日々の音色とことば

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橋本治『日本の行く道』と堀井憲一郎『若者殺しの時代』

日本の行く道 (集英社新書 423C) (集英社新書 423C)日本の行く道 (集英社新書 423C) (集英社新書 423C)
(2007/12/14)
橋本 治

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若者殺しの時代 (講談社現代新書)若者殺しの時代 (講談社現代新書)
(2006/04)
堀井 憲一郎

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橋本治『日本の行く道』を読む。タイトルは非常にシンプルだが、内容は「日本の行く道とは?」みたいな明快な提言には決してなっていない。橋本治らしく、まだるっこしい論法で(でも誠実に)ひとつひとつの「NO」をつぶしていくような文体で、結論に辿り着こうとする。

出発点は「日本は、なにか変」。いじめ問題、地球温暖化etc……様々な日本の「行き場の無さ」とそれによる閉塞感を語っていく。で、辿り着いた提案が「産業革命以前の段階に戻せばいい」。それは無理だとしても「高層ビルを解体してしまえばいい」。無茶な提案である。実現は、まあ、不可能だといっていい。ただ、ここにヒントがあるとするならば、「もういいじゃないか」という一言になるんだと思う。

学校ではおそらく、「貿易」というものを、「国同士で、必要のあるものをやりとりする」というふうに教えるでしょう。「物の売買」も、同じように理解されるはずですが、でもこれは、現実のありようとは大きくかけ離れています。現実には、「いらないかもしれないけど買え。これは必要なはずだから、これは便利であるはずだから買え」ということが、売買の原則になってしまっています。(中略)「必要か不要かを無視して、”ほしい”と思ったものはどんどん買え。なぜならば、個人消費こそが、景気の動向を左右するのだ」という考え方は、この産業革命以来のあり方をストレートに受け継ぐものです。だから、「もうそんなのいいじゃないか」という成熟した声が、地球の上に生まれたっていいのです。

これとほぼ同じことが、堀井憲一郎『若者殺しの時代』の中で書かれている。著者のバックグラウンドも、テーマも主張も全く違う二冊ではあるが、「日本の閉塞感」ということに触れると、同じ理由にならざるを得ないのかもしれない。

僕たちの社会は、ずっとがんばってきた。明治維新からがんばって大きな敗戦をくらい、大敗戦からまたがんばった。1945年。僕たちの社会はとりあえず国をあげて、経済発展に取り組むことになった。みんなで豊かな社会をめざすことにした。オーケー。1945年の誓いだ。豊かな社会は達成された。誰もなんとも言わないが、1945年から始めたレースはだいたい1995年にゴールに到達した。五十年かけてのゴールだ。(中略)
でも、誰も区切りをつけなかった。1945年の誓いを守ったままなのだ。現場の声は届かず、司令部は戦い続行を命じる。ここでもカラダよりもアタマなのだ。だから停滞しはじめたのだ。問題はここにある。五十年かけて作ったシステムを、誰も手放すことができなかったのだ。ゴールしたことも知らされなかった。そのまま走り続けた。1995年のゴールから十年。無意味に走り続けたのだ。息も詰まってくるはずである。でも次なる目標が設定されない。目標がおもいつかないのだ。おもいつかないのなら、しかたがない。

誰もが消費によって充足する時代は、もう終わったのだ。日本は十分に豊かになった。“豊かでない”という状態がスタート地点にないかぎり、それはゼロではなくマイナスになる。貧乏は相対的なものになる。格差社会と言われているものの多くの原因は、そこにあると僕は思っている。

消費することがそのまま自己表現に繋がるという「80年代パルコ的価値観」も、もう有効性を失い始めている。でも、メディアも、広告も、そこから脱することはまだ出来ていないように思う。

団塊〜バブル世代の先人たちは、「もういいじゃないか」と警鐘を鳴らすだけですむかもしれない。けれど、その下の世代にとっては、新たな価値観を、新たな目標を設定することが「生きやすさ」への必要条件になるのではないだろうか。