「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」について、
ライムスター宇多丸さんの「ザ・シネマハスラー」
http://www.tbsradio.jp/utamaru/2012/02/218_documentary_of_akb48.html
で熱く語られているのを聴いて、「観ておかないとな」と思って、TOHOシネマズ渋谷で観てきた。公演終了のギリギリのタイミング。
端的な感想を言うと、とても面白かった。AKB48のコアなファンでなくとも、画面を通してにじみ出てる“リアル”を感じ取れるドキュメンタリー映画だ、というのが第一印象。宇多丸さんの言葉を借りるなら、間違いなく「今一番売れている人が、一番攻めてる」ことを如実に示している。アイドルを支えている構造が必然的に持っている残酷な側面、今までどんなアイドルもオフィシャルには見せなかった裏側を、さらけ出してしまっている。
2011年のAKB48の活動を追った作品の柱は、主に四つ。「震災以降、東北を何度も支援に訪れるメンバーと、仙台で被災した研究生」「第3回総選挙」「西武ドーム公演の1日目、2日目」「チーム4の発足と謹慎問題」。被災地の風景も盛り込みながら進んでいく全体のストーリーの軸は「3・11」に沿っているのだけれど、ハイライトはやはり「西武ドーム公演」。ここでメンバーに容赦なく課せられる「負荷」にある。
はっきり言って、文句なしに壮絶。戦場と言っても過言じゃない。1日目は舞台裏の動線や指示が混乱している様が映し出される。終演後に秋元康がメガホンを手に「今までで最悪の公演でした」と言い放つ。ここも宇多丸さんの言葉を借りるけれど、ここで物語上、舞台監督などスタッフ側の不手際は不問にされている。そのダメさは「メンバーが乗り越えるべき試練」として描かれ、深夜の暗がりの中チームAのメンバーがダンスを練習したりする。
そして2日目。全員が気合を入れて望むのだが、こんどは当日のリハーサル段階から前田敦子があまりの重圧のために過呼吸で倒れる。直前で何とか回復するも、いつ再び倒れてもおかしくない限界状況の中、開演。中盤、先の総選挙でセンターを獲得した“フライングゲット”を歌うためにギリギリの体調でステージに現れたものの、明らかに呼吸がおかしい。それを隣の高橋みなみが(客席にはあくまで笑顔を見せつつ)深呼吸するようそっとサポートする。
前田敦子だけでなく、ステージが進むに連れて他のメンバーたちもどんどん倒れていく。熱中症で動けなくなり、過呼吸で胸を抑え、氷嚢と酸素吸入器で意識をつなぐ。アンコール前には大島優子も、そして全員を支えてきた高橋みなみもくずおれてしまう。
そんな中、「アンコール!」という大観衆の声援が、彼女たちを駆り立てる。
そういう、肉体的な負荷の極限としての西武ドーム公演を、メンバーに容赦なく降り注ぐ精神的な負荷としての「総選挙」と「謹慎問題」が挟む。そういうギリギリのところで「頑張っている」アイドルが、被災地の子供たちを励ますという構成。
これを観てどう感じるかは、それぞれの自由だと思う。感動する人もいるはずだと思うし、ちょっと受け入れられないと思う人だって当然いると思う。僕が強く思ったのは、以下のこと。
AKB48を自殺対策強化月間の啓発キャンペーンのキャラクターに起用したという内閣府は、このドキュメンタリーを観ても、本気でそう思えるのか!?
ということ。
もちろん重圧に押し潰されそうになりながら、重荷に耐えながら、孤独に向き合いながら、「傷つきながら夢を見る」少女達の姿はすごく美しいとは思う。そして、基本的に「多人数参加型のゲーム」として設計されたAKB48というシステムが結果的な一人一人のポテンシャルを高く引き出しているということには強く同意する。
でも、それと「自殺対策への起用」は別だろう、と思うのだ。
「今を生きるアイドルの素顔から、日本の未来が見えてくる」
というキャッチコピーで、ここまで残酷に「踏み込んだ」ドキュメンタリーを見せているのが、今のAKB48だ。「死ぬ気でやろうぜ!」と円陣を組んで激を飛ばす高橋みなみの侠気はちょっと身震いするくらい格好いいし、「私のせいで」と過呼吸のなか自責を繰り返し、無理をおして周囲から止められてもステージに立とうとする前田敦子の姿も胸に迫る。
でも、それって見方によっては、過重な労働環境の中、自分の体力と精神力を削って思いつめてしまう人たちの合わせ鏡とも捉えられるわけで。
どっちかと言うと、そういう人に届くべき言葉は「限界を超えようぜ」よりも「しんどかったら逃げだしてもなんとかなるよ」の方だと思うので、むしろAKB48というシステムを離れてもそれなりに上手くやってる“元メンバー”あたりを起用したほうがいいんじゃないの?とか、思ったりもしてね。