石川県の田舎町。彼の墓は見晴らしのいい丘の上にある。訪れたのは数年ぶり。確かあのときは抜けるように青く晴れ渡った空だった。
僕はひとつ自慢をしにきたのだった。「こんな本を作ったんだよ」と。
今年、僕は牧村憲一さん、藤井丈司さんとの共著で『渋谷音楽図鑑』という本を上梓した。
テーマは「渋谷はなぜ音楽の街になったのか」。公園通り、道玄坂、宮益坂という三つの坂を舞台に、60年代から脈々と受け継がれる都市型ポップスの「カルチャーの孵化装置」の系譜を語っていく。牧村憲一さんはシュガー・ベイブ、山下達郎、大貫妙子、竹内まりや、加藤和彦などの制作宣伝を担当、フリッパーズ・ギターのプロデュースも手掛けた音楽プロデューサーで、なので、幾多のミュージシャンとの交流やエピソードもふんだんに語られている。
藤井丈司さんはサザンオールスターズなどを手掛けたやはり名プロデューサーで、その藤井さんは、はっぴいえんど「夏なんです」、シュガー・ベイブ「DOWN TOWN」、山下達郎「RIDE ON TIME」、フリッパーズ・ギター「恋とマシンガン」、小沢健二「僕らが旅に出る理由」、CORNELIUS「POINT OF VIEW POINT」という6曲を楽譜を使って分析している。
僕の役割は語られる言葉を「書きとめる」ことだった。都市の胎動と音楽の潮流が絡み合い、文化が連なって時代のうねりとなっていくさまを、一つの物語となるよう編んでいくことだった。正直、とても大変な作業だったけれど、完成した時の達成感はとても大きなものだった。
さかのぼること20数年。
僕にフリッパーズ・ギターのことを教えてくれたのが彼だった。
出会ったのは95年。そのころ僕は京都大学の新入生で、彼は76年生まれの僕より学年は一つ上、「吉田音楽製作所」という京都大学の作曲サークルの先輩だった。
「作曲サークル」とは言っても、基本的に宅録で作った音源を持ち寄ってオムニバスのカセットテープを作っている集団だったから、別にみんなが集まってやるようなことはたいしてない。でも、毎週「例会」と称して教室に集っては、その後たいてい誰かの下宿にあがりこんで酒を飲んでいた。そうじゃない日も、サークルボックスで夜通しくだらない話をしたり、音楽を聴いたり、アニメを観たり、ゲームをしたりしていた。たまに思いつきでバカバカしい曲を作っては即興でMTRに録音してゲラゲラ笑いあったりもしていた。『四畳半神話大系』を地で行くような毎日だった。そういう中で知った音楽が山ほどあった。
銀閣寺近くにあった彼の下宿にも、何度か行ったことがある。壁が薄い部屋だったから、大勢で集まるようなことはなくて、たいてい数人だったと思う。
小沢健二、コーネリアス、ピチカート・ファイヴ、カヒミ・カリィ、U.F.O.、yes mama OK……。高校時代は古いプログレばっかり聴いてた僕にとって初めて日本のリアルタイムの音楽シーンに本気で夢中になったのがその頃だった。
その頃はもうフリッパーズ・ギターはとっくに解散していたけれど、その人の部屋には『カメラ・トーク』のポスターが貼ってあった。僕らはいつもコンビニや近くの酒屋で安い酒とつまみを買って集まっていたのだけれど、その時にいつも500mlの紙パックの甘いコーヒー牛乳ばっかり買っているのが彼だった。そこから「コーヒーミルク・クレイジー」のことを知った。丸っこいコロコロした体型もあって、仲間内でも“愛されキャラ”だった。
その後、99年に僕は音楽雑誌の編集者として仕事をするようになった。
その後も東京で、たびたび集まっては飲んだり遊んだりしていた。僕はその人のツボを熟知しているつもりだったので、これはと思う新譜や新人が出てくると、会った時に必ず教えていた。騒がれる前の頃の相対性理論をオススメしたら、次に会った時、まるでキンキンに冷えたビールを飲んだ後みたいに目を細めた顔で、「アレはあざといね」と嬉しそうに言ってたのは、よく覚えている。
その頃の僕らはいつもそんな調子だった。
5年前に彼は急な病に倒れたが、今も僕の中ではあの頃に出会った音楽の記憶は彼の思い出と分かちがたく結びついている。
そして、僕はもう40歳を過ぎたおっさんになってしまったけれど、あの頃に出会った人や、そこで知ったこと、聴いていた音楽が、今も僕を支え続けている。
傍から見たら、まるで不毛な時間を過ごしていたように見えたかもしれない。けれど、ひとつも無駄なことはなかった。今は自信を持ってそう言い切れる。