Spotifyで田中宗一郎さんと三原勇希さんが新しく始めたポッドキャスト「POP LIFE The Podcast」にゲスト出演しました。
そこで喋ったことなんだけれど、これも自分にとってはわりと大事なことなんで、ちゃんと文字にしてブログに残しておこう。
僕の好きな音楽の中に、根底に「居場所のなさ」とか「寄る辺のなさ」みたいなものを抱えたものがある。それは単なる孤独とか、仲間外れの疎外感とか、会えなかったり心を通じ合えなかったりすることの切なさとか、そういうものとはちょっと違っていて。
どっちかと言うと、虚無感と高揚感が背中合わせに同居している感覚、というのが一番近いのかな。そして、その背景には「無常観からくる、理由のない、そこはかとない物悲しさ」のようなものがある。
そういう情感についての話。
■「エモい」は音楽ジャンル由来の言葉
「エモい」ってなんだろう?
そのことを最近ずっと考えていた。
まず大前提としてはっきりと言えるのは、「エモい」は、音楽の分野から広まった言葉だということ。「emotional」が由来と言われることが多いけれど、実のところ、そのルーツは英語圏で言われる音楽ジャンルの「Emo」 (発音は”イーモゥ”)から来ている。
上記の辞書サイトやWikipediaでもそのことは触れられている。
dictionary.sanseido-publ.co.jp
「Emo」という音楽ジャンルが英語圏でポピュラリティを得たのは、だいたい90年代半ばくらいのこと。日本語圏の人のあいだではここ数年になって突然こういう言い回しに出会ったような感覚の人も多いかもしれないけれど、少なくとも、ロキノン育ちである僕は、「エモ」という言葉を20年くらい使ってる実感がある。
じゃあ「エモ」ってなんだろう?
ジャンルとしてではなく、感情の動きとしての「Emo」ってなんだろう? 改めて、最近、そういうことを考えるようになった。
きっかけは、エモ・ラップにハマったこと。より正確に言うなら、自分の好きになった音楽が英語圏でそうカテゴライズされるようになっていったこと。
最初は何の前情報もない段階で、Lil PeepとLil Pumpを見分けるところから始まった。どっちもXXXTentacionの周辺を調べたり探ったりしていくうちに知った。Lil Peepが「Benz Truck」を発表したときだから、2017年の6月頃のこと。その時にLil Pumpは「Boss」を出してた。
まだその界隈が「SoundCloud rap」とざっくり括られてるころで、二人とも世に出てきたばっかりで、名前も似てるし、最初はごっちゃになってた。でもやってることは全然違っていて。個人的にはLil Peepのほうにがっつりハマっていった。
当時はまだ「エモ・ラップ」という言葉は出てきてなかったんで、「グランジ・ラップ」というタームを作ってリアルサウンドに紹介原稿を書いた。
(国内と海外の音源を両方紹介しようと思ってたんでセレクトしたんだけど、今思うとtofubeatsをそこに混ぜたのは筋悪だったなー)
で、Lil Peepのデビューアルバムの『Come Over When You're Sober,』がリリースされたときには『MUSICA』編集部にかけあってレビューを書かせてもらった記憶がある。
(ちなみにPodcastではタナソーさんと宇野さんはLil Pumpのほうが全然好きだったそうな。収録のときは自分のことをしゃべるので一杯一杯だったけど、それも興味ある話だな)
Soundcloud Rapを「自分好み」と「自分好みじゃないもの」にわける作業から始まって、「自分好み」のラベルを貼ったものは、その後、ほとんど英語圏で「Emo Rap」にカテゴライズされるようになって。そこで「あ、自分が好きなのはEmo Rapなんだ」って再発見したようなところがある。
でも、最初は「Emo」と「Emo Rap」って、つながってないじゃん?とも思ってたんです。というのもJimmy Eat Worldとかthe Get Up Kidsとか、ああいうEmoの代表格と言われるバンドは、当時のパンクシーン、いわゆる90年代のメロコアシーンの派生のようなものとして自分の中で位置づけていたから。もちろん掘っていくとWeezerがいるし、あとはワシントンDCのポスト・ハードコアとかいろいろ源流があるんだけど、その話はちょっと置いておいて。
■源流としての The Postal Service
自分の中で「Emo」と「Emo Rap」がリンクした、「これだ!」となったきっかけが、The Postal Serviceの『GIVE UP』という2003年のアルバムを聴き直したことだった。
つまり、Emo Rapの「Emo」側のルーツがThe Postal Serviceなんじゃないか、と思ったわけです。Death Cab for Cutieのベン・ギバート(Ben Gibbard) と、Dntel=ジミー・タンボレロ (Jimmy Tamborello)が結成したユニット。残したアルバムはこれ1枚。
でも、ポッドキャストでもタナソーさんが解説してるとおり、日本ではそんなに騒がれなかったけど、その後のアメリカのシーンに与えた影響は計り知れないものがある。
特に好きなのが「District Sleeps Alone Tonight」という曲。この曲をじっくり歌詞を読みながら聴くとと、「ああ、この感覚がいわゆる”Emo”なんだなあ」と、思うようなところがある。
I'll wear my badge
A vinyl sticker with big block letters adhering to my chest
That tells your new friends
I am a visitor here
I am not permanent
And the only thing keeping me dry is
Where I am
(ぼくの胸には、貼りついて剥がれないビニールのステッカーみたいにバッチがついてる。そこには大きく太字で「部外者」って書いてある。ここの人じゃないってことを、新しい友だちに教えるバッチ。ぼくの心がずっと渇いているたった一つの理由は、じゃあ、ぼくはどこにいるんだろう、ということ)
ポッドキャストの中では『13の理由』の話もして、10代のスクール・カルチャーの中での疎外感みたいなところにつなげちゃったんだけど、もうちょっと根源的なものがあるような気もするんだよなあ。
というのも、日本にはずっと昔から「エモい」に相当する言葉があるから。これは僕じゃなくて、 日本語学者の飯間浩明さんが言っていたこと。
古代には、「エモい」とほとんど同じ用法を持った「あはれ」ということばがありました。「いとあはれ」と言っていた昔の宮廷人は、今の時代に生まれたら、さしずめ「超エモい」と表現するはずです。(「今年の新語2016」選評より) https://t.co/Mq1ppMDe2c
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) December 5, 2016
すごく腑に落ちる。
で、さらに解釈を重ねて、僕が「Emo」に感じる情感のようなものを踏まえて「エモい」を読み解くなら、やっぱりそれは「無常観からくる、理由のない、そこはかとない物悲しさ」みたいな感慨をあらわす言葉なんじゃないか、と思ってる。
で、これも大事なことなんだけど、「エモい」というのを、物悲しいとか寂しいとか切ないとか、それだけの感情と言い切ってしまうのも違う感じがする。
どっちかと言うと、喜びというか、祝福というか、救いというか、そういうものも「エモい」に含まれている感じがする。それが躍動感とか高揚感に結びついているというか。たとえばThe Flaming Lipsのライブも「超エモい」、すなわち「いとあはれ」と思うから。
無常観の裏側には「それが一回限りの刹那であることがあらかじめわかっているがゆえの”生の肯定”」みたいなものもあって。
そういうのも「エモい」よね、と思う。