演した彼。そのことについて、MCでは「わからない」と言っていた。「去年は出演を辞退しました。今年はこうして出ています。去年と今年の何が違うのか? 答えられません」「それでも、試行錯誤しながら、営みを続けていくしかないと思っています」と語っていた。

 

とても誠実な言葉だと思った。

 

ままならないことを、ままならないままで。音楽はそういういうありかたを許してくれるところがあって、そういうところが好きだったりする。