■フェスをどう語るか
久しぶりにブログ更新。ずいぶん時間があいてしまったけれど、今日はレジーさんの新刊『夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる』について書こうと思う。
昨年12月に刊行されたこの本。前にもツイッターで書いたけれど、読んだ後の最初の印象は「こういうの書こうと思ってた!」だった。
今日発売のレジーさんの『夏フェス革命』読了。参考文献に『ヒットの崩壊』があり僕の文章が多々引用されているのもあるのだけど、読了後の第一印象は「こういうの書こうと思ってた!」でした。帯にある通りフェスやエンタメビジネスについての必読書の一つだと思います。https://t.co/usADApLept pic.twitter.com/g6YbLiKZSw
— 柴 那典 (@shiba710) 2017年12月11日
参考文献に『ヒットの崩壊』があり僕の文章が多々引用されているというのもあるけれど、その理由としてはこの本がロック・イン・ジャパン・フェスティバル(以下ロック・イン・ジャパン)を主な題材にしたものだということがすごく大きい。
ロック・イン・ジャパンにまつわる言説って、その動員数や規模や存在感に比べるととても少ないのです。今の日本の「フェス文化」の起点は1997年のフジロックの初開催にあり、そこから00年までの3年間にライジング・サン、サマーソニック、ロック・イン・ジャパンと現在まで続く「4大フェス」が初開催されて広がった、という言説は一般的に広まっている。しかし、本書のように「フェス文化を象徴するロック・イン・ジャパン」という論を書籍ベースで展開するものはほとんどない。
その理由は端的にあって、それはおそらく音楽にまつわる書き手の多くが「行ってない/取材してない」ということもその一因なのではないかと思う。本書で引用されている『フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて』で著者の「南兵衛@鈴木幸一」さんが書いている一節がとても象徴的。
ロック・イン・ジャパン
2000年8月12日13日茨城県ひたちなか市国営ひたち海浜公園で初開催。その名が二重に示すように、雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」を編集発行する株式会社ロッキング・オンの事業として、さらに日本の国内アーティストのみによるラインナップで開催を重ねる。すいません、著者は全く未見です。( 『フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて』より引用)
フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて (マーブルブックス)
- 作者: 南兵衛@鈴木幸一
- 出版社/メーカー: マーブルトロン
- 発売日: 2006/05/01
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「すいません、著者は全く未見です」って書いちゃうんだ!という驚きは正直あるけど、それはさておき、この一節はとても象徴的な意味を持っていると僕は思う。そのフレーズは「フェスは体験者の言説として語られる(べき)ものだ」という無意識の前提を含有している。
そして、フジロックに毎年行くようなタイプの書き手は、小規模な野外フェスやキャンプやレイヴに足を運ぶことはあれ、ロック・イン・ジャパンに足を運ぶことは少ない。たとえばさまざまなフェスのオーガナイザーへの取材をまとめた『野外フェスのつくり方』という本には「プライベートな野外パーティから大規模野外フェスまでを網羅!」というキャッチフレーズがあるけれど、そこではロック・イン・ジャパンのことはスルーされている。
(フジロックを主催するスマッシュやサマーソニックを主催するクリエイティブマンと違って、メディア企業であるロッキング・オンとその社長の渋谷陽一氏が「オーガナイザーとしてのスタンスやフェスの設計を語る取材」をほぼ受けていないというのもあると思う)
- 作者: 岡本俊浩,山口浩司,庄野祐輔,taxim,MASSAGE編集部
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
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また、『夏フェス革命』でもたびたび引用されている『ロックフェスの社会学』という本は書き手の目線で書ききるというよりフェス参加者への聞き取りからもとに論が組み立てられていて、そこからとても興味深いロジックが展開していく名著だと思うのだけれど、そこで取り扱われているフェスもフジロックが中心になっている。
ロックフェスの社会学:個人化社会における祝祭をめぐって (叢書 現代社会のフロンティア)
- 作者: 永井純一
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ただ、ロック・イン・ジャパンは、フジロックとも、サマソニとも、ライジングサンとも、その他の数々の邦楽系ロックフェスともちょっと違う独自の力学で動いているフェスだと思うのです。そして、そこに毎年集まるお客さんたちからは、他の場所にはない独自の文化圏が立ち上がっている。僕は「ロッキン文化圏」という言葉を使って前にこのブログに書きました。
『夏フェス革命』のレジーさんはその「文化圏」の形成とその変容をつぶさに見てきた書き手で、それは彼が2012年からブログに書いてきた「ロックインジャパンについての雑記」にも表れている。
そもそも音楽に大して関心のない人たちが紛れ込んでるんじゃないかと思います。これは00年当初とは決定的に違う。
(レジーのブログ「ロックインジャパンについての雑記1 -RIJF今昔物語」より引用)
その体験をベースに、「メーカーやコンサルティングファームで事業戦略や新規事業・新商品開発、マーケティング全般に関わる仕事に従事している」という著者が、ある種フラットな視線でフェスを語ったのがこの一冊。
ステージの上のアーティストが主役だった時代から参加者が主役になった10数年の(ロッキン文化圏を中心にした)フェス文化の変化を、「協奏」(共創)というビジネス的なキーワードで語る一冊になっている。
■プラットフォームとしてのフェスの権力構造
「協奏」(共創)については、著者インタビューでこんな風に語られている。
ここ数年、ビジネスの分野で「共創」という概念がよく言われるようになっているんですが、本書で掲げた「協奏」という考え方はこの「共創」を下敷きにしています。「共創」というのは文字通り「企業とユーザーが共に価値を創る」ということなんですが、もう少し紐解くと、企業が「私たちが素晴らしいと思うものを作ったから、ぜひ買ってください」もしくは「あなたたちはこんなものが好きだということが調査でわかりました。それを作ったので買ってください」と一方的に投げかけるのではなくて、ユーザーの意見や行動をタイムリーに取り入れながらそのビジネスのいちばん良いやり方を作っていく、ということになると思います。
――それは、マーケティングの世界では、割と一般的な概念なのでしょうか?
本の中でも挙げているのですが、日本で2010年に出版されたフィリップ・コトラーの『コトラーのマーケティング3.0』(朝日新聞出版)で「共創」という概念が提唱されています。その後、ソーシャルメディアが浸透していくにつれて、だんだん具体的な施策としても形になってきているように思います。ただ、「共創」を掲げている企業の多くが「共創のための場」を人工的に作って、そこで人を交流させたり、商品開発のための意見交換をさせたり、というレベルで終わっているように感じます。それが本当に何か意味のある取り組みになっているんだろうか、というのは常々疑問に感じる部分もあって。
(realsound「“フェス”を通して見る、音楽と社会の未来とは? 『夏フェス革命』著者インタビュー」より引用)
おそらく20年後、30年後から今の2010年代を振り返るならば、それは「ソーシャルメディアが社会を変えた10年」ということになるのだと思う。フェスを軸に考えると、音楽を巡る場の変化が社会の変化と密接に絡み合っていた流れがすごく見えてくる。
ツイッターが浸透し、スマートフォンが普及し、「現場で体感するもの」としてのエンタテインメントが大きく支持を伸ばしていった。もちろん、2011年の東日本大震災も大きな影響もあった。
ただその一方で、サッカー日本代表戦後の渋谷スクランブル交差点が象徴するように、「本来のコンテンツそのものとは関係ないところで、参加者が“おそろいの服を着て騒ぐ”のが楽しい」というような構造も現出した。また、過去にこのブログで書いたように、そして本書でも書かれているように、日本においてハロウィンがキャズムを超えたのは2012年。それも本来のハロウィンの由来とは関係ないところで出現した、「新しい都市型の土着の祭り」だったのだと思う。
そういう変化をつぶさに見て取れる一冊になっている。
個人的に最も刺激を感じたのは「おわりに」に書かれた部分。クラシック音楽の聴かれ方について書いた名著『聴衆の誕生』をひきつつ、18世紀の演奏会と21世紀初頭のロックフェスの風景を「社交の場、異性の視線、音楽に一生懸命耳を傾けようとする者との混在」という構造は同じだ、と位置づける。
もう一方では、フェスを「プラットフォーム」として捉え、そこにある権力構造を見出す。
フェスのタイムテーブルがヒットチャート替わりだとすると、フェスに出演しないということはすなわち「圏外」の存在であることを意味する。ということはつまり、フェスはブッキングパワーを駆使して特定のアーティストを「圏外」に追いやることができるのである。
(『夏フェス革命』より引用)
このあたりは、アーティストにも「自分たちが主宰するフェスを立ち上げる」という選択肢があり、それが実際に各地で成功を収めていることからも、GoogleやamazonやFacebookなどのグローバルなプラットフォームと同列に「プラットフォーマーが強くなりすぎる問題」として語るのは慎重になるべきかも、という気がする。
■2018年のフェスの風景はどうなるのか
2018年はフジロックにケンドリック・ラマーとN.E.R.Dがヘッドライナーとして出演することが発表されている。先日には第2弾出演者が発表され、サカナクション、BRAHMAN、マキシマムザホルモン、ユニコーン、Suchmosら日本のアーティストが多く名を連ねた。
一方、サマーソニックはベック、ノエル・ギャラガー、チャンス・ザ・ラッパーらを第1弾出演者として発表。現時点では第4弾までアナウンスされ、ソニックマニアにはフライング・ロータスの主宰レーベル・Brainfeederとのコラボレーションステージが登場することがアナウンスされている。
ロック・イン・ジャパンの出演アーティストはこの記事を書いている時点ではまだ発表されていないが、昨年にヘッドライナーをつとめたB'z、桑田佳祐、サカナクション、RADWIMPSという並びを考えても、よりマスに訴える力を持ったアーティストがヘッドライナーをつとめるのではないかと思っている。
(個人的な勝手な予想では星野源と米津玄師が有力なのではないかと思う)
ただ、フェスを巡る言説自体も、5年前と今とでは徐々に変わってきている。このあたりの変化はまだ肌感覚でしか感じ取っていないものだけれど、おそらく、今年の夏あたりから顕在化していくような予感もする。