レディー・ガガのセカンド・アルバム『ボーン・ディス・ウェイ』が5月23日に発売される。
ボーン・ディス・ウェイ (スペシャル・エディション(2CD)) (2011/05/23) レディー・ガガ 商品詳細を見る |
ひょっとしたら、今の日本で彼女ほど「批評されていない」洋楽アーティストはいないんじゃないだろうか。もちろん、知名度は抜群にある。セールスもある。Android auのCMもガンガンOAされてるし、“生肉ビキニ”の頃から奇抜なパフォーマンスは数々のニュースを賑わしてきた。そういう風に「セレブを面白がる」ような切り口で取り上げられることも多い。そのファッションを取り上げた雑誌や書籍も多く刊行されている。でも、音楽を批評する役目の人がレディー・ガガに関して語るべきことが、ほとんど語られていない気がするのだ。
レディー・ガガは一体何をしようとしているのか、どうして変な格好をするのか、どういうメッセージを放っているのか。何故時代の象徴=ポップ・アイコンになったのか。そういうことが、もっと語られてもいいと思う。
そう思った発端の出来事は、去年の秋に出たSNOOZER「洋楽文化絶滅カウントダウン」特集に収録されたクロストークを読んだこと。
(前略)小林「これからCDの売上げ伸ばすのは無理ですよね」
川原「でも、こうして見ると、売れてますよ(笑)。邦楽でも1万とかじゃ大変じゃないですか? そっから見れば。レディー・ガガなんて、26万4千枚売れてるんだ」
●『ザ・モンスター』とかリミクスの方が売れてるって噂もあります。『ザ・モンスター』はお得感があるから。
川原「けど本当、10年前とかだったら、300万枚とかっていうレベルだったと思いますよ。でも、オリコンでもずーっと上の方入ってるじゃないですか? 邦楽の中に混じって。洋楽が売れないとは思わないんだよな」
田中「でも、レディー・ガガは売れるっていうのは、10年遅れで日本でセレブリティ・カルチャーっていうのが一般化したことの反映でしかないと思うけど。有名人の関連アイテムとして売れてることでしかないから。レディー・ガガが音楽を作る人じゃなかったら、そっちの方が売れるだろう、みたいな」
●ああ、服だったら服が売れただろう、と。
田中「そうそう」
これは、さすがに読んだ時にがっくりきた。もちろん雑誌のスタンスとしてインディー勢を中心にエッジの立った音楽カルチャーを紹介していくのは批評軸として全然ありだと思うし、そうなるとレディー・ガガというのは「仮想敵」になるだろうから乱暴な切り口で語るのは当然だと思うんだろうけど、それをセレブのファッションアイテムでしかないと断じてしまう時代解釈はさすがにズレ過ぎてるだろう、と。26万4千人に対して「音楽なんて興味ないんでしょ?」という態度をとるなら、そりゃあ当然「洋楽文化絶滅」だろう、と。
ロッキング・オン誌の昨年6月の表紙巻頭特集も、ライヴレポートとインタヴューと論考からなる興味深い内容だったけれど、以下のリード文は、正直ピンとこなかった。
ガガの表現には、その根源にウォーホルやボウイ、クイーン、そしてキューブリックといったポップ・アートに宿る「気の狂れた美」が息づく。国も時代もすっ飛ばし、それらのリファレンスをつぎはぎして人間ポップ・アートになる。そしてそれは、最初から何もかもが破壊されていて、何が正義かとか何が標準かとか、正しいロックやポップの物語は何なのかとか、そういう価値判断そのものがもはやストリートレベルでは存在しない――そんな今という時代の象徴として、あっというまに伝搬していった。
正直、「うーん、何が言いたいのかなぁ……」と読んでて思ってしまった。この手の力んだ文章よりも、ソーシャルメディアの専門家が書いた下のブログ記事のほうが格段に「ガガが時代の象徴としてあっというまに伝搬していった」理由がすんなり納得できた。
レディー・ガガはソーシャルメディアをたくみに活用し,米国でも最も強力なブランドの一つに成長した。
「レディー・ガガに学ぶソーシャルメディア活用最前線」
http://blogs.itmedia.co.jp/saito/2010/02/post-e25c.html
つまりガガは「ソーシャル時代に生まれた最初の巨大なバイラルスター」だ、ということ。上記2誌は、00年代の音楽消費とコミュニケーションにおいてソーシャルメディアが最重要の役割を果たすことになったことを「見えてない」もしくは「見ないふりをしている」がゆえに、ピントの外れた文章になったのだろう、と思っている。
とはいえ、いまやアメリカやイギリスでソーシャルメディアを活用「していない」ミュージシャンなんて、殆どいない。myspace発のブレイクなんてそれこそ00年代半ばからあったし、YouTubeだってFacebookだってtwitterだって、皆やっている。それらのアーティストとレディー・ガガとの大きな違いは、「アーティストの“生き様”自体がバイラル・パワーの源泉となっている」ということ。そこで奇抜なファッションや挑発的なパフォーマンスが活きてくる。
上記の映像で「彼女の衣装やパフォーマンスに無関心でいられない。彼女の“存在”自体が話題なの」と語られているのは、そういうこと。そして大きな意味を持つのは、その挑発的なパフォーマンスをポップ・アイコンとして誰かに「やらされている」のではなく、レディー・ガガ本人の発信としてやっているということ。今のポップ・ミュージック・ファンは、仕掛けられたバイラル・マーケティングに安々と乗っかるほど尻軽じゃない、と僕は思っている。いくら奇抜な格好をしたって、それが単なる話題作りだと見抜かれたら熱は醒める。「アーティストの“生き様”自体がバイラル・パワーの源泉となっている」ということを徹底したからこそ、ガガは「ソーシャルメディアの女王」になったと思うのだ。
そういう意味では、前述のロッキング・オンの特集でライターの小田島久恵さんが
ガガがインタヴューで「もし自分が70年代に生きていたら、ウォーホールのミューズの一人で終わっていた」と語っているのが面白い。21世紀を生きる彼女がメジャーなスターになったのは、70年代と現代ではコンテキストが全く違うからだ。
と語っているのは、非常に納得がいく。レディー・ガガは尊敬するアーティストとしてデヴィッド・ボウイとアンディー・ウォーホールを挙げている。どちらもカウンター・カルチャー的な価値観を持ちながら「存在自体が話題」となることで巨大なポップ性を獲得したアーティストである。クラウス・ノミやグレース・ジョーンズも敬愛するガガにとって、過去のキワモノ・スターたちは全て自分の先祖のようなものだろう。彼らの存在はガガを勇気づける。ガガがこの時代に巻き起こそうとしているのは、かつて存在したエキセントリック・ヒーローが生きた「祭り」の時間だからだ。
ただし、ここで語られている「祭り」というのは、かつてはテレビや雑誌などメディアが旗を振り「上から情報が降り注ぐ」ようなメディアのコンテクストの中で成立したものだった。しかし、それは今の時代においては、twitterやFacebookなど様々なリアルタイム・ウェブを発信源としたユーザー発の共時的な体験として、いわば「下から無数の泡が生まれる」ように成立するものへと変化している。21世紀には、「祭り」は「ソーシャルストリーム」として具現化するものになっている。
僕はレディー・ガガを「ソーシャルメディア時代のアンディ・ウォーホル」だと思っている。そう考えると、そのポップ性も、話題を呼ぶ振る舞いも、すごく腑に落ちる。ちなみに、ガガはウォーホールの名言「15分で誰でも有名人になれるだろう(In 15 minutes everybody will be famous.)」を、文字通りの形で実現することになるのだけれど、その話はまた今度。
もう一つ興味深い記事があった。
「誰もがLady GAGAになれるわけではないけれど」
http://agora-web.jp/archives/1276349.html
上記は、DVDのインタヴューでガガ本人が語っていた言葉。上に書いたようなことは、レディー・ガガ本人はデビューの時点でクリアに見えていたのだろう。だからこそこれだけの巨大な成功を果たしたのだと思う。やはり、とても聡明な女性だと思う。「音楽とはもはやCDやカセットのような媒体の中にあるものではなく、ネット上に流れて公開され、共有されるファイルでありストリーム」
そして、もう一つ大事な要素がある。彼女は常にマイノリティ側の人間であり、それをしっかりと公言してきたということ。
「私はゲイ・カルチャーをメインストリームに注入したいの。アンダーグラウンドなんかじゃないわ。私の人生のすべて。私がやりたいのは、世界をゲイに変えること」
これも、レディー・ガガ本人の発言。これは新曲“ボーン・ディス・ウェイ”に繋がる軸になっていく。
ちょっと話が長くなりすぎたので、今日はここまで。次回は「レディオヘッドvsレディー・ガガの仁義なきバイラル戦争」について。