日々の音色とことば

usual tones and words

ままならなさのなかで/FUJI ROCK FESTIVAL '22の配信を見ながら思う

土曜日。フジロック・フェスティバルの配信を見ながら、これを書いている。

 

直前まで行く準備をしていたのだけれど、先週に家族が体調を崩して熱を出してしまったので、とりあえず、見合わせることにした。幸いにして、PCR検査は陰性。すっかり回復したようで、うまくすれば、日曜日だけでも行くことはできるのかな。

 

ともあれ、今はコロナ”第7波”の真っ只中で、いろんなところでその影響が出ている。ずいぶん近くまで来ているような感もある。フジロックにしても、出演者がコロナ陽性になったことで出演がキャンセルになったり、他のライブにしても、野球の試合にしても、中止になったりしている。

 

とはいえ、昨年の夏とは、だいぶ社会のムードも変わってきているようにも思う。政府からの行動制限はなく、海外の動きも視野に、少しずつ平時に戻していこうという動きもある。簡単に言ってしまうと”飽き”のようなものも生まれているのかな。

 

よくわからない。

 

そうだ。よくわからない、ということを書き記しておこう。茫漠としている。アノミー的な状況の中で、気を抜いていると、自分の価値基準の手がかりや感情の手触りを見失いそうになる。SNSやニュースサイトばかり見ていると、アルゴリズムの渦にいとも簡単に飲み込まれてしまう。

 

ついつい忘れがちになるのだけれど、ブログを書くということは、少なくとも自分にとっては、未来の自分に対して「このときはこう考えていた」とか「このときはこんな感じだった」という足掛かりや手触りのアンカーポイントを示すという行為であったりする。

 

で、いくつか見返してみたら、ここ1、2年に書いたものは、なんだかちょっとばかり陰気なトーンになっているような感じもする。シニカルになるまいと思ってはいるのだけれど、知らぬ間に悲観的になっているのかな。疫病、戦争と、ひどいことばかり起こっているからだろうか。

 

それとも僕自身の傾向もあるのかな。振り返ってみると、ここ数年は、本や新聞やウェブのような商業媒体に書く原稿で「音楽シーンから社会の動きをわかりやすく解説します」的な役割を担うことも増えた。もともとそういうことをやりたかったわけだし、ある程度やれている自負もあるけれど、そのことで、少しずつすり減っているということもあるのかもしれない。

 

わからないことについて、わからないまま、手探りで草むらをかき分けていくように書くというのは、誰に頼まれるでもなく書くこういうブログのような場所に適している気もする。生産性はないけれど、そもそも別に生産性を求めてやってるわけじゃないし。

 

折坂悠太(重奏)の歌と演奏が、とてもよかった。

 

昨年のフジロックに出演を辞退し、今年は出演した彼。そのことについて、MCでは「わからない」と言っていた。「去年は出演を辞退しました。今年はこうして出ています。去年と今年の何が違うのか? 答えられません」「それでも、試行錯誤しながら、営みを続けていくしかないと思っています」と語っていた。

 

とても誠実な言葉だと思った。

 

ままならないことを、ままならないままで。音楽はそういういうありかたを許してくれるところがあって、そういうところが好きだったりする。