日々の音色とことば

usual tones and words

再掲:イチローと証券会社のCMと戦争について

以前にやっていたブログから、自分の思考の記録として残しておきたい文章を、再構成してここにも掲載していこうと思う。

以下は、2006年3月22日に書いた文章。あのときに書いた「同じ文化の違う世代の闘い」ということは、赤木智弘の書いた「希望は、戦争」という言葉、彼が巻き起こしている反響として顕在化しているように思える。

ただ、僕の“釈然としなさ”は、今でも解消されてはいない。

*****

06-03-22(Wed)

 最近、イチローが出演しているCMで、どうしても解せないものがある。どういう意図で、何を考えているのかわからない。正確に言うと、大体わかるんだけどその真意を考えるとゾッとするというほうが近いかもしれない。日興コーディアル証券の“資産「100年」計画”というヤツだ。メジャーリーグ黎明期の白黒画像にイチローが合成されるやつ。最近はもうやってないのかな? まあ、いいや。

 商品の中身は分散投資のファンドだかなんだからしい(よく確認してない)が、こういうキャッチコピーをつけて大々的にCMが打たれるということは、その「資産を100年残す」という考え方に、人をキャッチする魅力があると考えられている、ということなのだろう。おそらくマーケティング対象は団塊の世代以上。これから退職金をゲットして運用でも始めようか、という人たちだろう。おそらく彼らは自分の子や孫にストックを継承しようとするだろうから、そのコピーがアピールすると考えるのは、確かに正しい。

 が、立場を変えて、たとえば20代の自分が「100年前の、顔も見たこともない誰だかの先祖」の残した金融資産のおかげで悠々自適な暮らしができる、というのを想像してみたらどうだろう。今から100年前は日露戦争のころだし、団塊の世代が若者だったころの100年前は廃藩置県のころである。ま、正直それくらいの昔から財産を受け継いできている「家」も実際にあるだろう。ひょっとしたら、僕のほうが鈍感なのかもしれない。が、少なくともそのコピーが示唆するのは「格差の永続的な再生産を肯定する社会」であるのは間違いない、と思う。

 今のメディアや社会が目の前の「格差」に敏感なのは、バブル時代に「マル金・マル貧」が持て囃されたのと同じ構造だと思う。が、その一方でこんな考え方がメディアで大々的に喧伝されていたりする。なんだか釈然としないなあ。

 もし日本という国に、将来的に何らかの形で「戦争」が起こるなら、それは「違う文化の同じ世代」じゃなくて「同じ文化の違う世代」の闘いになったりする可能性があるんじゃないだろうか?