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『君たちはどう生きるか』に描かれた“誕生”と“継承”



君たちはどう生きるか : 作品情報 - 映画.com

 

『君たちはどう生きるか』観てきました。

 

すごかったです。とにかくすごかった。ポスタービジュアル以外何も公開されない特殊な宣伝手法もあって、ストーリーも登場人物も全く前情報がない状態で観た宮崎駿監督の最新作。年齢を考えるとこれが最後の作品になってもおかしくない。

 

なので最初は「これはどういうことだろう」とか「この描写の意図は」とか、筋書きに追いつくためにいろいろ考えながら観てたんだけど、気付いたら途中からそういうのぶっ飛んでた。圧倒的な体験で、気がついたら涙ぐんでました。

 

でもこれ、観る人によっては「これって一体なんのことだったんだろう……?」みたいな人もいるだろうな、とも思った。特に後半はイマジネーションの奔流のような展開なので、理屈で捉えようとすると何がなんだか全然わからないままで終わるという可能性もある。

 

でも、そういう人に向けた“わかりやすさ”みたいなものを一切放棄して、とにかく自身の作家性を100%開放した結果としてこうなっているんだなということも思った。

 

なので、これを観終わって思ったのは、やっぱり『風立ちぬ』で引退作だったらちょっと綺麗過ぎる終わりだったよな、っていうこと。気取ってるというか。僕は近作では『風立ちぬ』よりも『崖の上のポニョ』のほうが好きで、特に『ポニョ』後半の船を漕いでいく場面からの流れがとても好きな人間で。ああいう、世界の枠組みがグニャリと歪むような、アニメーションならではの、飛躍した、ときに危うい想像力に魅せられてきた人間としては、そういう“濃度”がとても高い作品を浴びたという、そんな感触でした。

 

というわけで、ネタバレなしで言えるのはここまで。ここから後はストーリーの内容やその核心にがんがん触れていくので、すでに作品を観たという方はどうぞ。

 

さてここからネタバレ領域。

 

最初に結論を言うと、『君たちはどう生きるか』は、「生まれるということについて」の物語だと僕は受け取った。出産、生命の誕生、そういうことをモチーフにした物語。さらに言うなら、宮崎駿という人がどんな風に生まれたのか、その想像力がどこからやってきたのか、そういうことにまつわる話。自叙伝とは全然違うんだけど、その根源的なルーツについての物語という風に僕は受け取った。


だから、タイトルも本当は『(僕はこう生まれた。では、)君たちはどう生きるか』だと、とてもしっくりくる。

 

舞台は戦時中で、主人公の眞人少年は、父親が工場を経営する裕福な家に育っている。このあたりの描写から、主人公は宮崎駿自身の少年時代をモデルにしているんだなということに気付く。

 

母親を火事で亡くし、新たに義母となった夏子と共に疎開した眞人少年は、住んでいる屋敷に飛来した青サギに話しかけられる。そうして屋敷の裏手の森の中にある古い塔の中に誘われる。この青サギがポスタービジュアルにあるキャラクター。絵柄だけ見るとクールな感じなんだけど、実際は『もののけ姫』に出てくるジコ坊みたいなコミカルで憎めないおじちゃんのキャラクターだったりする。そこからいろいろあって、眞人は姿をくらました夏子を探しているうちに異世界にずぶずぶと沈んでいく。

 

宮崎駿の作品の多くは基本的に「行きて帰りし物語」になっていて、その代表が『千と千尋の神隠し』なんだけど、この『君たちはどう生きるか』も「行きて帰りし物語」の構造になっている。屋敷にいる女中のおばあちゃんのキリコと共に訪れた場所は、生者よりも死者の方が多い黄泉の国のような異世界。冥府でもあるし、生まれる前でもある、そういう生と死が渾然一体となっているような彼岸の場所。

 

なので、物語の前半は戦時中の日本が舞台なんだけれど、後半はこの異世界での冒険譚がほとんど。それもファンタジー世界としての秩序や法や社会がきっちりと構築されているような“異世界”ではない。もっと主観的な、象徴的な世界。理屈や筋書きではなくイメージの連鎖で物事が進んでいくような世界を歩んでいく。


で、ストーリーには、いろんな象徴、いろんなメタファが次々とあらわれる。

 

それをどう解釈するかは観た人それぞれによって異なる。なので、『君たちはどう生きるか』は、観た人によって受け取るものが全然異なる作品だなあと思います。

 

あくまで僕の捉え方だけど、まずは鳥。この映画には喋る鳥が沢山出てくる。ペリカンやセキセイインコが集団で主人公を襲う。僕はペリカンやセキセイインコは「欲望」や「欲求」のメタファだと思っています。そう捉えるといろんなことがしっくりくる。ペリカンが主人公の眞人を無理やり鍵のかかった扉の向こうに押しやる。その向こう側に「子宮」や「産道」の象徴を思わせる岩の洞窟がある。つまりペリカンは欲望の中でも「性欲」のメタファである。だとするならば、社会を営み軍隊を形成するセキセイインコは「物欲」や「金銭欲」や「支配欲」のメタファである。

 

そして、この彼岸の世界自体が死と誕生を司る場所であるがゆえに、作中には性のメタファも沢山出てくる。その代表が中盤で出てくる「ワラワラ」だと思う。映画本編の中でほぼ唯一と言っていいくらいのふわふわした可愛いキャラクター。成熟するとぷっくりとふくらんで、螺旋を描きながら空に浮かんでいく。これは僕、「精子」のメタファだと思います。もしくはDNAや遺伝子といった、もっと生命の根源的なものと言ってもいいかもしれない。それを「性欲」のメタファであるペリカンが喰らうというのも、なんだか象徴的。

 

そういう意味でも、やっぱり、『君たちはどう生きるか』は、誕生や出産にまつわる物語だと思うわけです。母性にまつわる話である。

 

で、もうひとつ、『君たちはどう生きるか』には大事なテーマがあって。それは「継承」ということ。自分はこうやって生まれて、こうやって創造力を育んだ。それを次の世代、次の担い手に受け渡す。そういうことが、かなりわかりやすく前景化してストレートに描かれている。

 

それが表れているのが、大叔父から積み木を渡されるという後半のシーケンス。積み木というのは、まさに「作品」とか「制作」、つまりは「創作活動」のメタファだと思う。創造力で持ってひとつの世界を作り上げるいう営みの象徴として積み木がある。主人公の眞人はそれを直接受け取らず、しかし、石を現実世界に持ち帰る。

 

じゃあ、大叔父は誰に当たるのか、ここはいろんな見方があると思う。ここにもやはり宮崎駿が投影されていると見ることもできる。積み木はアニメーション映画そのものである、という。ただ、僕としては、先人の作家全般というイメージが浮かんだ。それこそ手塚治虫がその代表と言えるかもしれない。ともかく、創造力というものはゼロから備わったものではなく、先人から受け渡されたものなんだという、「継承」のモチーフがそこに描かれている。

 

そういう意味では、『君たちはどう生きるか』は創造力にまつわる話でもある。宮崎駿という作家が自分の創造性の由来をすべて開陳するような話。だからこそ過去作のセルフオマージュが沢山出てくる。たとえば船に乗って大海原に乗り出す冒険のシーン。鳥に乗って空を飛ぶシーン。母がわりの役割を果たす強い女性。導き手となる凛とした少女。無邪気なおばあちゃんたち。宮崎駿作品を観てきた人にとっては「あの作品にあれがあった」とピンとくるキャラクターやシーンが沢山ある。それはファンサービスのようなものではなく、むしろ「とにかく! 自分は! こういうものが作りたかった!」という宮崎駿の作家性をすべて詰め込むような強い意志を感じる。

 

そして、異世界への扉となる大きな塔は、作中では「人の手で作られたものではない」という風に説明される。ある日突然、空から落ちてきたのだ、と。この大きな塔こそが、「物語」のメタファなのだと僕は受け取った。宮崎駿は沢山の物語を紡いできたが、その根源にあるものは決して人の手で作られたものではない。むしろアカシックレコードのように、神秘的な何かなのだと。

 

つまり、『君たちはどう生きるか』は、ふたつの意味で「生む」ということにまつわる物語であると言える。一つは出産。新しい命を世に生み出すという母の営み。夏子が身ごもっているということがその象徴だ。そしてもうひとつは創造。何かを思い描き、作品を制作することで新たな世界を生み出すという作家の営み。そのふたつが意図的に混ぜられている。

 

で、ここまで考えをめぐらせて、ようやく気付く。

 

観終えたらみんな主人公の眞人が宮崎駿の少年時代をモデルにしたキャラクターだと思うような作りになっているし、それは間違いないのだけれど、それと同時に実は、「夏子の身ごもっている子」こそが宮崎駿が自分自身を投影している対象なのではないだろうか? 戦時中という作中の年代を考えると、1941年生まれ、すなわち戦中生まれで、なおかつ次男である宮崎駿のキャラクターと符号するのは、そっちなのではないかと思う。

 

だから、「行きて帰りし物語」の構造を持っている作品の最後に描かれたのは「身ごもっていた子供が生まれた」ということで。物語の最初で「弟か妹かわからない」と言われていたが、それが弟であることがラストシーンで明かされる。そこにカタルシスがある。

 

そういうことを思いながら観ていたので、最後のエンドロールで米津玄師「地球儀」が流れたとき、いろんなことが心に浮かんで、胸が動かされて、気がついたら涙が出てた。なぜならこの曲、歌い出しが《僕が生まれた日の空は》というフレーズなのである。

 

宮崎駿は、少なくともこの作品を通して、”継承”の相手に米津玄師を定めたのだと思う。それはアニメーション作家として、ということでなく、巨大で奔放な創造力の持ち手として。コメントによれば公開の4年前から様々なやり取りを経て曲を作っていったという。世代やジャンルを超えた交歓の数々があったのだと思う。

 

 

 

宮崎駿が米津玄師という才能に出会って、そのことによって主題歌が決まった。最後のエンドロールでバトンを渡して、そして「地球儀」は、それを確かに受け取りました、という曲に聴こえる。だからこそ泣けたんだという。

 

そういうことを思った。